聖女は、不完全であるが故に
静かだ。もっと、騒がれるかと思った。
「アンナ・ララネット。お前を聖女の任から解く。もう二度と、この神域に踏み入る事まかりならん」
たったそれだけの言葉で、私は栄光を手放したのだ。
完全を尊ぶ世界宗教にあって、聖女はその象徴でなくてはならない。
だというのに、今の私は……
左手で、右の肩に触れる。肩にだけ。二度と、その先に触れる事はない。失われた右腕である。
私は、完全ではなくなってしまったのだ。
勇者に伴っての旅は、辛く苦しいものだった。幾度となく命の危機に陥り、幾度となく誰かに助けられた。特に、魔王との決戦は熾烈そのものだ。誰一人として命を落とさなかったのは、きっと女神の加護に違いない。
だが、私は右腕を失った。
魔王の倒れ際、苦し紛れに放たれた魔法から勇者を庇ったのだ。あるいは体の半分ほどを失うほどの一撃であった事を思えば、私など軽症であると言える。
それでも、失われたものは戻らないのだ。
これからは、人知れずひっそりと暮らそう。教会は、私を死んだものとして発表するらしい。私の存在自体を抹消するわけではない、ひどく寛大な措置だ。
誰にも告げず、私は街を出た。およそ聖女であったとは思えない、薄汚い服を身に纏って。
民衆に紛れられるようにという、最大限の配慮だ。
ありがたい。
私など、所詮は一人の信徒に過ぎないのだ。教会という組織のためを思えば居なくなってしまう方がはるかに良いはずなのに、まさか生きる事を許されるなんて。
片腕での生活は、意外にも不便の少ないものだった。
片田舎の端の端。自分で作った掘立て小屋に住まわせてもらい、狩りと農業で食い繋いだ。住民からの印象はどうやら芳しくなく、私は不完全な体で自立する必要があったのだ。
ただ、正直に言えばその方が気楽である。
きっと、一般にはそうではないのだろうが、仮にも私は魔王を討伐した勇者の一行である。多少の魔法と、女神の加護。それを考慮した時、私の生活に大した不便は生まれなかった。
もはや聖女でなくなった私にも、女神は加護を与えてくれるのだ。こんなにも幸福でよいのだろうか。私は、あまりにも幸福すぎる気がしてならない。
不安だ。いつか、取り立てられてしまうのではないかと。貰いすぎた分を、取り返されるのではないかと。
そして案の定。私の幸福は俄かに失われる事となる。
「アンナ・ララネットだな?」
「……はい」
森に入り、野鹿を狩った帰り道。私は、複数人の男に囲まれた。
明らかに専門の訓練を積んだ手練れである。さらには、服の目立たない場所に女神の紋章が刺繍されていた。
口封じ。やはり女神は、私の存在を許さなかったのだ。
「恨んでくれるなよ?」
「……? はい」
恨む。一体、何をだろう? ごく当たり前の事だけが起きた私の人生で、恨む事など何一つとしてないではないか。
抜かれた剣が、切先に触れた木の葉を両断する。なるほど、私の首を分つ事くらい容易そうだ。
運が良ければ、苦しみを覚えずに済むかもしれない。そう思い、私は首を深く垂れた。
慈悲深き処刑人。あるいは隣に並んでいたかもしれない同胞。私が聖女でなくなってしまっただけで、彼らは敬虔な信者である。
完全でなくなった私にとって、今生きているのは単なる幸運である。そして、本来であれば生きている事すら烏滸がましい事を思えば、ある意味では苦痛とすら言える。
だからだ、ある意味救われるような気分だった。
空腹の馳走。窒息の一息。何より追い求めたものを与えられるような、落ち着いた心持でその刃を迎える。
……その、つもりだった。
「な、なんだ貴様!?」
「近づくんじゃあないっ!!」
「?」
目を閉じ、顔を伏せ、それでも耳は聞こえていた。男たちの叫び声を聞き、一体何事かと顔を上げれば、そこには血に塗れた木々と一人の少年が立ち尽くしているのみだ。
そしてその足元には、あるいは先ほどまでの声を発していた複数人かもしれないものが転がっている。
一体誰なのか。そんな疑問は、すぐになくなる。
一体何が目的なのか、そんな疑問も、すぐに解消される。
一つ目は、彼を知っていたために。
二つ目は、彼が口を聞いたために。
「四天王残党……アルカエスト・フューブリック……」
「あれ、聖女じゃん。何やってんのこんなとこで」
魔王勢力唯一の生き残りにして、人類最後の大敵。魔王を討ち取った現在において、全ての人類国家が追い求める首が彼だ。
おそらくは、かつて私と共にあった勇者たちも彼を討ち取るために旅を続けている。
およそ想定できる中で、最悪の相手だ。片腕の私では、とてもではないが逃げる事すらままならない相手である。
これこそが、私に与えられた罰なのだろうか。ただ死ぬだけでは足りなくて、私に恨みを持つ彼を使わせたのだ。
彼の配下を倒した。彼の領地を襲った。彼自身を痛めつけた。そして、何より彼の慕う魔王を討ち取った。
きっと、恨まれている。恨んでいるに決まっている。恨まれていないと思うのならば、私はこの世で一番の楽観屋だ。
「わ、私は……」
「ええ? よく見たら大怪我じゃん。人間って腕落ちても平気なんだっけ?」
「い、いや……それは……」
一見して人間と何ら変わりのない姿だが、やはり彼は魔族なのだ。彼自身は、腕が落ちようとも腹を貫かれようとも命に別状はない。その生存能力こそが、私たちが彼を討ちもらした理由である。
恐ろしい。すでに命を諦めてなお、魔族を前にして恐怖している。
これは、魔族の残党が人類に仇をなす憂いなどではない。もっと単純で、もっと根源的な恐怖だ。
「おいおい、泣くこたぁないだろ」
「……え?」
泣いている。私が?
そんなはずはないと思いながら、水滴が地面を濡らす。顔に触れようとして、右腕がない事を思い出した。改めて左手で触れると、確かに私は泣いていた。
気が付かなかった。
私は、悲しいのだ。
「これは……これは、今怪我をしたわけではありません」
「ああ、そうなの。よかった」
「よかった……?」
おかしな話だ。私が怪我をしていない状況を、よかったなどと。
私は、命を落とすべき聖女落ちだ。首都教会の半径一里には接近禁止令が出されており、日常ではほとんど顔を出さないよう生活している。そして、神殿所属の聖騎士も、今日まさに私を殺しにきた。
無事でない方がいい。無事でない方が、多くの者の幸せに繋がる。
それを、無事でよかったなど。
それも、他でもない魔族が。
しかし、アルカエストは気にした様子もなく私に触れる。残っている方の手をとって、立ち上がらせようというのだ。
「立てる? 無理そう?」
「だ、大丈夫です……」
まさか、こんな事になるとは。
一度は命を狙った魔族が、一度は命を狙われた魔族に、一度は殺し合った魔族から、手が差し伸べられるなんて。
この世に生きてはいけない私を、同じく生きる事が許されない相手だけが許している。
ほんの少し、震えてしまった。
殺されると思った時はそうではなかったというのに。
「どうした? やっぱり怪我してんの?」
「いえ……いえ、私は……」
「いや、まあ、無理に話さなくていいけど」
その後の行動は、自分でも後から思い出して不思議に感じる。森の奥へと進むアルカエストに、とぼとぼとついていったのだ。
まるで並んだアヒルの雛鳥のように。まるで迷子の子ヤギのように。
「びっくりしたよ。俺を追ってきた連中かと思ってさ。殺しちゃったけど、よかったんだよな?」
「え? はい、構いません。気にしません」
「ふーん」
アルカエストは、どうやら森の中で暮らしているらしかった。
私の身長よりも太い巨木には、巧妙に洞が隠されており、その中の空間が魔法によって拡張されている。決して広くはないものの、しかし利便性という面で考えれば人が住むには十二分だ。
大きなベッドには、どうやって手に入れたのか羽毛の布団が敷かれている。椅子やテーブルも、オシャレな模様が彫り込まれていた。さらには上下水道があるらしく、木の中だというのに異様に清潔だ。聞けば、お風呂に入る事すら可能なのだという。
私よりも、全人類から逃亡している魔族の方が上質な生活をしている。あるいは、聖女であった頃よりも。
清貧を尊ぶ神殿では、非常に質素な生活をしていた。奇跡は高潔さにのみ宿ると考えられていたからだ。
しかし、私の信仰は揺らいでいた。
「座りなよ、立ってたら疲れるだろ」
「……はい」
片手では椅子を引きづらく、魔法によって引き寄せた。
女神の奇跡に起因する聖女の魔法だ。何一つの贔屓目なしに、私はこの世界最高の聖魔法使いである。
そう、未だに私は聖魔法使いなのだ。
完全でなくなり、女神に見放され、聖女の地位を追われてなお、私は魔法が使えている。女神の教えを信じるのならば、とっくの昔に使えなくなっていなくてはおかしいというのに。
「お水を、いただけますか?」
「いいよ、はい」
「ありがとうございます」
何とも奇怪な、ガラス製の杯に水が注がれる。見た事のない器だ。王族ですら、これほどの名器を扱う事はできないだろう。
水自体も、驚くほどに美味しい。
何やら、甘い風味が付けられている。柑橘系の果実だろうか。全くの世辞抜きに、今まで口にした中で一番おいしい飲み物だ。
「その腕は魔王様に?」
「え? あ、はい。死に際の苦し紛れといった様子でしたが、それでも人類の大敵に相応しい魔法でした。腕だけで済んだのは幸運でしょう」
「腕がなくなったのに?」
「命を落としてもおかしくなかったので」
「そうかなあ? 俺ならなんで自分がって思っちゃうよ」
あっけらかんと。
そんな風に言えれば、どれほど楽だったろうか。しかし、私は曲がりなりにも元聖女である。そんな考えは、頭に思い浮かべる事すら許されるものではないのだ。
これほどまで揺らいでなお、私はあくまで聖女なのだ。あるいは、魔法が使える理由はそれかもしれない。
もしも彼のようになれたなら、私から魔法の力が失われるのだろうか。
不思議な事に、そんな事を思っても何ら悲しくなかった。
「こんなに整った暮らしをしているとは思いませんでした」
「小汚い格好でおっかなびっくり震えているだろうって? そんな生活ごめんだね」
「なるほど……」
ごめんだからと、事実それを避けられる。それは、彼がそれだけの力を持っているからだ。魔王軍最高幹部の四天王としてではなく、自らを決して曲げない力が。仮に、私が聖女の地位にしがみつこうとしても、それはかなわなかったろう。私には力がない。魔王を討伐した勇者一行の一員である私ですら、その実ただの小娘に相違ないのだ。
力がない。何より、私の心に。
◆
なんか着いてきたんだけど?
別に助けるつもりなどないままに成り行きで助けたかのような形になり、別に殺すまでもないようだから無視して家に帰ろうかと思っただけなのに。
コイツは、一体なぜトボトボ俺の後ろを歩いてきたのだろう。
かつて、俺はこいつに殺されかけた。無論戦場での生き死になどお互いさまではあるが、そう思わない相手もいるだろう。俺がそうではない保証などどこにあるだろうか。それとも、落ち延びた俺程度であれば問題になどならないと思っているのか。
勘ではあるが、違う気がする。現存する唯一の女性聖者は、自らの実力を過信する傲慢とは無縁だ。
「いったいどうやって食器にこんなに精巧な細工を?」
「あー……俺が自分でやったんだよ。趣味なんだ」
「すごい技術ですね。人類ではそれほどの実力者に出会った事がありません」
「へえ、すごいって思うのか」
かつて、仲間からはみみっちいと馬鹿にされた。当然そう言った連中をただで済ませた事はないが、次第に趣味の事は誰にも言わなくなった。
多分、恥じたんだと思う。恥じる必要などないと、分かっていたはずなのに。
きっとこの時からだ。俺の中で聖女が特別に感じ始めたのは。
今までのどうでもいい存在ではない。そこにいてくれるだけで、気持ちが少し穏やかになってしまう。
「……なにこれ?」
「朝食です……けど、ご迷惑でしたか?」
勝手に俺の食器を使って、勝手に食材を調理した。だというのに、何一つ腹が立たないのだ。そればかりか、目の前の質素な食事がありがたくすら思える。
「すみません、豪華な料理には覚えがなく……」
「いや、別に気にしないけど」
正直。あまり美味しくはなかった。いや、魔族にとって、人間の味付けが薄いだけだ。種が違い、姿が違い、味覚が違う。ごく当たり前の事ではあるが、俺は不味いと言わなかった。
何故だろう。別に言っても、問題などないだろうに。
「神殿では、誰かと共に食事をとった事がありませんでした」
「そうか、じゃあ記念日だな」
「……はい」
聖女が俯く。しかし、悲しんではいないようだ。表情は見えないものの、なんとなくそう感じた。
言葉を交わしたわけでもないのに。
黙々と食事を済ませ、食器を片付ける。聖女はそれもしようとしたが、さすがに片腕の相手に労働をさせるのは気が引ける。
生まれて初めて、気が引ける。
それとも、聖女の魔法ならば片腕でも不便はないのだろうか。
「あれ? おい聖女」
「は、はい! 何か不手際がありましたか?」
怖がっている。聖女が。果敢にも魔王に立ち挑んだ聖女が。命の危機にも震えなかった聖女が。
一体、何だというのか。俺はただ、他愛ない事を一つ聞きたいだけだというのに。
「いや……倉庫の食材が減ってないようだから、どうやって食事を作ったのかなって……」
「と、取ってきました! 使うのは気が引けてしまって……」
「え、凄いな。片腕で狩りをしてきたのか」
よく考えれば、普段もそうしているのかもしれない。彼女は依然として、人類史上最高位の聖魔法使いなのだ。
もしも、彼女と本気で戦ったらどうなるだろうか。
俺は万全。彼女は隻腕。それでなお、容易い相手ではないだろう。あるいは敗北も見えるような、それほどの強敵だ。かつての彼女を知る魔族ならば、誰もが同じ事を思うだろう。
それほどの相手を前にして、落ち着いている。安心と言ってもいい。安堵と言い換えてもいい。安寧と表現してもいい。今まで、例えば魔族の全盛たる魔王様台頭時代すらも凌駕して、俺の心は安らいでいるのだ。
まして、人間を前にしてである。
聖女の方はどうだろうか。少なくとも、怯えてはいなさそうだ。しかし、その心根を真に察する事などできはしない。願わくば、俺と同じならばいいなどと、俺らしくもない事を思う。
もしかしたら、俺はどうかしてしまったのだろうか。
◆
なんともおかしな話だ。かつては魔族と戦った私が、魔族と暮らして一月にもなる。
滅ぼさなくてはならないと、許すわけにはいかないと。それほどまでに憎んでいた相手の隣が、何ものにも代え難い安らぎを与えてくれるのだ。
「ここは捨てる」
「はい」
朝起きると、アルカエストがそう言った。何も不思議な事はない。人類全てからの逃亡者である彼は(当然私も)、同じ場所に留まり続ける事ができないのだ。
なので、短い期間で住む場所を変える。きっと、死ぬまでそんな生活を続けるのだろう。
手に持てるだけの食器類だけを持って、他は全て丁寧に壊した。せっかく作った物ではあるが、残したら彼の痕跡になってしまうので無くしてしまわなければならないらしい。
そればかりか、木の洞を入り口にした生活穴まで全て埋めるというのだ。あとに残るのは、古びて今にも果てそうな朽木のみである。
「助かっちゃうな。今までは俺だけだったから、持てる物も少なくてさ。聖女がいてくれてよかったよ」
「い、いや……大した事は……」
いてよかった。その言葉は、かつていつだって私のものだった。
勇者に連れられて世界を周り、常に三歩引いた場所から物事を見ていた。自らを主張する事のない私は、世界最高の聖魔法使いでありながらあるいはいないかもしれない存在だったのだ。
結局最後まで、いてくれなくては困ると言われた事がない。その事を不満になど思わないが、今となっては寂しく感じる。
だが、アルカエストの言葉は違う。
彼の『いてくれてよかった』は、とても温かく感じた。咄嗟に否定してしまったものの、もっと役に立ちたいと願うような。
恐らく、彼の言葉が心からのものであると確信しているからだ。気を遣いながらも世辞などでなく、多少大袈裟であっても嘘ではない。
片腕ながら、魔法を使えば荷物持ちくらいはできる。物体を浮かせる魔法は、魔法使いの基礎の基礎だ。無論、家具類の全てまでとはいかないものの、それでも素手で持つよりも遥かに多くの物を運べるだろう。
彼の役に立っているという実感が、どうしようもなく嬉しくて仕方がなかった。
聖女であった私が、まさか魔族であるアルカエスト・ヒューブリックに対してである。
私は、おかしくなってしまった。
私のあらゆる行動が、女神の教えを違えるものだ。本来であれば深く悔やみ、涙ながらに許しを乞うべき愚行である。当然、丸一年前までの私であればそうしただろう。
なのに――
「アンナ……!」
「っ!?」
はじめ、誰の声か分からなかった。聞き慣れたはずの、よく知るはずの、命を預けたはずの声を、すっかり忘れてしまっていたのだ。
しかし、落ち着いてみれば明らかだ。そして、なるほど彼が現れるのも納得と言える。いや、正しくは彼らと言うべきだろうか。
「おっと、勇者一行揃い踏みで」
「何をしているんだアンナ!」
「……俺は無視かよ」
私の人生で、紛れもなく最も大きな偉業。魔王の討伐に動いた、勇者率いる少数精鋭。通称を勇者一行。かつては私もその一人であったが、今では向かい合ってしまっている。
勇者たちの眉間には、深く皺が寄せられていた。
「君が魔族に与していると情報を受け、私たちが動く事となった。信じられなかったが……」
「ララネット殿、今からでも遅くはない! 我らと共に国へ帰りましょう」
「アタシたちが口効いてあげるから早く戻ってきなさいよ!」
悲痛な表情で私を呼ぶ、かつての仲間たち。勇者と、戦士と、魔法使い。長く苦楽を共にした彼らとは深い友情で結ばれ、彼らのためならば命を懸けても惜しくはないとすら思ったほどの相手だ。
しかし、それも過去の事である。
今は、ただただ気持ち悪いと感じた。
「えっと……」
なんと言えばいいのだろうか。何と言っても駄目なのだろうか。決して分かって欲しいわけではないものの、反論の一つでも言ってやりたいと思った。
やはり、私はもう聖女ではない。こんな暗い感情を持つなど、聖女にあるまじき事だ。
「私が裏切ったのですか?」
「は……?」
「私が、人類を、裏切ったのですか?」
どうやら意味が分からないらしく、勇者一行は互いに顔を見合わせる。
「……裏切ってなどいないと言うのか? 例えば……そう、例えば、その魔族を騙すために潜入していたとか、弱点を調べたとか」
「いやだとしたらこの場で言うわけねぇじゃん」
「黙っていろ薄汚い魔族め!」
勇者の目には、怒りが燈る。彼の父は、魔族との戦いで命を落としたのだ。当時の四天王の一角と一騎打ちをして、壮絶な戦死を遂げたのだとか。聞けば、その魔族はこの時の怪我が原因となりのちに命を落としたという。
この怒りを原動とし、遂には魔王を討ち取った英雄こそが勇者だ。彼の前に立ち生き残った魔族は、今までにたった一人しかいない。
かつて、その生き様に感銘を受けた。
自らの全てをかけて世界を救うその在り方は、私が求める滅私奉公に他ならなかったのだ。
だが、今はどうだろう。
まるで、わがままにも暴れ回る幼子のようだ。
「勇者、私は戻りません。戻れないのです」
「何故だ! やはりその魔族に何かされたのか!?」
「おのれ、よくも我らの仲間に!」
「待ってなさい! 必ず助けてあげるからね!」
「……やはり、聞いていないのですね」
もしも争ったなら、私は生き残れないだろう。私は自分を世界最高の聖魔法使いであると自負しているが、彼らもまたその道で世界最高の達人なのだ。片腕のない私では、せいぜいアルカエストを逃す事が精一杯。
当然、その場合私は逃げられない。
——だから……
「私は、人生を世界に捧げました。世界を救うために尽力したのです。ついには、腕すら失うほどに」
「そうだ、その君が何故……!」
「その仕打ちがこれだとするのなら、私はもう聖女ではいられません。神殿は、私を聖女の任から解きました」
「しかし、それは宗教上仕方のない事だと聞いているが……」
「その通りです。もちろん、それだけならばその通りなのです。その後に、私の口を封じるような事がなかったのなら!」
宗教上の理由。なるほど、まるであらゆる蛮行を正当化する、文字通りの免罪符だ。もしも私が勇者たちの立場であれば、心を痛めながらも仕方のない事と思っていたのかもしれない。
だが、当事者となってはどうだろう。
命を落とす直前まで迫り、不意に助かったとして。その命を惜しいと思わないだろうか。
私は、思ってしまった。
「私は死にたくない! 聖女でなくなっても、腕を一つ失っても! 殺されるなんて嫌です!」
裏切った……? 人類を?
否、そんな馬鹿なはずはない。人類こそが、私を裏切ったのだ。この世の誰よりも人類に奉仕した私を。
勇者たちから見れば、私は闇に堕ちたのかもしれない。
魔族に与し、堕落し、人類に仇をなしているのかもしれない。
だが、私はそうではないと思う。
ごく当たり前の事だ。死にたくないと願い、どうにか足掻き、か細い糸を手繰り寄せるように生きている。誰もがしている事であり、今まで私がしなかった事だ。
私は、ようやく普通の人間になった。ならば、かつてのままでいられるはずないではないか。
「戻れば、私の口は封じられてしまう。神殿にとって、私の存在は不必要だからです」
「馬鹿な! 何かの間違いだろう? これまで世界に貢献した君を蔑ろにするなど!」
「何も分かっていないのですね」
私は、分かる。
聖女として、信徒として、聖職者として生きた私には、神殿が是が非でも私を亡き者とする理由が理解できる。
知っているのだ。聖女の追放を公にした場合の反応を。
すなわち、民衆の反発。誰もが敬虔な信者というわけではない事を思えば、当然の結果である。
信仰と実利の板挟み。
その両得を前にして、誘惑に抗う事などできないのだ。
「どうしても私たちと戦うというんだね……」
「見逃してくださらないのであればそうなります」
「バカな! 片腕のオヌシでは望みなどないぞ!」
「アタシたちに友達を攻撃させようっての!?」
彼らは、善人だ。
少し愚かではあるものの、紛れもない善意で私を連れ戻そうとしている。
私も友と呼ぶのも、忠告するのも、全ては本心からのものに他ならない。
武器を手に取りながらも、その表情は泣き崩れてしまう寸前だ。
「私がどれほど必死にあなた方と戦っても、物の数ではないでしょう。せいぜいが、彼を逃す事で精一杯」
「いや、逃しはしない。だから、私と共に来るんだ、アンナ」
「お断りします」
「必ず私たちが君を救う! 信じてくれ!神殿からのどんな圧力にも屈しない!」
「いいえ、あなたでは私を救えません」
「何故だ!?」
「私は私が救うからです」
——光。それは不浄を払う聖なる力だ。
それが邪である限りにおいて、抗い難い苦しみがその身を焼く。聖魔法の基礎でありながら、同時に真髄にも通じる奥義である。この苦しみは魔族に対して特に有効であり、あの魔王ですら完全には克服できなかった。
そんな光が辺りを包む。
私に残された片方の手先を中心にして。
「勝ち目なんてないぞ!」
「でしょうね」
とうとう、勇者が抜剣する。戦士と魔法使いは戸惑っていたが、勇者に続いて得物を構えた。
勝てない、私では。それは、例え両腕があっても変わらないだろう。
なにせ、勇者は不浄などではないのだから。
人間にとって、私の魔法の多くはただ眩しいだけの光だ。とてもではないが、勇者一行を討てるだけの力はない。
「魔族を逃すなぁ!!」
勇者が叫ぶ。
この状況での目眩し。その意味に気が付いたのだ。
もし私が彼らと戦っても、決して勝つ事はできない。命をかけて、ようやくアルカエストを逃がす程度だろう。仲間の力を正確に把握する司令塔であるがゆえに、彼は勇者なのだ。
それを思えば、彼の判断に間違いはない。私の力、彼自身の力、魔法使いと戦士の力。きっと、私よりもこの状況を深く理解している。
私など物の数ではないと、ほとんど全ての力をアルカエストの討伐に傾ける。私を鎧袖一触にできるのならば、私一人に三人がかりになる必要はない。おそらく一目散に逃げているアルカエストをいち早く捉えてしまう方が効率的であると考えている。
だが、彼は一つ思い違えている。
自らが私の全てを知るほどでないにしても、私も彼らのいくらかを把握しているのだ。
光が失われるまでのわずかな時間ならば、彼らに先んじる事はそう難しいものではない。
「ぐぅッ!!」
「アンナ!? 何をしているんだ!?」
突き立てた。切り裂いた。私自身を。
勇者の構えた剣で。
直ちには命にかかわるものではないが、それはわざとではない。相手が持つ武器に身を任せる経験など、私にはなかっただけだ。
それでも、大量の血が流れた。意識が朦朧とするほどに。
勇者の声に、アルカエストを追おうとした二人が立ち止まった。そして光が弱まる時には、私に慌てて駆け寄るのだ。
「何をしている勇者!?」
「アンタふざけんじゃないわよ!!」
「ち、違う!? 今、彼女が……っ」
知っているのだ。彼らの優しさを。長く苦楽を共にした経験が、ここで私を見捨てるような人間でない事を知らせてくれる。
それは、あるいは愚かなのかもしれない。しかし、かつての私はそんな愚かしさを好ましく思っていたのだ。こんなにも愚かな彼らでなくては魔王の討伐など叶わなかったし、何より私もついて行きはしない。
彼らは人類で最も愚かで、そして勇敢な英雄たちなのだ。
だが、この場においてはやはり愚かである。
離れていても目がくらんだ私の光を、まさか眼前で受けようというのだから。
「何を……っ!?」
駆け寄らせた。近寄らせた。そのための自傷である。
私の身をいまだに案じている彼らには、これ以上にない足止めだろう。
——長くは保たない。
今のうちに、逃げてくれれば。
私自身も、目が眩む。光のせいか、あるいは出血のせいで。
これほど強く力を使ったのは初めてだ。今までは必要のない事だったし、何より自らの目が眩んでは戦いになど使えるはずもない。自らの身を犠牲にしない限り、こんな運用はするはずがないのだ。
これで、逃げられるだろうか。
この光は、アルカエストに対して強く働く。身を焼き、目を潰し、燃えるような苦しみを与えてしまうはずだ。
私が力を行使すると同時に身を翻したのならば、辛うじて逃げられたかもしれない。それでも無傷とはいくまいが、それだけの覚悟がなくては勇者から逃げる事などできないだろう。
「どうか……ご無事で……」
見えない目で呟く。今、どうなっているだろうか。
立っている事もままならずに倒れ込む私を、誰かが抱き止めた。どうやら、足止めは完璧らしい。やはり勇者は、私を見捨てたりできないのだ。
恐らく、私は愛されていた。
その時は理解していなかったが、今になってわかる。勇者は、私を愛していたのだ。
あの頃なら、あるいは嬉しく思ったのかもしれない。聖女という立場を考えれば結ばれるはずはないだろうが、それでも悪くは思わなかったはずだ。
今は、ただただ気分が悪い。しかし、そのおかげでアルカエストが逃げられたのなら感謝もしよう。
愚かしくも誠実であり、勇者に相応しい善性だ。そのために、魔族を取り逃すのだから。
意識が遠のく。見えはしないが、好きでもない男の腕の中で気を失うのは業腹だ。それでも、私は望んでこうなった。きっと私は地獄に落ちるが、繰り返しても同じく地獄に飛び降りるだろう。
——だから、どうか無事で……
「おい、聖女。寝たら死ぬぞ」
「……っ!」
声。聞こえるはずのない声。聞こえなければいいと願っていた声。
アルカエスト・フューブリックの声だ。
「なぜ……」
「俺がお前を見捨てると思ったわけ? 随分と軽んじるじゃん」
目を泳がせる。
逸らせるためではない。状況確認のためだ。
勇者が、戦士が、魔法使いが、気を失ってその場に倒れていた。死んだわけではない。呼吸は浅くありながらも、確かに生きているようだった。
かつて魔王を下した勇者一行を、殺す事なく無力化したというのだ。
アルカエストに視線を戻すと、それが決して容易くなかった事がうかがえる。しかし、それは決して勇者たちの実力に起因するものではない。むしろ、彼らを鎧袖一触にした事は疑う余地もなくなってしまった。
その身が、焼かれているのだ。当然だが、私の光によって。
「か、体が……!」
「ああ、うん。結構つらいから、自分で立ってくれると助かるかな」
「ああ!? ごめんなさい!!」
厚手の外套で、不自然に身を包んでいる。露出をできるだけ抑え、光から身を隠そうとしたのだ。それでも、完全に防ぐ事などできはしない。その程度で防げるのなら、魔王の討伐に私の力など求められなかっただろう。
アルカエストは、明らかに息が荒い。飄々とした態度を崩さないまでも、それがいわゆるやせ我慢である事は疑う余地がない。足取りはおぼつかず、肌などところどころ焦げてしまっている。私が万全であったなら、彼の命はなかっただろう。
私が傷付き、弱っていたからこの程度で済んだのだ。
……傷付き?
首に触れる。擦る。握る。しかし、確かに肌は繋がっている。そんな筈はないというのに。
「あれ? 私の傷は……?」
「なおした。正直ちょっと疲れたけど」
「何をしているんですか!? それだけ消耗して魔法を使うなんて!」
「俺もそう思ったからなおしたんだけど?」
「っ!」
傷付いてなお、口の達者さは衰えていない。
しかし、同じはずがないのだ。この世で最後の魔族であるアルカエスト・ヒューブリックと、もう何の誰の必要にもならない私の価値が。
それに、私はどうしても彼を見捨てる事ができなかった。見捨ている事は、身を裂くよりも辛く思ったのだ。同じであるはずがない。同じであるものか。
同じだとしたならば、それは……
「…………」
「おい、さっさと行こう。こいつらが起きたら今度こそ逃げられない」
「そ、そうですね」
そうですね。
私は、確かにそう言った。言おうと思ったわけではない。自然と零れた言葉だ。
彼についていく事に、何一つ疑いを持たなかった。彼と共にあるこの状況が自然であると、無意識に思ったのだ。
かつて聖女であった私が、魔族であるアルカエストについていこうとしている。これは、あるいは不自然な事なのかもしれない。
でも、私は譲れない。
今、私は幸福である。仲間と旅した事よりも。聖女であったころよりも。魔王を倒した時よりも。
片腕を失い、命を狙われ、魔族と野宿をしなくてはならない今の方が。
きっと、どこかで野垂れ死ぬ。逃げ続ける事など、できるはずもないのだから。
人類の敵として歴史に名を刻み、会った事もない人間から罵詈雑言を吐かれ続ける。
それでも、私は彼と行く。
英雄として国葬されるよりも、彼と首を晒される方が幸福であると思えてならないからだ。