2-1 忍び
牢の中、イザベラの記憶をひたすら探る。
冷たい鉄格子が無機質な檻を作り出し、重苦しい空気が肌にまとわりつく。
湿り気を帯びた石壁からは、鼻をつくカビと血の入り混じったような臭いが漂っていた。
底冷えする牢獄の中で、イザベラは膝を抱え、じっと己の内側へと沈み込んでいく。
ーーこの世界の情報を整理しなければ。
ーー自分に与えられた力を把握しなければ。
ーー何としてでも、この絶望的な死刑宣告を覆さなければならない。
思考を巡らせれば巡らせるほど、脳裏に浮かび上がるのは否応なしに突きつけられる現実。
それは、まるで刃のように鋭く、逃げ場を許さぬ残酷な事実だった。
ーーやはり私は、イザベラ・ルードイッヒなのね。
牢獄の冷気に縮こまる身体とは裏腹に、頭の奥が焼けるように熱い。
麗子としての人生が確かにあったはずなのに、今の自分は間違いなくこの異世界の公爵令嬢。
だが、与えられたのは美しい容姿と高貴な身分ではなく、婚約破棄と死刑宣告ーーそして、無実の罪。
ふっと力が抜け、思わず肩を落とす。
瞳を伏せ、唇を噛み締めながら、重く沈む溜息がこぼれた。
頑張るのよ、麗子!
心の中で叫ぶ。それは炎を灯すような言葉のつもりだったが、その声は霧の中に消え、まるで水底に沈んでいくように、焦燥と虚無感が絡みつき、心の灯は小さく揺らめくばかりだった。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
ぎゅっと両手を握りしめる。
痛みが現実を繋ぎ止める鎖となることを願いながら、深く息を吸い込んだ。
ーー私は、私を救わなければならない。
意識を研ぎ澄ませ、記憶の断片を拾い集める。
かつてのイザベラが何を知り、何を手にしていたのか。
それを理解し、活かさなければ、この世界の中で朽ち果てるだけだ。
するとーー
まるで霧が晴れるように、脳裏に鮮明な映像が浮かび上がった。
イザベラは”忍び”を使い、あの女、カトリーヌを影から探らせていた。
忍び。
それは、闇の中で生まれ、闇を纏い、闇と共に生きる者。
主に従い、主のために動き、主のためにその刃を振るう存在。
小太郎ーー
その名を思い出した瞬間、心の奥で何かが疼いた。
ーーそうだ、あの少年がいた。
三つ年下の、生意気な小僧。
かつては甘えん坊だったはずなのに、いつの間にか妙に達観し、イザベラをからかう余裕すら持つようになった。
けれど、その実態は鋭く研ぎ澄まされた刃。
瞳は赤と藍のオッドアイ。
夜の闇を宿したかのような深い紅と、冷たい湖面のごとく澄んだ青。
相反する二色の瞳は、まるで陰陽を抱くように不思議な調和を保ち、見る者を捉えて離さない。
すらりと伸びた肢体に、鼻筋の通った端正な顔立ち。
一見すれば、どこにでもいる優雅な貴族の青年にも見えるが、その身体には柔らかくしなやかな動きと、猛禽のような鋭さが宿っていた。
名を呼べば、風のように現れる。
時には気配すら感じさせず、月影のように静かに報告に訪れることもあった。
彼の存在は空気のようであり、だが確かにそこにいた。
それこそが、彼の本質ーー
ーーまるで彼は、影そのもの。
陽があれば、必ず生まれる影。
闇があれば、より濃くなる影。
イザベラの命が続く限り、彼の忠誠もまた絶えることはない。
彼はどこまでも彼女を見守り、
たとえ命じられずとも、
彼女のために動く存在だった。
そうーーそれが、小太郎だった。
「小太郎! いるんでしょう?」
かすれた声が牢獄の闇に溶ける。
鉄格子の隙間から外を覗き込みながら、小さく呼びかける。
……しかし、返事はない。
返るのは沈黙のみ。
深い夜のように重く、どこまでも静まり返った牢獄の空気。
牢内に満ちるのは、静寂と、鼻を突くような鉄錆びの臭い。
閉ざされた世界に、自分の呼吸音すらやけに大きく響いている。
ーーやはり、そう簡単にはいかないわね。
微かな期待が、乾いた土の上で砕け散る陶器のように脆く崩れる。
胸の奥にじんわりと広がる失望を押し殺しながら、深く息を吐いた。
冷えた空気が肺を満たし、重たくのしかかる。