11ー2 戦場の狼煙 ②
城門前には、嵐の前の張り詰めた沈黙が支配していた。
五百の騎馬隊が整然と並び、甲冑が冷たい朝日に鈍く光る。 肌を刺すような緊張が、兵たちの背筋を強張らせ、呼吸すら控えめになる。
風は重く、雲は低く、戦の影が忍び寄る。
騎兵たちは、まるで狩りの直前に息を潜める獣のように、じっと前を見つめていた。
彼らの剣は沈黙していたが、心はすでに戦場で血を求めて咆哮していた。
ケインズの視線——冷徹なる計算
ケルシャ城の尖塔。
ここからの景色は、まるで絵画のように広がる。しかし、今日の風景は美ではなく、死と破壊の予兆を孕んでいた。
ケインズは、単眼鏡を目に当て、川岸に集結するカーネシアン軍を見据える。
六千の軍勢が、まるで濁流のように岸辺を覆い尽くしていた。
彼らの旗は、翻る毒蛇のように戦場を睨んでいる。
ケインズは、静かに目を細めた。
――敵は渡河の準備を整えた。
彼はその場に立ちながら、戦場の動きを頭の中で冷徹に解析していく。
敵の布陣、指揮官の指示、兵士たちの歩み……すべてが、彼の瞳に映し出され、無駄のない計算式へと変換される。
彼は、一瞬の逡巡もなく、城門前へ向かって大きく手を振った。
「ガリオン将軍! 渡河が始まる!」
ガリオンの視線——戦場に生きる狼
その声を聞いた瞬間、ガリオンの口元がゆるりと吊り上がる。
「待ちくたびれたぜ。」
彼の手綱を握る指が、無意識に力を込める。
愛馬『黒龍王』が、鋭く鼻を鳴らした。
その黒曜石のような瞳には、猛る戦意と獲物を狩る興奮が宿っている。
「……お前も、血が騒ぐか?」
低く囁くと、黒龍王はまるで答えるように、前足を高く振り上げ、大地を叩いた。
――それは、嵐の前触れ。
ガリオンは、剣の柄を軽く撫でる。
「城門を開けろ!」
鎖が巻き取られ、巨大な門扉が軋みながら上がる。
門の向こうには、戦場が広がっていた。
湿った土の匂い、遠くから響く敵兵の掛け声、流れる雲の隙間から射す光——すべてが、死と勝利の狭間に揺れていた。
ガリオンは、ケインズに向かって軽くサムズアップを送る。
「さあ、狩りの時間だ。」
そして、彼は手綱を握り直し、黒龍王の腹に軽く合図を入れた。
雷鳴のような蹄の音が、大地を震わせる。
彼の背を追い、五百の騎兵が城門を抜ける。
砂煙が舞い上がり、風が裂かれる。
嵐が、動き出した。
ルークの視線——王の眼差し
城壁の上、ルークはその光景を見下ろしていた。
彼の漆黒の瞳は、冷たく光を宿している。
ガリオンの騎馬隊が、獣のように戦場へ飛び出していく。
その背を見つめながら、ルークは静かに呟いた。
「見事なものだな……」
彼の心には、誇りと冷徹な計算が共存していた。
――敵軍は六千。我らの戦力は三千。しかし、二千の援軍がもうすぐ到着する。
この戦いは、時間を稼げば勝てる。
焦るな。見誤るな。王は盤上を支配せねばならぬ。
ルークは、手すりに軽く手を置き、指をトントンと叩いた。
「……頼むぞ、ガリオン」
遠くで響く蹄の音を聞きながら、彼はゆっくりと瞳を閉じる。
そして、再び目を開いたとき——
そこには、冷徹なる王の眼差しがあった。
銀狼は駆け、戦場に風が吹き荒れる。
今、戦いの火蓋が切られようとしていた。
カーネシアン軍は、まさに渡河の最中だった。
泥を孕んだ水が兵の膝を覆い、陽光を鈍く反射している。鉄鎧が軋み、濡れた布が肌に貼りつき、兵たちは慎重に足を運んでいた。流れは緩やかに見えたが、不意に深みにはまれば、重い甲冑ごと水底へ引きずり込まれる。
そんな中——
大地が鳴動した。
突如として響く雷鳴のごとき馬蹄の音。まるで嵐の前触れのように、戦場に張り詰めた緊張が走った。
最初にそれを聞きつけた兵士が、訝しげに顔を上げる。
次の瞬間、視界の端で陽光を反射する刃が閃いた。
「敵襲だ——!!」
誰かの悲鳴混じりの叫びが、渡河中の兵士たちの背筋を凍らせた。しかし、気づいたところで既に遅い。
ベルシオンの騎兵隊が猛然と駆けていた。
甲冑の隙間から覗く精悍な顔立ち、地を穿つ鋭い蹄音、馬上から翻る漆黒のマント。彼らは疾風となり、戦場を駆け抜ける影となる。
「弓を構えろ! 一斉射撃!」
ガリオンの命令とともに、五百の騎兵が一糸乱れぬ動きで弓を引いた。強靭な腕が弦を引き絞る音が、わずかな静寂を裂く。
——放て!
空を切り裂く鋭い風音。
雨の如く降り注ぐ矢の嵐。
悲鳴が上がる。
矢を浴びた兵士が、川の中で膝を崩し、赤い波紋が水面を染め上げる。川の流れは無情にも、それらを呑み込み、ただ静かに流れ続けた。
だが、それも一瞬のこと。
二射の掃射を終えた騎兵隊は、そのまま反転し、砂煙を巻き上げながら駆け抜けた。敵に反撃の隙を与えぬまま、まるで幻のように走り去る。
「くそっ! 追え! あの騎馬隊を逃がすな!」
カーネシアン軍の指揮官が、怒声を上げた。
愚かにも、敵の罠とも知らずに。
——城壁の上。
そこから戦場を見下ろしていたケルシャ城主・マルクは、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「いいぞ、そのままこちらへおびき寄せろ……」
彼の口調は、まるで獲物を誘い込む老獪な狩人のそれだった。
城門前。
全速力で駆け抜けてきたガリオンの騎兵たちが、無傷のまま門をくぐる。
城壁の陰に入った途端、彼らは一斉に馬を止め、荒い息を吐いた。
馬の首筋から湯気が立ち昇る。緊張から解き放たれた兵士たちは、上気した顔で互いに目を見交わした。
だが、その中でただ一人——
ガリオンだけは、未だ冷静な眼差しを崩さなかった。
手綱を握る指はわずかに力を込められ、獰猛な獣のような微笑が唇の端に浮かぶ。
初戦の一撃は見事に決まった。敵の士気を削ぎ、冷静な判断力を奪うには十分だった。
だが、これで終わりではない。
これはただの『序曲』。
「さて……ここからが本番だ」
低く呟いたガリオンの声は、まるで嵐を告げる風のようだった。
嵐は、まだこれから。




