3-3 変装
館の一室ーー淡いクリーム色の壁に、豪奢なシャンデリアが柔らかな光を灯し、重厚なカーテンが静かに揺れる。ベルシオン王国に逃れてきたばかりのイザベラは、くノ一のメイドたちに身支度を整えられ、ようやく少し落ち着きを取り戻していた。
そんな静寂を破るように、部屋の空気がざわりと揺れた。
「ということで、これからもこの小太郎がイザベラの傍につかえる。これからは執事の姿で護衛を兼ねる形になるから、それで良いな」
不意に響いた声に、イザベラははっと我に返った。
小太郎が……執事?
思わず目を瞬かせる。そういえば、小さい頃はいつも一緒に遊んでいたけれど、大きくなってからはずっと忍びの衣装に身を包み、顔をまともに見た記憶がない。鋭い赤と藍のオッドアイが仄暗い仮面の奥で光る以外、彼の素顔は長らく謎に包まれていたのだ。
「執事の姿で……最近は、忍者姿で顔を隠していたけど、執事になったらどうするの? 顔は変装するの?」
問い終わるか否かの瞬間ーー
シュルルルーー。
突如、小太郎の身体の周りだけの僅かな空間で風が巻き起こった。
いや、違う。ただの風ではない。まるで周囲の空気が小太郎を中心に渦を巻き、光を歪めるかのような奇妙な現象が起こったのだ。霞のような靄がゆらめき、黒い忍び装束がまるで幻のように掻き消えていく。
次の瞬間ーー
…………えっ?
イザベラの思考が一瞬停止する。
………執事。
いや、執事 “になった” 小太郎。
私は目を瞬かせた。
……これが、小太郎?
驚きに息を呑む。
そこに立っていたのは、長身で洗練された黒の燕尾服に身を包み、白い手袋をはめた完璧な執事姿の青年だった。
オッドアイ――右目は紅く、左目は深い藍色に輝いている。その神秘的な瞳に射すくめられ、一瞬、時が止まったような錯覚に陥る。
すらりとした背丈、引き締まった体躯、鋭くも品のある端整な顔立ち。
まるで絵画から抜け出した貴公子のような佇まい。
それなのに、確かにそこにあるのは――私の知る、小太郎の面影。
あの生意気で可愛かった小太郎が、こんなに洗練された大人の男に成長していたなんてーー。
心の奥が、ざわりと波立った。
幼い頃の面影をもっと探そうとする。しかし、そこにいたのは、かつての弟分ではなく、隙のない貴族の執事然とした青年だった。その変化に、なぜか胸の奥が妙にざわつく。
「ふふん。見習い執事くらいには見えるわよ」
驚きを誤魔化すように、わざと上から目線で微笑む。
小太郎は微かに口角を上げ、低く、けれど確かな響きを持った声で言った。
「この姿の時は、お嬢様と呼ぶからな。イザベラ」
「……っ!」
幼い頃、私を「イザベラ姉ちゃん」と呼んでいた小太郎。その少年が、今は低く落ち着いた声で「お嬢様」と呼ぶ。たったそれだけなのに、何かが決定的に違う気がする。
――小太郎は、もう “あの頃の小太郎” じゃない。
瞬間、背中にぞわりと鳥肌が立った。
お嬢様。
小太郎にそう呼ばれるのが、何とも言えず気恥ずかしい。つい昨日までは、偽りの素性を隠し、晒を巻いて変装し、必死に生き延びることしか考えられなかった。それなのに、今はーー
ーー私を、立派な主として認めるつもり?
あの頃のように「イザベラ姉ちゃん」とじゃれついていた小太郎はもういない。そう実感すると、何かが遠ざかっていくような、妙な寂しさが胸を締めつける。
それでも、強がりを装うように笑った。
「小太郎にお嬢様なんて呼ばれると、なんだかムズムズするわ。フフ」
「そうか? では、早速報告だ」
イザベラの冗談を軽く流し、小太郎は、私の戸惑いなど気にも留めず、淡々と続ける。
「各国にお嬢様の捜索と引き渡しの要請が出ている。この国の王は今、あのルーク・ベルシオンだから、お嬢様をグランクラネル王国に引き渡すことはないだろうがな」
その言葉に、イザベラはピクリと反応した。
各国に捜索要請ーーつまり、私は今、国際指名手配のようなもの?
ルーク・ベルシオン――ベルシオン王国の新たな王。
今私はベルシオン王国にいる。ルーク・ベルシオンがこの国の王である限り、少なくとも私は “公爵令嬢イザベラ” として処刑されたり、グランクラネル王国に引き渡されることはない……はず。けれど、それが完全な安全を意味するわけではない。グランクラネル王国がどれほど執拗に私を追うかは、まだわからないのだから。
「……まあ、しばらくは安心していいってことね」
紅と藍のオッドアイに射抜かれ、心の奥が妙にざわつく。
(……無駄口は叩かないのね、相変わらず)
小太郎らしいといえば、らしい。でも、私の軽口に少しくらい反応してくれてもいいのに!
早速の「お嬢様」呼びが、背中をむず痒くする。
くそっ、なんなのこの違和感。
いつもは私を「イザベラ」と呼び捨てにしていたくせに、急に「お嬢様」なんて呼ばれたら……なんか、落ち着かないじゃない!
(……でも、こうやって護衛として傍にいてくれるのは、心強い)
しっかりとした背中を見て、ふとそんなことを思う。
小太郎は何か言いたげにこちらを見つめるが、結局何も言わず静かに頭を下げた。
冷静で、無駄口を叩かず、ただ主のために尽くす忍び。
昔はあんなに生意気だったのにーー
急に、喉の奥が乾いたような感覚に襲われた。
「お嬢様」と呼ばれるたびに、自分の立場がはっきりと突きつけられる。小太郎との関係も、幼い頃とはもう違う。
ーーそれが、少しだけ。ほんの少しだけ、寂しく感じるのはなぜなのか。
その答えは、自分でもまだ分からなかった。




