1 転生
人は死に直面すると、生前の記憶がまるで走馬灯のように目の前を駆け巡り、過去の一瞬一瞬が鮮明に浮かび上がると言われている。しかし今、私の脳裏を占めているのは、確かに私の記憶ではない。まるで別人の記憶が無理矢理押し寄せてきているかのようだ。
そう、私は死んだのだ。ほんの少し前、目の前に現れたのは、まるで地獄の番人を彷彿とさせる真っ赤な肌を持ち、ギョロリとした目が不気味に光り、鋭い牙を覗かせる異形の大男――閻魔大王だ。彼は私の生前の悪事を裁き、『無限ギロチンの刑』と冷徹に告げ、深いため息をついた。ため息は、まるで私を極邢の運命に突き落とすように、重く、冷たかった。その瞬間、私の意識は闇に呑み込まれた――地獄に送られるはずだったのに、何故か今、私はここにいる。
私の脳裏で展開する走馬灯の物語は、公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒの幼少期から始まった。柔らかな陽光に包まれて育ち、贅沢な衣装と優雅な食卓に囲まれて――美しく、わがままに、そして少しだけ頑固に育てられた彼女の姿が映し出される。次に訪れるのは、あの王子との婚約の知らせ。王子ヘインズ・クラネルはまさに王子様そのもの、豪華な外見と高貴な血筋を持ちながら、イザベラの心を魅了していった。イザベラは過酷な王妃教育を受けながら未来の良き女王を目指して寸暇を惜しんで努力する。だが、彼女の未来は、あっけなく崩れ去る。王妃教育で時間に余裕のないイザベラにヘインズ王子の不満は高まり、王子は公然と浮気するようになったのだ。そして卒業パーティーで婚約解消を発表する。王子に抗議したイザベラは王子に殴り飛ばされ、仰向けに倒れる……その瞬間で走馬灯は途切れた。
これはイザベラの記憶だ。私はそう理解してイザベラという人間を考察した。
この子、美しいけれど、ちょっと負けん気が強すぎるわね。でも、頑張り屋さんで、素直に言うと、本当は良い子なんだ。王妃教育も真面目に受けていて、時間がない中でも一生懸命やっていた。でも、王子は……あんな公然と浮気をして、挙げ句の果てに婚約を破棄だなんて……。
もしこの子が、黙って耐えていたら――泣き寝入りしていたら、こんなことにはならなかったのに。死ぬこともなかったのに……こんなに騒ぎを大きくしてしまったから、きっとこの後は処刑台に送られる運命だったはず。でも、あの一撃で――もう後頭部を強打して死んじゃったのね。可哀想だけど、もしかしたら、この後、牢に繋がれ、拷問を受け続けるよりは、きっと幸せな終わりだったのかもしれない。……それに、この子にも悪いところはあったのよ。
私ーー石黒麗子は、イザベラ・ルードイッヒの人生を、まるで他人のように寸評する。転生前、腹黒人生を送り、閻魔に捌かれ、地獄送りを言い渡された私が言えたことじゃあないけど。
そう。私は石黒麗子――誰もが憧れ、羨むような美貌を持ちながら、他人のものを奪い続けた女。彼氏を奪い、そして奪われ、どれだけの男を手に入れ、どれだけの女性の涙を引き出したことだろう。
だって、素敵な殿方たちは、いつだって邪魔な女に囲まれていたんだもの。それに私は、本気で取ろうとしたわけじゃないのよ。ただ、少し気を引くような素振りを見せただけで、彼らが向こうから寄ってきただけなの――仕方ないじゃない。だって、私があまりにも美しすぎたから。
それに、二股男たち――男なんて、どいつもこいつも二股してきたし。でも、私はほとんどの男を、最終的には私のものにしたわ。勝った後は、その男を振ってやった。手も握らせやしなかったし。
……そして、面と向かって元の女に言ってやったの、
「あの男は、私のことが好きなのよ」
って。
それだけのことなのに、なぜか私が非難される……それだけで、あのクソ閻魔に捌かれるなんて、どうしても納得がいかない。『無限ギロチンの刑』って、一体何よ?
気付けば身体強化の魔法まで使ったヘインズ王子に思いっきり殴られた左頬が痛む。ズキズキとしたその痛みが、まるで私を罰するかのように響いている。後頭部には大きなたんこぶが出来ていて、殴られた感触が脳裏に鮮明に焼きついている。それは、私の体が痛むことで、何か大きな真実を知らせているようだった――あれ? でも、どうして私の頬が痛いんだろう? 殴られたのはイザベラのはず。
初めて目を開けると、目の前に広がったのは、眩い光に包まれた、見知らぬ天井だった。その天井は、まるで素敵な芸術作品のように、繊細で優美な模様が描かれている。天井には、いくつもの大きなシャンデリアが煌めき、柔らかな光を部屋いっぱいに散りばめている。私は仰向けに倒れている。まるで中世ヨーロッパの貴族たちが集う豪華なパーティー会場にでも迷い込んだかのような、重厚で優雅な空間が広がっている。――この場所は、どこかで見たことがある。確か、走馬灯に映った学院の卒業パーティーだ。
私は地獄に送られるはずだった。なのに、今、ここにいるのはなぜだろう? それとも――これが夢なのか? いや、そんなはずはない。死んだはずなのに、私はここにいる。
「ここは……どこ?」
息を呑んだ。声が出たのか出ていないのか分からなかったが、確かに私はここにいる。異世界のような空間に。
何が起こったのか分からない。死後、すぐに閻魔大王に裁かれるはずだった。『無限ギロチンの刑』――その言葉が脳裏に響く。あの瞬間の冷徹な声、ため息をついたあの顔を、私は決して忘れないだろう。あの後、何も感じず、ただ闇に呑み込まれたと思っていたのに……。
しかし、今、私はここにいる。息をしている。頬と頭以外に身体の痛みもない。でも、どうして私はこんな場所にいるのか?
目の前にぼんやりと浮かぶ記憶。それは私のものではない。イザベラ・ルードイッヒ――その名前が頭に浮かぶ。彼女の記憶が、私の中でざわざわと動き出す。
公爵令嬢イザベラ。優雅な衣装に囲まれ、広い屋敷で過ごす日々。あの王子との婚約――でも、何かが違う。何かが、違う。私の中にあの王子への執着が感じられない。王子ヘインズ・クラネルという名前に反応しようとしたけれど、それは私のものではない感情だ。
「私は……一体、誰?」
深いため息をつく。これは一体、どういうことだろう。私は石黒麗子。そう、確かに私が麗子だ。死ぬほどの美貌と魅力で、他人のものを奪い取ってきた。男たちを振り回し、女性たちを泣かせてきた。そのことに後悔はなかった。ただ、私が欲しいものを手に入れる。それだけだった。
しかし今、私の体は――イザベラのものになっている。
「イザベラ……?」
声に出してその名前を繰り返してみる。しっくりこない。自分が誰なのかがわからなくなり、ただその名前が耳に響く。私の記憶には、イザベラの記憶がどんどん流れ込んでくる。イザベラの過去、家族、王子との関係、そして――あの時のこと。
「いや、私は――」
イザベラは、確かにあの王子に裏切られた。でも、何かが違う。私の中でその感情が湧いてこない。あの王子に対する憤りや怒りが、どこかしら空虚で冷たい。それは私が経験したことではないような、他人の感情のようだ。
私――石黒麗子の記憶の中では、私は決してそんな風に扱われることを許さなかった。あの王子を奪われるなんて、絶対に許せなかった。だが、ここで感じるのは、イザベラとしての無力感、ただの空しさ――そう、まるで私が他人の記憶に操られているような気がしてならない。
その瞬間、ふと気づく。私の体が、まるでイザベラのものになったように感じる。その感覚がじわじわと迫ってくる。私の手はイザベラの手、私の目は彼女の目――それに、私が感じるのは、この身体が完全にイザベラだという事実だ。
「どうして……?」
心の中で叫ぶ。しかし、体が応えてくれない。どうして私の記憶がこんなにも混乱しているのだろう? 麗子としての自分と、イザベラとしての自分――その二つの自我が、どんどん交錯していく。
私は、イザベラの人生を引き継いだのか? それとも――
「いや、私がイザベラであってもいいのか?」
「私は誰だ?」
その問いが繰り返し私の中で響く。だが、答えはまだ見つからない。ただ、目の前に広がる豪華な空間に身を任せるしかないのだろうか。死んだはずの私が、異世界で再び目を覚まし、そして――イザベラ・ルードイッヒという人物として生きることになったのだろうか?
それでも、この体はまだ私のものとは思えない。何もかもが不確かで、混乱している。けれど、私は――どうしても、この新たな人生を受け入れなければならないのだろうか。
痛む左頬を抑えると、口の中に固い物が当たった。意識がそちらの方を向く。何だろう、これは…小さな奥歯が抜けている?
慌てて手を口に突っ込んで、抜けた歯を元の穴にねじ込んだ。確か、抜けたばかりの歯は再びくっつくことがあるって、昔誰かが言っていた気がする。
そのまましばらく固唾を呑んでいると、聴覚が戻ったのか、周囲の声や音が少しずつはっきり聞こえ始めた。