12 釣りと追撃 ①
第12話「釣りと追撃」
渡河中にガリオン隊の猛攻を受けたカーネシアン軍だったが、その損害は予想よりも軽微だった。濁流に削られた河原の石はぬかるみ、混乱を生じさせるには十分だったが、兵士たちは動揺することなく秩序を保ち、整然と渡り切った。敵軍の指揮系統は乱れず、統率の取れた動きで川を背に布陣し、流れるように鶴翼の陣を敷いている。
ベルシオン軍の精鋭であるガリオン隊の奇襲は、確かにカーネシアン軍に損害を与えた。しかし、戦場に立つ兵士たちの眼差しはなお鋭く、決して折れた様子はない。むしろ、戦火に晒されたことで彼らの戦意は研ぎ澄まされ、冷たい殺気が戦場に漂っていた。
一方、ケルシャ城の城壁の上では、剣呑な空気が張り詰めていた。血気盛んな兵士たちは、突撃したい衝動を押し殺し、ぎりぎりと奥歯を噛みしめている。敵の背に刃を突き立てたいという焦燥は、まるで鍋の底で煮え滾る熔鉄のように沸々と煮え立ち、今にも爆発しそうなほどだった。
しかし、ルークをはじめとする指揮官たちは冷静だった。敵が動き出すのを見極め、機を伺っている。
カーネシアン軍は暫く膠着状態を続けたが、やがて新たな策に出た。
先鋒のオリボ軍が城門の前に陣取ると、まるで酒場の酔漢の如く、口汚い言葉を並べ立て始めた。
「おい、鼠ども! 怖気づいて城に引きこもるか? さすがは腰抜けベルシオン軍よ!」
「震えて膝がすくんでいるんだろう? 戦場で役立たずの兵士どもよ、せいぜいその城壁の影に隠れて泣いているがいい!」
「貴様らの王は臆病者か? それとも、ここにいる兵どもが腑抜け揃いなのか?」
嘲笑と罵声が、ひたすらに投げつけられた。男たちのがなり立てる声は、まるで腐った肉に群がる蠅の羽音のように耳障りだった。
だが、ベルシオン軍の兵士たちはそれに応じない。上官からの命令は明白であり、敵の挑発に乗るなという指示が徹底されていた。
しかし、沈黙を守る兵たちの目には、燃え盛る炎が宿っていた。ある者は顎を強く引き締め、ある者は剣の柄を握る手に力を込めていた。怒りに眉を吊り上げる者、冷ややかな微笑を浮かべる者、そして、心の中で静かに反撃の機会を待つ者——。兵士たちの無言の反応こそが、挑発者たちへの最大の嘲笑だった。
ワイワイと喧騒が続く中、オリボ軍は次第に焦れ始めた。彼らはベルシオン軍を挑発し、城から引きずり出すつもりだったが、全く相手にされない。その苛立ちは、次第に罵声の苛烈さを増していったが、それでもベルシオン側はまるで何事もないかのように静かに対応している。
やがて、オリボ軍の指揮官が苛立ち混じりに腕を振り、作戦の終了を告げた。
「チッ、くだらん。こんな臆病者どもに構うだけ時間の無駄だ!」
オリボ軍が前進の号令を発すると、カーネシアン軍は整然と隊列を組み、ケルシャ城を横目にそのまま進軍を開始した。
まるでこの城など取るに足らないと言わんばかりの動きだった。
この時、城壁の上で彼らの動きを見つめていたベルシオン軍の兵士たちは、一様に驚愕の表情を浮かべた。
「……城を攻めない?」
カーネシアン軍は、まるでケルシャ城など存在しないかのように、そのままベルシオン王国の奥深くへ向かっている。
ケルシャ城を飛び越えて王都へ進軍する。
これは戦略的な撤退ではない。明確な意図をもっての侵攻だった。
「これは……?」
ルークは低く呟いた。彼の鋭い黒い瞳が、敵の行軍をじっと見据える。
「……王都を狙うつもりか?」
ケルシャ城の守備に集中していたルークたちにとって、この動きは完全に予想外だった。敵が城を無視するという選択肢は、あり得ないものとして排除していたのだ。
カーネシアン軍は、この城の攻略に時間をかけず、もっと速やかに、より大きな戦果を狙っていた。




