14 戦略の岐路
「報告! カーネシアン軍が移動を開始! 再びケルシャ城に向かっている模様!」
歓喜に包まれ、華やかな空気が漂っていた軍議の間。その静寂を引き裂くように、兵士の切迫した報告が響き渡った。笑みを浮かべ、目尻を下げていた四人の表情が、瞬く間に緊迫したものへと変貌する。
「こちらに向かっていると? わしの攻撃が足りなかったのか? 思ったより損害が軽微だったのか?」
マルク公爵の太い声が部屋に響く。彼の眼光が鋭さを増し、揺らぎのない戦士の本能が甦る。握り締めた拳がわずかに震え、昂ぶる闘志を抑え込もうとしているのが伝わる。
「いや、逆ですよ。損害が大きすぎて、援軍を相手にする余裕がないのです。兵を引き、自国へ撤退するつもりでしょう」
静かに、しかし確信に満ちた声で応じたのは、金髪碧眼の知将ケインズ。冷静な視線のまま、右手の人差し指でメガネの縁を押し上げる。硝子の奥で揺れる理知的な輝きは、すでに敵軍の意図を見透かしていた。
「いや、我が城を力攻めするつもりなのではないのか!」
誰かが吐き捨てるように言う。二千の援軍が迫るこの状況で、敵が持久戦を選ぶ可能性は低い。残された選択肢は二つ──援軍到着前に城を強引に落とすか、そのまま素通りして帰還するか。
「そんな愚策をとれば、甚大な損害が出るのは明白。その上で城を落とせる保証もない。そもそも、我々を城から誘き出そうと画策してきたカーネシアン軍が、その兵を減らした状態で力攻めに転じるとは考えにくいでしょう」
「……言われてみればその通りだな。我が城には三千の兵がいる。五千程度の兵で攻め落とせるはずもない」
「となると、奴らはまた城の前で渡河する気か?」
ルーク国王の問いに、ケインズは再びメガネを押し上げ、静かに地図を指し示す。その指先は迷いなく、敵の意図を読み取った確信に満ちていた。
「もし私が敵の指揮官なら、城の前を通り過ぎ……そう、この辺りで渡河します。周囲に追撃を受けても、取って返して乱戦に持ち込めるだけの広さがある。およそ一万の兵が戦えるだけの平地が左右に広がっている。これは誘因の計ですね。追撃部隊を確認し次第、反転して攻撃を仕掛けるつもりでしょう。乱戦になれば三千対五千──勝負は見えています。それどころか、勢いに乗ればそのまま城を落とすことも可能となる。誘いに乗るべきではありません」
「やはり、ここでも釣りを仕掛けてくるか……」
ルークが苦々しげに呟き、ケインズを見つめる。彼の眉間には深い皺が刻まれ、指先が机をリズムよく叩いている。焦燥と苛立ちが見え隠れする。
「十中八九は……」
「なら、黙って見逃すのか?」
会議の空気を切り裂くような声が響く。赤い瞳をぎらつかせ、若き猛将ガリオンが椅子を軋ませながら身を乗り出す。戦いの機を逸することを何よりも嫌う彼は、拳を固く握りしめ、まるで今にも剣を抜かんとするような気迫を放つ。
「どうすればいいんだ!」
ケインズはその問いに軽く肩をすくめ、微かに口角を上げた。理知的な笑みがその顔に浮かび、戦略の糸が脳内で絡み合い、そしてほぐれる。
「敵が渡河を開始し、そのほとんどが渡り終えたところで……そうですね、千ほどが残った瞬間に、我々の全軍二千五百で突撃をかけるのが最適でしょう。渡り終えた敵が戻ろうとしても、河岸を抑えているこちらが有利。敵はぬかるんだ河岸で動きを封じられ、戻るも地獄、進むも地獄。さらに、助けに戻ってきた兵もまた、格好の餌食となるはずです」
「となると、敵に接近する際、気取られぬようにせねばならんな?」
軍議の中で最年長、歴戦の将マルク公爵が顎に手を当てながら考え込む。その目には、幾多の戦場を生き延びてきた者特有の冷徹な計算が宿っていた。
「確かに、こちらの動きに気づかれて河岸で待ち伏せられれば、それなりの被害は免れませんが、全軍が待ち構えているのでなければ問題にはなりません」
「斥候の報告次第だな。敵全軍が待機していたら城に引き返せばいい。だが、そうでなければ……」
ガリオンが血気盛んな笑みを浮かべ、拳を握りしめる。その瞳には戦意が燃え盛り、今にも駆け出しそうな勢いだ。
「先鋒はこの俺に任せろ! たとえ待ち伏せがあったとしても、布陣が整わぬ敵など一気に蹴散らしてやる!」
「確かに、敵がこちらの動きに気づいて渡河の向きを逆にしても、短時間で布陣を完璧に整えるのは難しい。そこに突撃をかければ……」
マルク公爵も顎から手を離し、老練な戦士の鋭い視線を輝かせた。
「よし! 先鋒はガリオン、騎兵隊を預ける。歩兵の指揮はケインズ、マルク叔父御は城に五百を残し、続いてくれ! 敵に悟られぬよう、静かに準備を始めるぞ!」
* * *
「イザベラ様、ルーク様たちとカーネシアン王国との戦いが、ケルシャ城近くで始まったようです」
低く滑らかな声が、そっと耳元に忍び込んだ。まるで夜風がレースのカーテンを揺らすように穏やかでありながら、どこか底知れぬ響きを孕んでいる。
イザベラは振り向く。
そこには、執事の装いを完璧に着こなしたセバス──小太郎が、まるで密偵のように控えめな姿勢で立っていた。その表情は無機質にも見えるが、瞳の奥にかすかな愉悦の火が灯っている。
「それで、どうなの?」
イザベラは、努めて平静を装いながらも、微かに眉を寄せる。指先が無意識にグラスの縁をなぞった。
「今のところ、小競り合いといったところでしょうか……」
セバスはすっと背筋を伸ばし、まるで王宮の舞踏会で貴婦人に応じるかのような優雅な仕草で、片手を胸に添えた。その仕草の洗練された美しさが、逆にこの場の異質さを際立たせる。
「危なそう?」
イザベラは慎重に問いかける。その声音には、ほんのわずかだが緊張の色が混じる。
セバスは微かに微笑むと、一拍置いて答えた。
「いえ、ケルシャ城を抜かれることはないでしょう。今のところ、こちらの死者はゼロ。負傷者は十名程度。敵軍は七百以上を討たれ、負傷者も同数以上。初戦は大勝と言えます」
あくまで淡々とした報告。しかし、その中には言外の意味が隠されていた。
イザベラの指が、グラスの縁から離れる。彼女は静かに息を吐き、わずかに頬を緩めた。
「そう……良かったわ」
その声には、安堵の気配が微かに混じる。しかし、それを悟られまいとする意識が働き、すぐに表情を引き締める。
「なら……じきにルークは戻ってきそうなのね」
ふと窓の外を見遣る。空の青さの向こうに、ルークの戦場があるような気がした。
セバスはその様子を見て、くすりと笑う。
「待ち遠しいのですか?」
まるで猫が獲物を追い詰めるような声音だった。
「まさか! そんなわけないでしょう」
イザベラは即座に睨みつける。しかし、その頬にほんのわずかに朱が差したのを、自分でも感じてしまい、余計に苛立った。
セバスは、それを見逃さない。
「この国も、ちょくちょく攻め込まれていては、安心して住んではいられないわねと思って、少しは応援してあげようかな、なんて……」
言葉は冷静だが、語尾にかすかな揺れがあった。それを察し、セバスは目を細める。
「ふふ……どのように? ただお気持ちだけですか?」
挑発的な笑みを浮かべながら、彼はゆっくりと首を傾げる。その動きは、まるで獲物を狩る直前の獣のようだった。
「ちょっと、知恵を授けてあげようかしら……なんてね」
その一言に、イザベラの瞳が妖しく輝く。
「面白そうですね……ククク」
セバスの低い笑い声が、部屋の静寂に溶けていく。
二人の間には、誰も踏み込めない共謀者の空気が広がっていた。




