15ー1 銀狼の咆哮
「ベルシオン軍の奴らめ、城から打って出て来ぬようだな。出て来たならば一気に叩き潰してやれたものを!」
オリバー王は馬上で不機嫌そうに唸り、鋭い眼光を渡河地点に向けた。筋張った顎に短く刈られた髭が影を落とし、苛立ちを隠しきれない表情だ。鎧の上から深紅のマントを羽織り、腰に佩いた剣の柄を無意識に握り締める。その手が時折、わずかに震えるのは戦への焦燥か、それとも別の感情か。
「オリバー様、我が軍は戦の役に立てそうになく、早く川を渡って自領に帰りたく思います」
ユーロ侯爵は細身の体を鎧に包み、険しい顔つきで王を見上げた。彼の額には汗が滲み、渡河の遅れに対する焦燥と、ここで無駄に足止めされることへの苛立ちが見て取れる。銀糸の刺繍が施された紫の外套が風になびき、その衣の下で肩が小さく上下するたび、彼の内心の揺れが透けて見えるようだった。
「すまなかったな。ユーロ公爵、貴軍を先頭に渡河を始めよう。殿はオリボ伯爵の軍に頼むぞ」
オリバー王の声は若干低くなり、ユーロ侯爵を気遣うかのような素振りを見せた。だが、その瞳の奥には戦略よりも焦燥と苛立ちが渦巻いている。
「では、ユーロ様とオリバー様の軍から渡河を開始してください。続いて我がウイリアム軍、カッパー軍、オリボ軍の順でよろしいな」
ウイリアム侯爵は冷静そのものだった。長身痩躯の男で、淡々とした声には感情がほとんど感じられない。白銀の髪を後ろに束ね、青い瞳はまるで冬の湖面のように冷たく澄んでいる。彼の装いは飾り気がなく、機能美を重視した鎧に、控えめな家紋の刺繍が入った深青の外套をまとっていた。彼の姿勢はどこまでも静かで、戦の緊張を一切顔に出さぬその余裕が、逆に他の貴族たちを圧倒していた。
「はい」
ユーロ侯爵は短く返事をし、深く息をつくと、そっと手綱を握り直した。
「殿はこのオリボにお任せ下さい」
カッパー侯爵とオリボ伯爵が顔を見合わせ、静かに頷いた。カッパー侯爵は眉を寄せ、口元を引き結ぶ。すでに戦の結末を悟っているかのような表情だ。
対してオリボ伯爵は、大柄な体を鎧に包み、腕を組んでいた。彼の口元にはわずかながら皮肉めいた笑みが浮かんでいるが、その瞳には焦りの色が滲んでいた。
ユーロ公爵を含むオリバー王の軍隊が渡河を開始した。その情報は隠れ潜んでいたベルシオン軍の斥候によってケルシャ城に伝えられる。
* * *
軍議の帳の中、篝火の揺れる赤い光が鋼の鎧に映り、武将たちの影を長く伸ばしていた。
ガリオン将軍は木椅子の背もたれに腕をかけながら、苛立たしげに指先で卓を叩いていた。銀色の鎧がわずかに鳴るたび、周囲の将兵はちらりと視線を投げる。彼の焦燥が伝染するように空気が張り詰めていた。
「おお! やっと渡河を始めたか。それではぼちぼち出陣するとしよう」
鋭い声とともに、ガリオンが勢いよく立ち上がる。その瞬間、甲冑の継ぎ目が擦れ合い、金属音が低く響いた。
彼の真紅の瞳は燃えるような光を宿し、戦場への渇望を隠しきれない。銀髪が揺れ、篝火に照らされて幽かに輝く。フルプレートに包まれた堂々たる姿は、まさしく戦神の化身そのものだった。
「ガリオン、タイミングが大切だぞ。早すぎるとこちら岸に残った兵士が多すぎるからな」
落ち着いた声音がそれを制する。言葉の主はケインズだ。
彼はガリオンとは対照的に、洗練された青の軍装を身にまとい、肩には銀の刺繍が入っている。計略を得意とする彼らしい冷静な表情で、半眼のままこちらを見据えていた。
「ぬかせ! ケインズ。俺を誰だと思っているんだ。これでも隣国に名を轟かせた将軍だぞ」
苛立ったように腕を振り、ガリオンは一歩前へ進む。その動きに呼応するように、周囲の兵が無言で道を開けた。
ケインズは薄く笑いながら肩をすくめる。
「『ベルシオンの銀狼』……その名が色あせないことを願っているよ」
皮肉めいた言葉だったが、ガリオンは気にした様子もなく、堂々と軍議の帳を出ていく。
その背中を見送りながら、ルーク、ケインズ、マルクも静かに立ち上がった。
ルークは深緑の外套を翻し、静かな決意を瞳に宿す。王の風格をまとった青年の姿は、戦場を統べる者としての威厳を放っていた。
マルクは無言のまま手袋をはめ直し、鍛え抜かれた体躯をゆっくりと動かす。その鋭い眼差しは、次に起こる戦の行く末を見極めようとしていた。
夜の冷たい風が軍幕の隙間から吹き込む。これから始まる戦いを前に、それぞれの決意が静かに燃えていた。
城門の前で待ち構えていたのは、ガリオンの愛馬『黒龍王』。
その名に違わず、漆黒の鬣をたなびかせ、全身を鎧のごとき艶やかな筋肉で覆われた巨躯の軍馬だ。漆黒の毛並みにはわずかに青紫の光沢が差し、まるで夜闇を纏った龍のような気配を放つ。燃え盛る炎のような赤い瞳が、獲物を狙う猛禽のごとく鋭く光る。
ガリオンが黒龍王に跨り、その手の武器を高々と掲げる。長い金属製の柄の先に鋭い槍とその両脇に斧と鎌がついたハルバードと呼ばれる斧槍——突く、切る、払う、割る、引っ掛けるなど様々な攻撃方法を可能にする、ガリオンが馬上で好んで使うメイン武器である。
「出るぞー!」
「おー!」
ガリオンの掛け声で兵士達の戦意がグンと上がる。
黒龍王が一歩前に踏み出し、城門がガラガラと音を立てて上にあがって開かれる。開かれた城門から前方に広がる緑の平地とその先に悠然と流れる青い水がガリオンの目の中に飛び込んできた。
歩兵の速度に合わせるようにガリオンの騎馬隊が先頭を切って出発する。それに続くのは、国王ルークとケインズの指揮する歩兵部隊——殿はマルク公爵の軍である。ベルシオン軍は渡河中のカーネシアン軍に決定的な打撃を与えるために歩み出した。




