閑話4 黒猫が抱える秘密
黒猫はイザベラの腕の中で小さく身じろぎした。痩せた体に柔らかな毛並み、そして――どこか知性を感じさせる琥珀色の瞳。だが、その体はわずかに震え、呼吸は浅く、不安げに尻尾を丸めている。
「この猫、何かを飲み込んでいるのかもしれませんね」
あやめが鋭い眼差しで猫を見つめる。ケンタ、トキヤ、ラオの三人も興味津々で覗き込んだ。
「ねえ、こいつ、口から何か落としたぞ!」
トキヤが指差したのは、猫の口元に転がった小さな光る物体だった。イザベラはしゃがみこみ、それを拾い上げる。
「……これは?」
指先に乗せたのは、親指の爪ほどの青い宝石だった。光にかざすと、まるで深い湖の底を覗き込むような透明な輝きを放ち、微かに揺らめく光が流れる。指先に触れるとひんやりとしており、ただの装飾品ではないことを感じさせる。
「宝石……?」
イザベラは眉をひそめる。
ただの貴金属とは思えない。何か特別な意味を持つものなのか――?
「ちょっと待って、それって……!」
ラオが一瞬息を飲み、目を見開いた。表情が強張り、慌てたように声を上げる。
「俺、見たことある! 市場の奥にある質屋で、盗まれたって騒ぎになってたやつだ!」
「盗まれた?」
イザベラが宝石をもう一度まじまじと眺める。確かに、これはただの装飾品とは思えない。
「……ということは、さっきの男が盗人で、この猫は何らかの理由でそれを持ち逃げした?」
「ありえるな」
あやめが腕を組み、冷静に状況を整理する。
「ですが、それにしては妙ですね。猫が偶然盗品を飲み込むとは考えにくい。盗賊が猫を利用して密かに運ばせたのか、それとも猫がもともと誰かの使いだったのか……?」
「じゃあ、どういうこと?」
ケンタが首をかしげる。
イザベラは少し考えた後、猫の額を撫でながら微笑んだ。
「それを確かめるためにも、まずはこの宝石の持ち主を探るべきね」
その時――
カツン、カツン……
小さな路地の奥から、複数の足音が近づいてくる。鎧のこすれる音、剣の柄を握るわずかな音が響き、不穏な気配を漂わせる。
「くそっ、衛兵だ!」
ケンタが顔をこわばらせた。トキヤとラオも思わず顔を見合わせ、息を詰める。
「どうして衛兵がこんな裏通りに……?」
イザベラの脳裏に、さきほどの男の言葉が蘇る。
「覚えてろ!」
なるほど……密告したのね。
イザベラは軽く息を吐くと、素早く周囲を見渡した。冷静に状況を分析し、次の行動を決める。
「……ここで捕まるのは厄介ね」
すると、ケンタがイザベラの袖を引いた。
「お姉さん、さっき言った抜け道、使おうぜ!」
「案内して」
イザベラは頷き、あやめとともに少年たちの後を追った。
衛兵たちの声が近づいてくる。
「怪しい連中がいると通報があったぞ!」
「市場の盗品がここにあるらしい!」
足音が大きくなる。
「さあ、逃げましょう」
黒猫を抱えながら、イザベラは秘密の抜け道へと足を踏み入れた。狭い通路を急ぎ足で進み、ケンタたちが互いに手を引き合いながら先導する。
衛兵の声が背後から響いた。
「待て!」
だが、すでに彼らの姿は闇に紛れつつあった――。
『地下の怪影』
ギィ……バタン!
突然、鉄の檻が軋むような音が響き、ガシャン! ランプの明かりが揺れ、石壁に不気味な影が踊る。
「な、何だ!?」
ラオが息をのんだ。額にはうっすらと汗が浮かび、震える足で後ずさる。トキヤが恐る恐るケンタの腕を掴んだ。
まるで何者かが這い寄るように、影が長く伸び、壁の隅へと消えていった。
イザベラとあやめもすぐに構えを取る。イザベラは戦闘時の呼吸を整えながら、慎重に周囲を見回す。あやめは敵の気配を探るように目を細め、腰に忍ばせた短刀を抜いた。炎の光が刃に映り込み、鈍く光る。イザベラはランプを高く掲げ、暗闇を照らした。
「……何かいるわね」
さっきまで聞こえていた滴る水の音すら止み、沈黙が耳を圧迫する。影の正体を確かめようと、あやめが静かに歩を進める。
その時――
カサカサカサッ!
まるで何かが壁を這い回るような、不自然な動きだった。
「ネズミか?」
トキヤが不安げに呟くが、ケンタは首を振る。
「違う……こんなに大きな音、ただのネズミじゃない」
イザベラは眉をひそめ、あやめは鋭く目を凝らす。
ゴトン――
さらに奥で何かが落ちる音がした。
「……何かいる」
イザベラは慎重に前へ進み、ランプを高く掲げた。炎の明かりが壁に映り込み、通路の先を照らし出す。
ぼんやりと浮かび上がった影が、ゆっくりと動いた。やがて、骸骨のように痩せた男が明かりの中へと姿を現した。
「……人?」
その男はボロボロの布をまとい、髪は伸び放題。暗がりに潜んでいたのか、目がぎらついている。落ちくぼんだ目は、ハンターのように鋭い光を帯び、獲物を見つけたようにギラついていた。
「……ぐ、食べ物……」
しわがれた声が響く。
「……飢えた人か」
イザベラは緊張を解かずに男を観察した。
「まさか、昔この地下に閉じ込められた囚人?」
トキヤが震えながら言う。
「違う……この人、地下道を住処にしてるんじゃない?」
ケンタが慎重に一歩踏み出した。
男の体が一瞬だけ硬直し、次の瞬間――まるで獣のように跳びかかった!
「うわっ!」
ケンタが悲鳴を上げる。
だが――
バッ!
その瞬間、あやめが男の腕を掴み、関節を極めて床に押さえつけた。
「ぐぅ……!」
男はうめき声を上げるが、あやめは微動だにしない。
「この地下に隠れて、食べ物を盗んで生きてきたのね」
イザベラは冷静に男を見下ろした。
「話してもらうわよ。この地下道のこと……全部」
男の目がぎらりと光った。
この地下には、まだ彼女たちの知らない秘密があるようだった。




