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第12話「釣りと追撃」 ②

 カーネシアン軍の思わぬ行動に、ケルシャ城の空気は一変した。


 まさかの素通り——それは、守備側にとって最大の脅威であった。


 戦うことなく敵を見逃せば、王都が直接の標的となる。


 城壁の上から敵軍の動きを見据えていたルーク・ベルシオンは、目を細め、黒曜石のような瞳に鋭い光を宿らせた。敵が城門に殺到するのを想定していたが、その気配はない。


 渡河後、整然と布陣したカーネシアン軍は、長い影を引きながら滑るように進軍を続けている。軍旗が翻り、鎧の煌めきが陽光を受けて瞬く。その様子は、まるで静寂を湛えた大河が、音もなく迫るようだった。


 ルークの背後で、焦燥の声が上がる。


「ルーク様、カーネシアン軍はこの城を放置して王都へ向かうつもりのようです。王都に攻め込まれては一大事、手を打たねばなりませんぞ!」


 声の主はマルク公爵である。彼の額には汗が滲み、白みがかった髭を引き締めるように握りしめていた。その視線は、まっすぐにルークへと向けられている。


 ルークは黙して応えず、深く考え込むように口元を引き結んだ。


「王都の防備は?」


 短く問うと、ケインズがすぐさま応じる。


「ケント伯爵とベルク侯爵の軍が、先行して二千の兵で抑えに入っております。しかし、カーネシアン軍の兵力は六千。我々の倍以上の戦力です。迎え撃つにしても、適した要害がなければ苦戦は必至……」


 ケインズは眉根を寄せ、手元の地図に視線を落とした。


 この近辺に、二千の兵で六千の敵を足止めできるほどの天然の要害はない。つまり、ケント伯爵とベルク侯爵の軍が迎え撃つ場所は、せいぜい地形の利をわずかに得られる程度の地でしかない。


「これは……正面衝突になるな。」


 ルークの呟きに、場の空気がさらに張り詰める。


「急ぎ伝令を飛ばし、ケントとベルクにこの情報を伝えよ!」


 鋭い指示が発せられ、待機していた騎馬兵たちが一斉に動き出した。


 金属が擦れる音、馬蹄が石畳を蹴る響き——伝令兵たちは全速で城門を駆け抜け、刻一刻と迫る決戦の火蓋が切られようとしていた。


「敵軍の背後を強襲すれば、殲滅も可能でしょう」


 力強い声が響いた。


 発したのはガリオン将軍——銀狼の異名を持つ猛将だ。彼の紅い瞳が興奮に輝き、分厚い胸板が鼓動と共に高鳴る。


「三千の兵で敵の殿を叩けば、たとえ倍する兵力でも反転する間もなく混乱し、壊滅するは必定!」


 ガリオンの声音には、まるで獲物を仕留める直前の猛獣のような熱がこもっていた。


「敵を追撃するか、否か」


 ルークは目を閉じ、一瞬の沈黙を作る。


 決断の刻は迫っていた。


「敵は急ぎ過ぎている。王都へと焦るあまり、後方の備えが手薄なはずだ。」


 ルークが再び目を開くと、その瞳にはすでに明確な答えがあった。


「ならば——」


 彼は低く、しかしはっきりと命じた。


「我々は敵の背を討つ!」


 次の瞬間、戦場の風が、大きくうねりを上げた。


  「これは釣りかもしれません!」


 鋭い声が軍議の間に響き渡った。


 言ったのはケインズだった。彼の青い瞳は冷静そのものだったが、その奥には強い警戒の光が揺らめいている。


 軍議の場にはルーク・ベルシオン、ガリオン将軍、マルク公爵の姿があった。地図の上には駒が並べられ、カーネシアン軍の動きが視覚化されている。


「単なる撤退ではなく、意図的な誘導と見て間違いありません。先に行った部隊が何処かで取り囲んで我らを殲滅しようと待ち構えているに違いない。兵を伏せられる地形は何処なのか? 敵が何処で待ち構えているのか? 我らが何処まで追撃しても大丈夫なのか地図で検討してから作戦を決めるべきです」


 ルークが無言で地図を見つめる。


  「釣り野伏せ……か」


 軍議の空気が一気に張り詰めた。


 釣り野伏せ——それは戦の常套手段であり、古くからある巧妙な戦法だ。敵が退却する様を見せ、追撃してきた部隊を伏兵で囲み、一網打尽にする。単純だが効果的な手法であり、追撃側の勢いが増せば増すほど罠にかかりやすくなる。

 敵の動きに心当たりがあるのだろうか、ケインズが鋭い視線をルークに向ける。


「敵はどこに伏兵を潜ませる?」


 ルークの低い問いかけに、ケインズは即座に応じた。


 地図の上に手を置きながら、ケインズが指し示したのは一本の街道だった。


  「待ち伏せできる場所は……待ち伏せするとすれば此処でしょうな。この場所には多くの兵が戦えるだけの広さがある。そこまでの道は一度に数千の兵で戦うには狭すぎる。つまり、この辺りまでの道ならば幅が狭いため一度に展開できる兵の数は限られます。左右に伏兵をしのばせる場所もない。追撃戦をしていても、取り囲まれることは無い。そして——」


 ケインズの指が一点を示した。


「此処に一際高い一本杉がある。それが見えたら追撃をやめ引き返す方が無難です。それ以上追撃すると勢いこの場所で囲まれる危険がある。それでも、此処までの追撃戦でかなりの敵は討てるでしょう。欲を掻けば大怪我をしそうです。追撃は一本杉まで」


  「つまり、ここが罠の境界線というわけだな」


  「その通りです。もし敵が伏兵を仕掛けているなら、この一本杉を越えた瞬間、四方から攻め込まれる可能性があります」


 軍議の場が一瞬沈黙に包まれる。


 マルク公爵が低く唸った。


  「確かに……この辺りまでの道ならば、追撃しても包囲される心配はない。逆に、一本杉を超えてしまえば、袋の鼠となる危険が高いということか」


  「では、追撃は一本杉まで。追撃隊の規模は?」


 ルークが問いかけると、マルク公爵はすぐに答えた。


  「私なら千で十分です。それ以上出せば、仮に伏兵がいなくとも、退却時の被害が大きくなる。最も効率よく敵に打撃を与え、なおかつ安全に帰還するためには、この数が適当かと」


 ルークはしばし考え込んだ。


 軍議の空気が熱を帯びる。


「よし! 今回は地の利に詳しいマルク公爵軍に指揮を取ってもらおう」。マルク公爵! 存分に暴れてこい。ただし、調子に乗るなよ?」

 ルークがマルクに出陣を命じると、マルク公爵は豪快に笑った。


  「承った! 必ずや敵に大きな被害を与え、かつ最低限の損害で戻ってこよう!」


  「さすがは叔父御。頼りにしているぞ」


 ルークとマルクが力強く頷き合う。


 ガリオンが不満げに腕を組んだ。


  「抜け駆けとは、うらやましい話だな」


 にやりと笑うその表情には、純粋な戦士の気概がにじんでいた。


 自身に溢れた表情でマルク公爵が軍議の間を後にする。ガリオン将軍がその背中を羨ましそうに見送った。



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