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8-1 影の囁き   



「小太郎! いるんでしょう?」


 イザベラの声が静寂を破った。室内は燭台の淡い光に包まれ、天蓋付きの豪奢なベッドのカーテンが揺れる。窓の外では風が囁き、夜の帳がベルシニアの街並みを覆っていた。


 その瞬間——。


 まるで闇がほどけるように、一瞬の隙間から黒い影が現れた。燕尾服を纏い、銀のメガネを整えた優雅な男——セバスチャン。その姿勢には一分の隙もなく、柔和な笑みを湛えている。だが、その瞳はどこまでも冷静で、油断の色は微塵もなかった。


「お呼びでしょうか? お嬢様」 


 柔らかく響く声音。どこから見ても完璧な執事の佇まい。だが、イザベラは知っている。この男が、影の世界を生きる忍びであることを。


「貴方はどう思う?  小太郎」


 イザベラが顎を上げ、挑むように問いかけると、セバスはわずかに目を細めた。


「この姿の時は、セバスとお呼びください」


「セバス……セバスチャンね。分かったわ!」


 イザベラは片眉を上げ、興味深げに彼を見つめる。


「それで、貴方はどう思う?」


 セバスは一歩前へ進み、恭しく頭を下げた。


「結婚なされば、この国の王妃として、王を裏から操ることもできましょう。『嵐雲党』にとっても、それは非常に有益なことです」


 冷静にして的確な言葉。しかし、その奥にはどこか妖しい響きが混じっていた。


「……そういうものなのね……」


 イザベラはしばらく彼の言葉を反芻する。忍びの視点では、結婚もまたひとつの戦略。権力を手にすれば、あらゆる選択肢が広がるのだろう。


 ——だが、それは麗子の望むものではない。


 元のイザベラは権力志向が強かったのかもしれない。しかし、麗子の価値観は現代日本のものだ。権力の座に就くよりも、自由に生きることの方がずっと魅力的だった。


「分かったわ。でもね、私はそんな面倒くさいことは願い下げよ。できれば穏やかに暮らしたいの」


 イザベラは優雅に微笑む。その瞳には迷いがない。


「変わったな、イザベラ……権力者を目指さないのか?」


 セバスの声には、微かな探るような色が混じっていた。


 ——やはり、元のイザベラは違ったのね。


 少し変わりすぎると怪しまれるかもしれない。でも、まあいいか。


「セバス!」


 イザベラは唐突に声の調子を変えた。


「その姿の時は、お嬢様とお呼びなさい。言葉遣いにも気をつけて」


 口元には挑発的な笑みが浮かぶ。


「申し訳、ございません」


 セバスは即座に頭を下げたが、その表情にはわずかに悔しそうな色が滲んでいた。


「ふふっ、まあ良いわ。どうせ貴方のことだから、周りに誰もいないのよね?」


 イザベラは彼の周囲をゆっくりと歩き、じっとその顔を覗き込む。


 小太郎——セバスは、無言で頷いた。


 ——しまった。


 どんな時でも、誰にも聞かれていないからといって、役になりきることを怠ってはならない。もし敵対組織の忍びが潜んでいたら?  もし、わずかな隙が命取りになったら?


 小太郎は、自らの軽率さを内心で叱咤する。


「セバス、気をつけなさいね?  貴方の正体がバレたら、私だって巻き添えを食らうんだから」


 イザベラは肩をすくめながら、冗談めかして言った。しかし、そのエメラルドグリーンの瞳には、確かな警告の色が浮かんでいる。


「心得ております」


 セバスは静かに答えた。


 蝋燭の炎が揺れ、影が彼らの足元を滑るように這っていく。


 夜の闇は、ふたりの言葉を静かに飲み込んでいった——。

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