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5  謁見の間1  

 謁見の間




「イザベラ・ルードイッヒ公爵令嬢、お久しぶりですね」


 その名を口にする声は、かつての少年のものではなかった。低く、深く、空間そのものを支配する響き。幼き日の記憶の中にあった彼の声とは、まるで別物だった。優雅さの奥に潜む冷たさが、ひやりと背筋を撫でる。


 (変わった……彼は、間違いなく王になったのね。)


 胸の奥がざわつく。かつてのルークを知っているはずなのに、今ここにいるのは全く別の存在。まるで、漆黒の夜に凛然と輝く王者の星。


 ——その視線の先にいるのが、自分だということを自覚する暇もないほどに。


「貴方と踊ったあの時のことは、今でも鮮明に覚えていますよ」


 ルーク・ベルシオンの声音は低く、どこか含みを持っていた。


 長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳がイザベラを捉える。まるで獲物を見定める猛禽のように。その眼差しには懐かしさの色が浮かんでいるようにも見えたが、彼の真意を読み取るのは容易ではない。


 (……この男、何を考えているのかしら?)


 イザベラは慎重に微笑んだ。


「お久しぶりでございます、ルーク様。いいえ、今は国王陛下とお呼びすべきですね。月日の流れというものは、なんと早いことでしょう。」


 上品に微笑むその唇の裏で、彼女の思考は鋭く巡る。


 この男は私をどうするつもりなのか?

 グランクラネル王国の言いなりになるとは思えない。

 私に人質としての価値があるとも思えない。

 それなのに、わざわざ探し出させたのは何故——?


 内心で訝しむイザベラに、ルークはふっと微笑みを浮かべた。その笑顔は、柔らかく、どこまでも優雅。だが、その目は笑っていない。まるで試すように、誘うように、こちらの出方を見極めようとしている。単なる感傷ではない、もっと別の——計算された何かを感じた。


 (……何、この笑顔? 優しげに見せかけているけれど、本音が見えない。まるで猫が爪を隠しているみたい。不気味だわ)


 思わず身を引きかけた瞬間、ルークが低く囁く。


「本当にお美しい。『グランクラネルの真珠』と謳われるのも納得です。……ヘインズ・クラネル王子との婚約が解消になったと聞きましたが、彼も愚かなことをしたものですね」


 ルークの唇がわずかに弧を描く。それは喜びとも、嘲りとも、疑念とも取れる曖昧な微笑だった。


「本当に婚約は解消されたのですか? これほどの女性を手放すとは、正気の沙汰とは思えません」


 ルークの言葉に、イザベラは複雑な感情を抱えながらも、真っ直ぐ彼を見返す。


 (……本当に、何を考えているの?)


 沈黙を破ったのは、ルークの隣に控えていた男だった。


 黄金の髪に碧眼のインテリ風の男が、銀縁の眼鏡をクイッと上げる。


「グランクラネル王国より、イザベラ嬢の捜索、送還の依頼が届いているのは事実でございます」


 無駄のない口調で告げるその男は、ベルシオン王国の文官・ケインズ。その聡明な目には、冷静な観察者の光が宿っている。


 しかし、ルークは不機嫌そうに唸った。


「それは前にも聞いたぞ、ケインズ。だがな、それが信じられないほどの愚かな行為だと言っているのだ」


 その瞬間、室内に微かな緊張が走る。


 ルークの言葉に、もう一人の側近——銀髪赤眼の巨漢が、困惑したように眉を寄せる。


 ベルシオンの銀狼、ガリオン将軍。


 まるで戦場からそのまま抜け出してきたかのような存在感。その立ち姿だけで、一個師団を率いる猛将であることがわかる。もし剣を抜けば、それだけで室内の空気すら裂かれそうだった。


 彼の身体はまるで鋼で鍛え上げられた彫像のように分厚く、威圧感に満ちている。短く整えられた銀の髪に、血のように紅い瞳。じっとこちらを見据えるその目は、まるで飢えた獣のよう——否、狼というより、伝説のフェンリルそのもの。


「それが信じられないなら、本人に聞いたらどうですか? 国王!」


 堂々とした声が響く。


 驚いたようにルークが眉をひそめ、ガリオンは腕を組んで不満げに視線を逸らした。


 イザベラはそんな二人を見つめながら、ふと小声で耳打ちされた。


「あれが『ベルシオンの銀狼』と恐れられるガリオン将軍です」


 振り向くと、そこには黒髪のくノ一あやめが鋭い目つきで立っていた。


 (……なるほど。確かに『銀狼』ね。でも、狼というより獰猛な獣神みたい)


 イザベラは興味深そうにガリオンを見つめた。


 身長は二メートル近く、肩幅も尋常ではない広さ。その血のように赤い瞳は、燃え盛る炎のように激しく輝いている。彼が戦場に立てば、それだけで敵兵の士気が崩れそうだ。


「すごく強そう……」


 ぽつりと漏らした言葉に、ルークがますます眉をひそめる。


「ガリオン、そのようなことを本人に聞けるか! だからお前は結婚できんのだ!」


 鋭い指摘に、ガリオンは明らかに動揺した。


 だが、イザベラは軽やかに微笑む。


「構いませんよ。それは本当のことです。お気遣い、恐れ入ります」


 その笑顔は、誰が見ても嘘偽りのない、晴れやかな微笑だった。


 それもそのはず——。


 イザベラの中の人、石黒麗子にとって、ヘインズ王太子など何の未練もない相手だった。むしろ、関わり合いになりたくないほど嫌っている。


「もともと政略結婚でした。結婚前に解消できて、むしろ幸運でしたわ」


 その言葉に、ケインズが再びメガネの縁をクイッと押し上げる。


 ルーク・ベルシオンは、じっとイザベラを見つめていた。


 果たして、その黒曜石の瞳の奥には——どんな思惑が隠されているのだろうか?


「ルーク様、グランクラネル王国からの送還要請、如何いたしましょうか?」


 冷静沈着なケインズが眼鏡をクイと押し上げながら問いかける。


「捨ておけ。裏で蠢いている連中の戯言など、聞く価値もない」


 ルーク・ベルシオンの声音は冷徹で鋭く、それでいて威厳に満ちていた。しかし、次の瞬間、彼はふっと表情を和らげ、まるで愛しい宝石を見つめるかのように、イザベラへと優しい眼差しを向ける。


「イザベラ嬢、貴方のような方が我が国に亡命してくださるとは、誠に喜ばしい限りです。……私はずっと、貴方のような女性をーーいや、貴方を 妻として迎えたいと願っていました。しかし、当時はグランクラネル王国の王太子と婚約中だったため、その想いを封じ込めるしかなかった。今こそ……私のプロポーズを受けてはいただけませんか?」


 ……は?


 イザベラの思考が一瞬、完全に停止する。


 ルーク・ベルシオンが、今、何と?


 王の金の瞳が揺るぎない決意と熱情を湛え、彼女を真っ直ぐに見据えている。だが、イザベラだけでなく、その場にいた全員が頭を石で殴られたかのような衝撃を受けたようだった。


「……」


 沈黙。静寂。時間が止まったような感覚。


 カチリ……


 まるで時を刻む歯車が再び回り始めるかのように、その沈黙を破ったのは、豪快な笑い声だった。


「ハハハハハ!!」


 銀髪の猛将ーーガリオンが、腹を抱えて笑い出す。


「これは一本取られた! 王もなかなか策士ですな!」


 何がどう「一本取られた」のか、イザベラにはさっぱり理解できない。呆気に取られたまま、怪訝な表情で彼を見つめる。


「これは良い! イザベラ嬢なら王妃として申し分ない。グランクラネル王国との関係改善にも……」


「逆だ、ガリオン」


 ケインズが冷ややかに言葉を遮る。


「死刑にしようとしていた者を送り返さぬどころか、王妃に迎えるとは……ヘインズ・クラネル王子の神経を逆撫でするようなものだ」


 だが、次の瞬間、彼の唇には不敵な笑みが浮かぶ。


「……しかし、それもまた一興ですな」


 言葉の最後に、眼鏡をクイッと上げる。


 こいつ、絶対何か企んでる!


 イザベラは心の中で警戒の鐘を鳴らす。


 周囲の武官や文官たちも、ザワザワとざわめき始める。


 だが、当の本人であるイザベラはというとーー


「ちょっと待って……なんなのこの展開?」


 突然のプロポーズ?  何それ、何の罰ゲーム?  いや、牢獄行きよりはマシだけど……いや、待て、よく考えろ。これは王城という名の黄金の鳥籠 ではないか!?


「突然の申し出に戸惑うのは当然でしょう。しかし、私の気持ちを理解してほしい。そして、知ってほしい。……私は、初めて貴方に出会った時から、一目惚れしていた」


 ルークの声が、深く低く、静かに響く。


「ずっと、貴方のことだけを想い続けていた。しかし、その想いを封じるしかなかった。そして今、その枷が解かれたのならーー私の心を貴方に捧げることが許されたのなら、私はもう迷わない。返事は急がずとも良い。私のことを知る時間が必要ならば、いくらでも待とう」


 息を呑むような静寂。


 王宮の大広間に、ルーク・ベルシオンの強く純粋な想いが響き渡る。


「……王城内に部屋を用意しよう」


 彼は静かに続ける。


「貴方はそこに住まわれるといい。その方が亡命者としても安全だ。私も、その方が安心できる。考え過ぎかもしれないが、市中に住まわれては、どこから情報が漏れ、どんな刺客が差し向けられるかわからない」


 ……ヤバイ! 完全に囲い込まれる!


 これではまるで、飼い猫が豪華な檻に閉じ込められるようなもの。甘い言葉と完璧な環境を用意し、逃げる隙を与えない。まるで手練れの狩人が獲物を追い詰めるように。


 イザベラの背筋が戦慄する。


「いえ、そこまでお世話になるわけには……」


 適当に断ろうとしたが、その瞬間、耳元であやめが静かに囁いた。


「私達の行動に支障は出ません。お嬢様のお好きなようになさりませ」


 ……は? え、王城でも動けるの? 私の忍び、ほんと優秀すぎるんだけど。


「執事もメイドもまとめて面倒を見ますので、一緒に連れてきてください」


 ふと気づけば、ルークがすぐ目の前にいた。


 え、近っ!? 


 気づけば、彼の体温を感じられるほどの距離にいる。息遣いすら聞こえそうなほどに。まるで獲物を追い詰めた肉食獣のように、静かに、しかし確実に距離を詰めてきていた。


 まるで「ダルマさんが転んだ」でもしていたかのように、彼は一歩一歩、気づかぬうちに距離を詰めていたのだ。


「そうしないと不安でしょうし?」


 満足げに微笑むルーク。


 いや、全然不安じゃねぇよ!! むしろ自由を奪われる方が不安なんだよ!!


 イザベラは心の中で絶叫するも、顔には愛想笑いを貼り付ける。


「お待ちください、ルーク様。まだ貴方のプロポーズを受けるとは申しておりませんし、この国に留まると決めたわけでもございません」


 どうかしら? すぐになびくと思ったら大間違いよ


 伏せた顔の下で、イザベラはムフフと笑いを噛み殺す。


 それにしても……私としたことが、少し気が動転していたようね。


 あまりの衝撃に、柄が悪くなっちゃったわ。


 ……ちょっと恥ずかしい。


「勿論、それは知っている。貴方の意思は尊重するし、プロポーズを受けてもらえなくても怒りはしない。だが、我が国にいる間だけでも、どうかここに住んではもらえないか? 貴方の安全をこの手で確保していたいのだ。それが叶わぬなら、兵士を派遣して守らせる。それほどに——貴方が気がかりなのだ」


 低く響く声は深く温かく、それでいて揺るぎない意志を秘めていた。


 ルーク・ベルシオンは一歩、また一歩と近づく。その動きは静かでありながら、まるで獲物を逃さぬ猛禽のような確かさを持っていた。気がつけば、彼の指が私の手をそっと包み込んでいるではないか。


 ——えっ!? いつの間に!?


 不覚にも取り込まれた形になり、反射的に顔を上げた。すると、漆黒の瞳がじっとこちらを見つめている。


 距離が近い——いや、近すぎる!


 漆黒の深淵を湛えた瞳が、まるで心の奥底まで覗き込もうとしてくる。鋭いまなざしの奥には、熱を帯びた何かが宿っていた。その顔立ちは整いすぎていて、彫像のような完璧さを持つ。鼻梁は高く端正で、唇は薄くも形よく引き結ばれている。濡羽色の髪は絹のようにしなやかで、動くたびに光をまとい、色気すら漂わせている。


 イ、ケ、メ、ン……!!!


 いやいや、ちょっと待って。これはヤバい。危険信号だ!


 私はハッと我に返り、慌てて視線を逸らす。だが、近すぎる距離に追い詰められ、顔を背けた先に彼の胸板があることに気づく。——くっ、どこを向いても逃げ場なし!?


 心臓が、鼓膜が破れそうなほど激しく鳴る。まるで鐘を乱打されているかのようにドクンドクンと騒ぎ立てていた。


 なんという破壊力。まさか私が、これほどまでに狼狽えるとは……!


 生前、幾多のイケメンを手玉に取り、甘言を弄して男を翻弄してきたこの私——石黒麗子が!?


 それなのに、こっちが翻弄される側だなんて、こんな世界設定聞いてない!!


 落ち着け、私! 冷静になれ、麗子!!


 必死に心を鎮めようとするが、ルークは微動だにせず、むしろ穏やかに口元を緩め、優しく微笑んでいるではないか。その笑顔がまた致命的に甘い! 砂糖も蜂蜜も霞むレベルの甘さ!


 ああもう、なんなのこの王様!? これが本当に、冷徹な王として名高いルーク・ベルシオンなの!?


 このままでは飲み込まれる——そう悟った私は、ギリギリのところで意地を張り、体の熱を押さえつけながら、なんとか平静を装った。


 こんな攻撃には負けない。負けるわけにはいかない!


 私は——この場で折れるわけにはいかないのだから!!


 ここで流されれば、全てが決まってしまう。王妃という名の鎖に繋がれ、自由を奪われる未来が見えた。だが、それと同時に——なぜか胸の奥に、奇妙なざわめきが広がっていく。


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