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8. 嫌がらせ

 今すぐにでもここを出るべきなのは分かっている。けれど、ロザリンには先立つものが無かった。


 ヴィクトルの言うように、田舎から出てきたばかりで礼儀作法も身についていない自分では、すぐに住む所も仕事も見つけられるかどうか分からない。迷った末に、ロザリンは給金を貰ってから辞めることにした。

 それまではどうにかヴィクトルとは距離を置いて、これ以上深入りしないようにしよう。

 ロザリンはそう決めたが、あれだけヴィクトルとのやり取りを周囲に見られていては、既に事が複雑になってしまっていた。


 最初は普通に接してくれていた同じ洗濯担当の下女たちも、次第にロザリンを遠巻きに見るようになり、そのうち話しかけてくる者はいなくなった。ロザリンが洗濯場に現れると、露骨に場所を移動して離れたり、話しかけても無視されるようになっていた。


 「身の程知らずにも、ヴィクトル坊ちゃまを誘惑する女」


 ロザリンは陰でそう呼ばれていた。

 自分にはティエリーという恋人がいるし、ヴィクトルを誘惑したつもりも無いと、ロザリンは声を大にして言いたかった。けれど、余計なことを言って騒ぎを大きくする必要もない、どうせもうしばらくしたら辞めるのだからと我慢していた。




 ある日、いつものように洗濯物を干し終えたロザリンが片づけをしていると、珍しく古参の下女から声をかけられた。


「ちょっとこっちに来て」


 ロザリンが言われるままに古参の下女について行くと、干場近くの木の下に洗濯担当の下女たちが集まっていた。その様子にロザリンが一体何事かと首を傾げていると、古参の下女が木の上を指差しながら口を開いた。


「あれを洗ったの、あんたでしょ?」


 ロザリンが古参の下女の指さす方を見ると、木の上の方にハンカチが一枚引っ掛かっていた。その上品な薄紫色のハンカチには見覚えがあり、ついさっき自分が洗って干場に干したものだとロザリンは気づいた。けれど何故それが、あんな高い木の上に引っ掛かっているのか分からない。


「……確かに、わたしが洗って干しました。でも、どうしてあんな所にあるのか、分かりません」

「言い訳は要らないわ。今すぐ登って取って来なさい」


 あんな高い木の上に取りに行けとは自分の聞き間違いだろうかとロザリンがぽかんとしていると、他の下女たちが口々に煽り出した。


「さっさと取りに行きなさいよ」

「田舎から来たのなら、あれくらい登れるでしょ」


 確かに自分は田舎者だが、あんなに高い木には登ったことが無いし、怖くて登れない。誰か男の人を呼んできても良いかと尋ねるロザリンに、古参の下女が冷たく言い放った。


「あれは奥様のお気に入りのハンカチなの。自分の仕事に責任を持ってやり遂げられないような使用人はここには必要ないわ。自分で取りに行かないなら、ここを辞めて出て行きなさい」


 古参の下女のその言葉を合図に、他の下女たちが「出て行け」とロザリンを囃し立てる。そこでやっとロザリンは、これが自分を追い出すための嫌がらせなのだと悟った。

 木に登ってここに残るか、木に登らずに諦めてここを出て行くか。

 ロザリンはどちらかを選ばねばならない。


 都に残ってティエリーを探すためにはお金が必要で、ロザリンには木に登らずに、今すぐここを出て行くという選択肢は無かった。ごくっと唾を飲み込みながら、木の上に引っ掛かったハンカチを見上げる。そして、覚悟を決めたロザリンは履いていた靴を脱いだ。


「……まさか本当に登るつもり?」

「……田舎者のくせに、ヴィクトル坊ちゃまを狙うなんて生意気な。木から落ちて痛い目に遭えばいいのよ」


 下女たちの嘲笑うような声を聞きながら、ロザリンは木の幹に指をかけた。

 恐怖で手が震えるし、足がすくむ。けれど、ここに残る為には、そんなことは言ってはいられなかった。落ち着いて、慎重にゆっくり行けば大丈夫と自分に言い聞かせながら、ロザリンは少しずつその木を登って行った。


 幹にしがみつきながら上の方の枝を掴み、上の方上の方へと手を伸ばしながら、少しずつ高い枝へと足を移していく。そうしてやっとハンカチを手にしたロザリンは、それを自分のエプロンのポケットにそっと入れて、今度は枝を移動しながら下へと降りていく。


 下からその様子を見ている下女たちが、面白そうに大声でロザリンに冷やかしの言葉を浴びせてくる。

 その大きな声に、何の騒ぎかと少しずつ周囲から人が集まって来ていた。その囃し立てる声は屋敷の中まで響いていて、二階からは侯爵夫人が侍女と共にその様子を見下ろしていた。


「何の騒ぎだ?」

「……あ、これは若様」


 騒ぎを聞きつけて屋敷の中から出てきた青年が、そこにいた使用人に尋ねた。恭しく挨拶をしたその使用人の男は、木の上にいるロザリンを指差しながら青年に説明をする。


「新入りの洗濯女が木の上に引っ掛かった洗濯物を取りに、木に登っているのです」

「……あんな高い木に? あんな小さな子には危ないだろう。何故、誰も助けてやらないのだ?」


 青年が心配そうに木を見上げていると、ロザリンの悲鳴と共にバキッという枝の折れる音が聞こえた。


「危ないっ!」


 見物人達の悲鳴が響く中、木の上を見上げていた青年が走り出した。

 大きな葉擦れの音と悲鳴と共に落ちてくるロザリンを、青年が両手で受け止める。何とか無事にロザリンを受け止められたことにほっとして、青年がふうっと息を吐いた。

 ロザリンは自分が助かったことにまだ気づいていないのか、ぎゅうっと目を閉じて恐怖に震えていた。

 そして自分の腕の中でいつまでも震えているロザリンに、労わるように青年が声をかけた。


「大丈夫? 怪我はない?」


 その瞬間、ロザリンがばちっと目を開けた。

 聞き覚えのある懐かしい声。ずっと聞きたかったその声に、まさか、まさかと顔を上げたロザリンの目の前にあったのは、柔らかい金色の髪に優しい青灰色の瞳だった。


「……ティエリー」

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