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4 散策  2  王都ベルシニアの陽光の下で

 王都ベルシニアの陽光の下で


 朝靄が晴れ、王都ベルシニアの街並みが黄金の陽光に照らされる頃、イザベラはあやめを伴い、石畳の大通りを歩いていた。


 王城を中心に広がる都は、歴史の風が磨き上げた宝石箱のように輝いていた。遠くそびえる城壁は、壮麗な金銀細工の縁取りを施された蓋のように、この街を優しく包み込んでいる。大小の建物が入り混じる街並みは、職人が丹精込めて嵌め込んだモザイクのように美しく、それぞれが異なる歴史を秘めていた。


 靴音が単調だがどこか上機嫌なリズムを刻む。石畳を踏むたび、コツコツと乾いた音が響き、その上を市場の喧騒が塗りつぶしていく。商人たちの威勢のいい掛け声、焼きたてのパンの香ばしい匂い、甘く熟れた果実を割ったような芳香、そして遠くから響く楽器の音色――ベルシニアの市場は、まるでひとつの巨大な生命のように鼓動していた。


 イザベラは、薄水色のワンピースの裾を優雅に揺らしながら歩いた。陽光を浴びて微かに透ける生地が、風にたなびく青い睡蓮のように涼しげに揺れる。柔らかな布が足元に触れるたび、心地よい感触が広がる。後ろには、白いエプロンと黒いメイド服に身を包んだあやめが、一歩引いて静かに控えていた。彼女の足取りは驚くほど軽く、まるで影が滑るように音もなくついてくる。


 ふと、街の喧騒がわずかに沈んだ。


 人々の視線が、一斉にイザベラへと吸い寄せられる。


 刺すような視線の洪水が、肌にじりじりと絡みつくのを感じた。


「なんて美しい方……どちらのご令嬢かしら?」


「……良い女だな……ゴクリ」


 女たちの囁きは、夜風にそよぐ花びらのように微かだったが、男たちの喉を鳴らす音は、まるで獲物を前にした獣のように露骨だった。


 イザベラは、わずかに唇を噛みしめる。


(……しまったわね)


 この世界に来てまだ日が浅い。だが、彼女の顔立ちはすでにこの世界の基準を超えた美貌であることを思い知らされた。前世では、それを武器にして男たちを手玉に取った。だが今は、むしろ枷になっている。


 かつての麗子は、自分の美しさを武器にし、男たちの視線を愉しんでいた。高級レストランでグラスを傾ける時、ブランドショップのショーウィンドウに映る自分を眺める時、男たちの目が彼女を追い、手が届かぬものとして焦がれる姿を見るのが快感だった。だが、今のイザベラは――。


(……狙われる側になった気分ね)


 背筋が粟立つのを感じる。かつて男たちを弄ぶ快感を知っていたが、今は視線そのものが敵意にもなり得ると理解している。


 注意は怠れないなと気を引き締めながらも気分転換のために外出しているのを忘れない。


 賑やかな市場の喧騒の中、ふと香ばしい焼き菓子の匂いに気を取られながら歩いていたイザベラは、路地の片隅にひっそりと佇む古びた屋台に目を留めた。周囲の鮮やかな看板や活気ある露店とは対照的に、そこだけが異質な雰囲気を放っている。


 屋台の天幕は黒く煤け、あちこちが継ぎ接ぎされており、そこにぶら下がる風鈴のような細工物が微かな音を立てて揺れていた。その奥、暗がりの中に潜むのは、歳の分からぬ老婆。白く濁った瞳を持ち、細くやせた指で怪しげなカードを撫でている。


 イザベラが目を向けたのを見逃さず、老婆はしわがれた声で囁いた。


「お嬢さん……未来を覗いてみぬかね?」


 その声は、乾いた風のように耳の奥をくすぐる。


「興味ないわ」


 イザベラは肩をすくめ、通り過ぎようとする。が、老婆の声が背後から追いかけてきた。


「お嬢さん……血が未来を覆い尽くす……だが、その先に、王冠の輝きが見える……」


 その言葉に、足が一瞬止まる。心臓がわずかに跳ねた。


 血に染まる未来? そして……王冠?


 イザベラは鼻で笑いながら振り返る。


「おばあさん、人の不安を煽るのが商売なの? 残念だけど、私はそういう手には乗らないわ。」


 そう言い捨てたものの、胸の奥に生まれた不吉なざわめきは消えない。かつて処刑台に立たされたそうになった記憶、閻魔大王に裁かれた瞬間、そして転生という奇妙な運命――それらがふと脳裏をかすめた。


 老婆はニヤリと口元を歪め、さらに囁くように言葉を重ねる。


「この世の理は巡るもの……過去に流された血は、未来へと続く。だが、お嬢さん、貴方が何を掴むかで運命は変わる。王冠を手にするか、それとも……」


 言葉が途切れ、老婆は意味ありげに笑った。その表情が、まるで何かを知っているように見えて、イザベラの背筋が微かに粟立つ。


 気味が悪い――。そう思い、深く追求することなく踵を返そうとしたとき、不意にあやめの指が袖を引いた。


 振り向くと、あやめの瞳が、微かに揺れた。まるで、何かを思い出したかのように。普段は冷静な彼女が、どこか神妙な面持ちをしている。


「どうしたの?」


「……いいえ、何でもございません」


 あやめはかすかに眉を寄せ、静かに首を振る。しかし、その目の奥に浮かぶ影は、老婆の言葉が単なる戯言ではないかもしれないと告げているようだった。


 ――何かを察したの?


 けれど、あやめがそれ以上何も言わないのなら、追及するのはやめておこう。


 イザベラは軽く息をつき、老婆の屋台に背を向けて歩き出す。だが、遠ざかる彼女の背後で、老婆のくぐもった笑い声が微かに響いた。


「運命は……すでに廻り始めておる……」


 その言葉が、いつまでも耳の奥に残っていた。


 その時、そっと傍らから優しい声が響いた。


「お嬢様、この近くに、フルーツケーキが評判の店がございます。いかがでしょう?」


 あやめが、静かに微笑んでいた。


 イザベラは、一瞬驚いたように彼女を見た。


(……あやめ、さすがね)


 彼女の気配りの見事さに、思わず小さく笑みを零す。


「面倒ね……でも、美味しいケーキのためなら我慢してあげるわ。行きましょう」


 小さく息をつくと、晴れやかにイザベラは再び歩き出した。


 焼きたてのパイの甘いバターの香り、シナモンと蜂蜜が混ざったような香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。果物屋の屋台では、熟れた桃の甘い香りが漂い、どこかで焼かれているスパイスたっぷりの肉料理の匂いが風に乗って流れてきた。イザベラの舌先に、ほんのりと生唾が滲む。


 店に着くと、恭しく迎えた店主に案内され、二階の窓際の席へと通された。


 窓の外には、活気あふれる市場が広がっている。陽光に照らされたカラフルな看板が踊るように揺れ、衣類や果物、香辛料を売る露店が軒を連ね、人々が忙しなく行き交う。


 イザベラは、ぼんやりとその風景を眺めながら、胸の奥に込み上げる感情を噛み締めた。


(……これからは、この世界で生きていくのね)


 過去の麗子の記憶が遠のくのを感じる。


 だが、それは寂しさではなく、新たな人生の幕開けのように感じられた。むしろ、前世では感じることのなかった「自由」を味わっている。


 思い出すのは、前世の最後の瞬間。


 裁かれ、無限ギロチンの刑を宣告されたあの日。――あの時、自分が「人生をやり直せる」なんて、夢にも思わなかった。


(もしも、神様がいるなら……私は、どう生きるべきなのかしら?)


 銀のフォークを手に取り、白皙の指でそっとケーキをすくう。


 甘く熟れた果実の香りが鼻腔をくすぐる。ふわりとしたスポンジが口の中でほどけ、クリームの滑らかさが舌を包み込んだ。


 ーーまるで、新しい人生の甘さを、ひと口味わったかのように。


 イザベラはゆっくりと目を閉じ、心の奥で決意を固めた。


 私は、イザベラ・ルードイッヒとして、この世界に名を刻む。


 少女は静かに息を吸い込み、窓の外の光景を見据えた。






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