9-1 漆黒の王の口づけ
翌日、イザベラは王城へと移った。当然ながら、セバスとあやめも同行している。
彼女に与えられた部屋は想像していたよりも広大だった。天井は高く、漆喰の白壁には金箔が施された美しい装飾が散りばめられている。床には毛足の長い深紅の絨毯が敷かれ、その上には重厚な黒檀のテーブルとソファが鎮座していた。壁には歴代国王や王妃の肖像画が並び、視線を送るたびに、その眼差しが自分を見下ろしているような錯覚を覚える。
寝室へと足を踏み入れると、柔らかな光を透かすシルクの天蓋が優雅に揺れる巨大なベッドが目に入った。繊細な彫刻が施された鏡台や、象牙と金で象嵌細工が施された調度品が整然と並んでいる。明らかに、この部屋は女性が使うことを前提に整えられていた。
「まあまあね……でも、このテーブルとソファはちょっと男性的すぎるわ。もう少し華やかで、繊細な家具が良かったわ」
イザベラはソファに腰を下ろし、指先で肘掛けをなぞる。その感触はしっかりとしていて、無骨な重厚感があった。居間の調度品は、どうやら以前は男性が使っていたものらしい。寝室の家具だけは新調されたようだが、統一感に欠ける。
「すぐに変更を手配いたしましょうか?」
あやめが申し訳なさそうに尋ねる。
「いいえ、このままで大丈夫よ。いつまでここにいるか分からないし……それに、こんなに広い部屋を用意してくださっただけで、十分ありがたいわ」
そう言いながらも、彼女の視線は再びソファへと落ちる。自分がこの部屋に長く滞在することを、果たして本当に望んでいるのだろうか。
そのとき――
カチャリ。
扉の取っ手が回る音が、静寂を切り裂いた。
扉がゆっくりと開かれ、そこに立っていたのは、黒曜の光を湛えた瞳を持つ美丈夫――ベルシオン王国新王、ルーク・ベルシオン。その漆黒の髪は燭台の灯火を受けて微かに光を帯び、無駄のない動作で室内へと足を踏み入れる。その瞬間、空気が変わった。張り詰めたような、けれど甘やかに満ちる独特の緊張感が、イザベラの肌を撫でる。
その黒曜石の瞳が、じかに彼女を見つめた。
「イザベラ。この部屋は気に入ってもらえ――……いや、この家具は変えさせよう」
ルークは視線を僅かに動かし、黒檀のテーブルとソファを見つめた。
「貴方には、もっと華やかで、繊細で優美なものが相応しい」
彼の言葉には迷いがなかった。
イザベラは軽く目を瞬かせ、口元に微笑を浮かべた。
「ありがとう、ルーク。でも、別にこのままでも構わなくてよ」
「いや、すまない」
ルークの眉間にわずかなしわが寄る。
「本来なら、先に私の目でチェックしておくべきだった。これでは気分も上がらぬだろう。すぐに取り替えさせる」
言葉が終わるや否や、彼はすっとイザベラの前に跪いた。まるで流れるような、自然な所作。
距離が一気に縮まる。
イザベラの視界いっぱいに、漆黒の髪と深い瞳が映り込んだ。そのまなざしに囚われ、動きを封じられたような感覚に陥る。
差し出された右手。
イザベラは戸惑いつつも、そっと自身の手を彼の掌に乗せた。大きな手の温もりが、じんわりと指先を包む。
次の瞬間――
ひやりとした感触が肌をかすめる。
ルークの唇が、彼女の手の甲に触れていた。
その仕草はどこまでも優雅で、けれど揺るぎなく支配的だった。まるで刻印のように、彼の存在がそこに染み付いていく気がする。
イザベラの心臓が、微かに跳ねた。
……なに、動揺しているのよ、私。
ルークの瞳が、愉悦を滲ませながら彼女を覗き込む。
イザベラはすぐさま表情を整え、努めて涼やかに微笑んだ。
「お心遣い、感謝いたしますわ」
そう言いつつも、ほんの一瞬だけ指を引く。わずかな抵抗の仕草。まるで、どちらが主導権を握るのか、試すかのように。
ルークの唇が、かすかに弧を描いた。
それを見たイザベラもまた、口元をわずかに釣り上げる。
――これはただの歓迎の挨拶よ。そう、ただの儀礼。
そう自分に言い聞かせながらも、彼の口づけの感触は、未だ手の甲に微かに残っていた。




