7-2 氷の王の求愛と揺れる姫 ②
「さっさと別の国に逃げ出すか、それとも取り敢えず王城で暮らすか……」
「お嬢様、服を……」
湯気の立ち込める室内で、あやめが手際よく、湯浴みを終えたイザベラの体を拭き上げる。さらりとした布が水滴を吸い取り、滑るように肌を撫でていく。
イザベラの長い髪から滴る雫が、鎖骨を伝い、胸元へと流れ落ちた。あやめは無言のまま、慣れた手つきでそれを拭い、用意していた下着を広げる。
細やかなレースが縁取られた薄絹の布。風呂上がりの火照った肌に触れると、わずかにひんやりとした感触が広がる。
「ねぇ、あやめはどう思う?」
「お嬢様のお好きになされませ。ただ……あそこまでお嬢様に好意をお示しになられるのは、なかなか気分の良いものでしたね」
思いがけない言葉に、イザベラは思わず下着の裾を握りしめた。
「……っ」
息を呑む。頬が熱くなるのがわかった。
彼の漆黒の瞳。真っ直ぐな視線。そして、低く響く声——。
記憶の片隅に追いやっていたはずの情景が、一気に蘇る。
「……そ、そうね」
ルークのことを考えると、何故か胸がざわついた。
『一目惚れだ』
氷のような態度で他の女性たちを退けてきた男が、なぜ私にはあんなにも情熱的だったのか。
ただの気まぐれ? それとも、本当に——?
思考を振り払うように、イザベラは髪を払った。
――この熱は、本当に湯のせいだけ?
イザベラは、鏡に映る自分の赤らんだ顔を見つめながら、静かに息を吐いた。
あやめは続ける。
「次の移動先を検討している間だけでも、王城に住まわれるとよろしいのではありませんか? あの男を上手く利用するのです」
「利用、ねぇ……」
「それに、結婚するのも決して悪い手ではありません。婚約でも構いませんが、すぐに隣国の王と結婚するということは、お嬢様の名を高めることにもなりますし……。周囲から高い評価をされていた証にもなります。ヘインズ王太子が開き盲だった、ということにもなりますね」
ヘインズ王太子の顔が脳裏をよぎる。軽薄で、自信に満ちた笑み。彼は、イザベラの価値を見抜けなかった。愚かだったのだ。
「それは、まぁ……そうだけど」
イザベラの眉がぴくりと動く。
「ええ。婚約するだけでも、隣国の王太子や貴族たちにとって、十分な威圧になります。お嬢様が、それほどの価値を持つ方だと証明できるのです」
——それは、確かに理屈としては正しい。
だが、それでいいの?
このまま政治の道具のように、ただ有利な立場を築くためだけに、ルークと結婚する?
彼の手を取った瞬間の、あの感触を思い出す。
温かく、力強く——。
「……それに」
あやめは、ふと目を伏せる。
「それに、ルーク様は一国の王。『鶏頭となるも牛後となるなかれ』とも申します。何処ぞの貴族に嫁ぐより、はるかに良い選択かと」
王妃——。
もし、本当にその座につけば、この国の未来すら変えられるかもしれない。
だが、それはルークを利用することと同義。彼の想いを踏みにじることにはならない?
イザベラは、そっと目を閉じた。
「そうね……」
「王ともなれば、その利用価値は多彩ですし、上手く操れば国をお好きにできましょう」
あやめは淡々と語る。その声音に、微かな企みが滲むようで――イザベラは思わず、くすりと笑った。
「貴女も、ずいぶん悪いことを考えるのね」
あやめは、まっすぐな瞳で彼女を見つめる。
「申し訳ございません。言い過ぎました」
だが、謝罪の言葉の中に、微塵の後悔も感じられない。
イザベラは軽く首を振ると、静かに微笑んだ。
「いいえ。貴女の言うことは、間違っていないわ」
——でも、私はそんなことで結婚相手を決めたくはない。
漆黒の瞳が脳裏に浮かぶ。
彼の手の温もりが、まだ消えない。
イザベラは、少しだけ遠くを見つめた。




