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19-2 揺らぐ忠義、選ぶべき道2   

 

 その夜、カッパー侯爵のもとに密書が届けられた。


 静まり返った陣営の中、揺らめく燭台の光の下、机の上に一通の封書が置かれていた。誰が運んだのか、どのようにして届いたのか、誰一人として気づいていなかった。ただ、そこには確かにベルシオン軍の印が刻まれていた。


 震える指先で封を切ると、そこには短く冷酷な言葉が並んでいた。


『汝の妻子は我が軍が保護している。彼らの命運は汝の選択に委ねられている。投降し、オリバー王を討ち取れ。さすれば、全てを返還する』


 カッパー侯爵は密書を握りしめ、ふっと息を吐いた。目を閉じ、一瞬の沈黙の後、脳裏に数々の記憶が蘇る。


 戦場での最初の戦い。剣を振るう己の手は震え、血に濡れた土の臭いが鼻を突いた。「恐れるな、カッパー!」かつての上官がそう叫び、自ら敵陣へ突っ込んでいった。彼はその背を追い、命を賭して戦った。


 次に浮かぶのは、妻との結婚の日。彼女の白いドレスが風に揺れ、はにかんだ笑顔を見せた。誓いの言葉を交わし、小さな手を握りしめた瞬間、彼は初めて剣を持たぬ人生を夢見た。


 そして、最後に思い出したのは幼い息子の姿。草原で駆け回る小さな足、無邪気な笑い声。「父上、見て!」と誇らしげに木の剣を振るう姿を見て、彼は誓った。「お前に剣を持たせるような世にはせぬ」と。


 だが、今――その家族が奪われようとしている。


 カッパー侯爵はゆっくりと目を開ける。手の中の密書を握る指が震えていた。


「……許せ、オリバー王」


 彼は迷いを断ち切るように、蝋燭の炎に手紙を投じる。燃え盛る炎の中で、彼の迷いもまた焼き尽くされた。


 左翼に陣取っていたカッパー侯爵軍が中央のオリバー王軍に突っ込んだのは、それから間もなくのことだった。


 夜風が草を揺らし、闇の中をカッパー軍が静かに進む。遠くで犬が吠え、ふとした物音に兵たちが一斉に息を殺す。突如として火矢が放たれると、陣幕が燃え上がり、敵陣が地獄と化した。多くの者が眠りについていたオリバー王軍が、一気に無警戒の左翼から、自軍であるはずのカッパー軍1000に突き崩された。


「敵襲だー!」

「火をかけろ! 陣を焼けー! 王を逃すなー!」

「カッパー軍の裏切りだー!」

「王はどこだー!」

「うわー!」


 絶叫と号令と怨嗟と怒号と悲鳴と罵声が渦巻く。焦げた布と血の匂いが鼻を突き、火の粉が宙を舞う。剣が肉を裂く鈍い音が響く中、オリバー軍兵士は、武器を手にする間もなく討たれ、逃げ惑い、炎と煙の中で抵抗らしい抵抗もできず、同士討ちまで起こっていた。


 炎の揺らめく中、オリバー王は剣を抜き、必死に周囲を見回した。


「逃げねば……」


 しかし、次の瞬間、鋭い刃が彼の喉を裂いた。口を開くが、声は出ない。ただ、血が溢れ、ゆっくりと膝をついた。


 震える手で何かを掴もうとするが、空を切るだけだった。口がわずかに動く。


「……ま、だ……」


 その言葉が何を意味するのか、それを聞き取れる者は誰もいなかった。やがて、血が喉を塞ぎ、オリバー王は前のめりに崩れ落ちた。


「オリバー王が撃たれたぞー!」


 右翼を守っていたウイリアム伯爵は、上がる火の手を見るといち早く撤退を決断し軍を動かした。


「まずい!? このままでは全滅するぞ! 急ぎ撤退して城に戻る!」


 ウイリアム侯爵の英断にも関わらず、勢いに乗るカッパー軍とベルシオン軍の追撃に多くの兵が討ち取られ、かなりの戦力が削り取られたのである。


 太陽が闇を追いやる光と共に東の地平線から顔を出した頃、戦いは終わり、ルークの陣にカッパーがオリバー王の首を持って現れた。


 甲冑にこびりついた血と煤が、カッパー侯爵の戦いの激しさを物語っていた。重い足取りで進み出ると、彼は膝をついた。


 その顔には、疲労の色が濃く刻まれながらも、確かな誇りと決意が宿っている。


「ルーク様……」


 低く、しかしはっきりとした声が、静寂を破るように響いた。


 彼の手には、まだ生暖かさを残すオリバー王の首級が握られていた。


「トリオラ城のカッパーでございます」


 彼は深く頭を垂れる。


「ケルシャ城での采配、そして今回の戦――まさに武神の如き御働き。このカッパー、ルーク様に仕えたく存じます。これはオリバーの首……どうか、お改めください」


 カッパーは、恭しく曲げわっぱを差し出した。


 場に張り詰める緊張の中、すぐさま首実検が行われ、オリバー王のものであると確認された。


 ルークは静かに頷き、目の前の男を見据える。


「カッパー殿――お前こそ、見事な働きであった。オリバーを討ち取るとは、大きな手柄よ」


 その言葉に、カッパーの肩の力がわずかに抜ける。


「約束通り、妻子はお前に返そう。敵軍に捕まっていたことで、さぞ不安な日々を送ったことだろう。だが、丁重に保護していたゆえ、無事である」


「かたじけのうございます……!」


 カッパーの声には、安堵と忠誠の色がにじんでいた。

 その後、カッパーはウイリアム侯爵の説得に向かった。


 城内の執務室。重い沈黙が空間を支配していた。燭台の炎が揺れ、薄暗い部屋に影を落とす。


 ウイリアム侯爵は机に両肘をつき、こめかみに手を当てていた。刻まれた皺が、苦悩の深さを物語っている。


「我が軍は……もう戦えぬ……」


 しぼり出すような声だった。


 カッパー侯爵は一歩前へ進む。重い足音が石畳に響き、ウイリアム侯爵の耳に突き刺さる。


「お分かりでしょう、ウイリアム殿」


 低く、冷徹な声が部屋を貫いた。


「貴軍は崩壊寸前。これ以上の抗戦は無意味。いや、愚策ですらある。殿は何のために戦ってきた? 兵を殺し、国を焼かせ、何を守るつもりか……いや、何を守り残せるのか」


 ウイリアム侯爵は目を閉じた。


 指先がかすかに震える。唇を噛みしめ、苦渋の色を浮かべるが、カッパーの言葉が胸に深く刺さる。


「決断を。今、ここで」


 蝋燭の炎が揺れた。


 その揺らぎを映すように、ウイリアム侯爵の表情もまた迷いを孕んでいた。


 だが、次第にその迷いは消え、静かな決意へと変わる。


 やがて、彼はゆっくりと立ち上がり、低く息を吐いた。


「……分かった。私はルーク王に降伏し、その旗の下に入ろう」


 こうして、ウイリアム侯爵もまたルークへの忠誠を誓うのであった。



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