19-1 揺らぐ忠義、選ぶべき道
ケインズ隊千は、闇に紛れて間道を進んでいた。湿った土の感触が靴底から伝わり、冷たい夜気が頬を撫でる。遠くの森では、獣の遠吠えがかすかに響いた。トリオラ城の裏門が見え始めると、漆黒の城壁が夜空に沈み込むようにそびえ立っていた。石造りの壁には冷たい露が張り付き、月明かりを受けてわずかに光っている。一方、ルーク率いる本隊は、血の匂いを孕んだ風を受けながら、カッパー軍が陣を敷く戦場へと進軍していた。
ルークの眼前には、無数の戦旗が翻るカッパー軍が整然と並んでいた。旗の布が烈風にはためき、槍を握る兵士たちの指は白く強張っていた。鎧の擦れる音が、張り詰めた静寂を切り裂く。弓兵たちは矢を番え、鋭い眼差しを敵に注いでいる。指揮官たちは未だ動かぬベルシオン軍に警戒を強め、戦場には、嵐の前の静寂と鋭い殺気が漂っていた。獣が獲物を睨み据えるような、張り詰めた空気が支配している。
カードス川を越えようとすれば、無数の矢が降り注ぎ、盾で防ぎながら渡ったとしても甚大な損害は避けられない。加えて、橋頭堡を築く前に敵の猛攻を受ければ壊滅は必至。戦力が拮抗する状況では、先に動いた方が不利になるのは明白だった。
無策に突撃すれば、川を渡る前に敗れる。ならば、どう敵を動かすか――それこそが勝敗の鍵だった。ルークは指を組み、静かに敵陣を見据えながら、最も効果的な揺さぶりを考えていた。その瞳には、冷徹な計算と、兵士たちの命を背負う決意が宿っている。
両軍は静かに対峙し、機を見極めていた。
一方、ケインズ率いる別働隊は、トリオラ城の裏門へと忍び寄る。
「城門を開けろ!」
夜露に濡れた草が、兵の足元で微かに擦れる。ケインズは手を挙げ、全軍に静止の合図を送る。遠く、夜警の兵が灯りをかざしながら巡回していた。あと数歩進めば、発見される恐れがある。息を殺し、一歩ずつ慎重に前進する。
軋む音とともに、鍵のかかっていない裏門が静かに開かれる。小太郎の暗躍により、城門の鍵は事前に破壊されていたのだ。守備兵の数はわずか数名。奇襲に驚いた彼らは、ほとんど抵抗することなく制圧された。
「突入せよ! 城を落とす!」
『敵襲だ!』
甲高い叫び声が夜闇を切り裂いた。鋭い剣の閃きが閃光のように走る。城内に瞬く間に緊迫した空気が充満した。城兵たちは慌てて武器を取るが、ケインズ隊の兵たちが容赦なくなぎ倒していく。刃が鎧を裂き、血飛沫が壁に散る。床に転がる兵士の呻きが闇に吸い込まれ、鉄の匂いが鼻を突く。乾いた喉に、血の匂いが鉄の味となって広がる。武器庫が制圧されると、城兵たちの士気は音を立てて崩壊していった。
やがて、戦意を喪失した城兵たちは、次々と城を脱出していった。そして、わずか五分と経たぬうちに、トリオラ城にはベルシオン軍の旗が翻っていた。
その報せは、すぐにカッパー軍へと届けられた。
「我が城を取り戻すために、ここを離れることをお許しください!」
カッパー侯爵がオリバー王に直訴した。彼の顔には焦燥の色が浮かび、額には玉のような汗が滲んでいる。両手は強く握りしめられ、爪が掌に食い込んでいた。声は震え、必死に抑え込んでいた激情が滲み出る。
「ならぬ。」
オリバー王は静かに目を細め、鼻で笑った。彼の冷淡な声が戦場に響く。表情には微塵の情もない。
「目の前のルークを打ち取れば、敵軍は撤退するに違いない。」
「ですが、城には妻と子供がいるのです。一刻も早く助け出さねばなりません!」
「貴軍だけで向かっても、簡単に城を落とせるはずもなかろう。それにこの戦場が崩壊する。ここは堪えてくれ。」
「グ……」
言っても無駄だと悟ったカッパー侯爵は、奥歯を噛みしめた。拳を握る力がさらに強まり、爪が食い込み血が滲む。しかし、彼はもう一度深く息を吐き、頭を垂れた。忠誠とは何か。王への義か、家族への誓いか。心は激しく揺れ動いていた。




