4. 勘違い
「あ、あなた、誰? ……わたしに何をしたの?」
ロザリンは体を震わせながら、目の前で自分に腹を蹴られた痛みに悶える青年に尋ねた。
「――お前、助けてやったのに、……よくも」
お腹を抱えてうずくまりながら自分を睨みつける黒い瞳に、ロザリンは見覚えがあるような気がした。少しして、それが山賊から助けてくれた青年の黒い瞳と同じだと気づいたロザリンは、あっと声を上げた。
「もしかして、……さっき、助けてくれた人?」
さっきまでは、艶のある黒髪を風になびかせて人の好さそうな笑みを浮かべていた青年が、今は濡れ髪を後ろに撫でつけ整った顔立ちを露わにして自分を睨みつけている。
この黒い瞳に覚えが無ければきっと誰だか分からなかっただろうと、ロザリンは青年のその変わりように呆気に取られていた。
ふと気づけば、青年の鍛えられた上半身に濡れたシャツが張り付いている。そういえば青年が軽々と自分を肩に担いだことを思い出したロザリンは、思わず身を固くした。
自分と同じくらいの年頃と、どこか気安く思っていた。けれど、目の前にいるのが大人の男だと急に意識して怖くなったのだ。
「……あの、助けてくれて、ありがとう。でももう大丈夫だから、わたしのことは放って先に行ってください」
「そういう訳にはいかない。お前みたいな子供、放っておいたら何度でも山賊に攫われて売られるぞ」
ロザリンに腹を蹴られた痛みが落ち着いたらしい青年は、立ち上がりながら軽く頭を振って髪についた水気を飛ばした。濡れた黒髪がばさばさと落ちて顔にかかる。
おもむろに自分の濡れたシャツを脱いで木の枝にかけた青年は、ゆっくりと地面に座り込むロザリンの方に歩いて来ると、彼女に向かって片手を伸ばした。
「お前もさっさと脱いで、服を乾かせ。体が冷えて風邪を引くぞ」
着ている服を脱いで渡せと自分に言っているのだと察したロザリンは、両手で自分の体を覆い隠しながら青年を見上げた。
「……大丈夫。……これくらいじゃ、風邪なんて引かないから」
「男同士で何を恥ずかしがってるんだ」
呆れたように笑いながら青年はロザリンの服に手をかけた。
「嫌っ! やめて! お願い! 触らないで!」
「…………お前、……女、なのか?」
必死に抵抗するロザリンの手の隙間から覗く白い肌に、青年は息を呑んだ。手の止まった青年を見上げるロザリンの目の淵には涙が溢れていた。
「……お前、何で男の恰好なんかしているんだ? ……どうして、女が一人でこんな山の中をうろついているんだよ? ……何を考えているんだ?」
青年は混乱した顔で、額に手を当ててロザリンを見下ろしていた。
そんな青年に、ロザリンは目の淵に溜まっていた涙をぽろぽろと零しながら呟いた。
「……あなたには関係ない。……どうせ、どこに行ってもわたしは独りぼっちだもの。……おじいちゃん、どうしてこんな目にばっかり遭うの? おじいちゃん、会いたい。……わたしを置いていかないで」
「おい? 何の話だ?」
膝を抱えて泣いているロザリンの肩に、青年の手が触れた。
ロザリンはびくっと身を固くして、怯えながら顔を上げた。そして心配そうに自分の顔を覗き込む黒い瞳がすぐ目の前にあることに気づくと、ロザリンはがばっと立ち上がってそこから走り出した。
「待て! 一人じゃ危険だって言ってるのに!」
青年が逃げるロザリンの手を掴んで、その体を自分の方へ引き寄せた。
「放して! 触らないで! わたしに構わないで!」
ロザリンは泣き叫びながら青年の胸を拳で叩く。そんなロザリンに手を焼いた青年は、どうにか落ち着かせようと自分を叩きつける拳ごと彼女の体を強く抱きしめた。
「落ち着けよ。何もしないから、落ち着け」
裸の胸にいきなり抱きしめられたロザリンは、さらに激しく抵抗しようともがくが、抱きしめる青年の力の強さには到底敵わず、どうにも身動きが取れずにいた。
「驚かせて悪かった。……その、男だと思ってたから。悪かったよ、ごめん」
青年がロザリンを腕の中に抱きしめたまま、ぼそっぼそっと呟く。
ロザリンは名前も知らない青年に突然抱きしめられて恐怖を感じていた。
怖くて逃げたくてたまらない。
それなのに力ずくで抱き止められて動けない。
一体これから自分はどうなってしまうのだろうと、ロザリンは怖くてたまらなかった。
けれど青年はただロザリンをずっと抱きしめているだけで、それ以上何かをする気配は無かった。
頭の中が恐怖と不安でいっぱいだったロザリンは、その青年の様子に少しずつ冷静になってきていた。
そして、この青年が山賊に攫われて売られそうになっていた自分を助けてくれたことをふと思い出した。
そうしようと思えば、気づかぬ素振りでやり過ごすことも出来たはず。それなのに、青年が自分の身の危険も顧みずに助けてくれたこと、そして危険だから家まで送っていくと、優しい言葉を掛けてくれたことをロザリンは思い出した。
……この人はあの恐ろしい山賊とは違う。
全身ずぶ濡れで冷え切っていたロザリンの体に、青年の体の温もりが伝わってくる。
……この人の胸は温かい。おじいちゃんみたい。
頭のどこかでそんなことを考えているうちに、ふっとロザリンの体から力が抜け落ちた。
昨夜から一睡もしていないロザリンは、寝不足と疲労と空腹で、見知らぬ青年の腕の中で糸が切れたように意識を失くしてしまった。
バチッバチっという木のはぜる音と香ばしい匂いに、ロザリンは目を覚ました。
眠っている間に、辺りはだいぶ暗くなっていた。
「やっと起きたか」
聞き覚えの無い男の人の声を不思議に思いながら、ロザリンは寝惚け眼をこすった。
ロザリンがぼんやりと声のする方を見ると、焚火の手前に座っている黒髪の青年が、自分に向かって木の枝に刺して焼いた魚を差し出していた。
空腹のロザリンが、その美味しそうな匂いに誘われて手を伸ばそうとすると、何かがずるっと自分の体からずり落ちた。何気なく視線を自分の体に落としたロザリンが悲鳴をあげる。
「……きゃあああっ!」
知らぬ間にロザリンは、下着姿の上にマントを被っただけというあられもない姿をしていた。その自分の身を隠す大事なマントが、体からずり落ちたのだ。
「わたしに何をしたのよ! 見たでしょ! この変態!」
ずり落ちたマントを慌てて拾って、身を隠しながらロザリンが叫ぶ。
「何も見てない!」
「嘘つき! 最低!」
「本当に何も見てない! ずっと目を閉じてた! ……お前がいつまで待っても目覚めないから、あのままじゃ体が冷えて風邪を引くと思って。……ずっとマントをかけてたから、本当に何も見てない!」
手に焼き魚を持ったまま青年は必死に説明するが、ロザリンは顔をくしゃくしゃに歪めて今にも泣きだしそうな顔で青年を睨みつける。
「……そんなの、信じられない。……もうお嫁に行けない」
その言葉にきょとんとロザリンを見た青年は、さも大したことじゃないように笑いだした。
「それなら、俺がもらってやるから心配するな」
「あなたなんか、お断わりよ!」
ぐーっとお腹を鳴らしながら叫ぶロザリンに青年は笑い声を大きくしながら、手に持っていた焼き魚を差し出した。
恨めしそうに青年を見ながらも空腹には勝てないロザリンは、焼き魚を受け取って齧りついた。その美味しさにロザリンが目を輝かせているのを見留めた青年は、焚火に枝を足しながらロザリンに声をかけた。
「お替わりならあるから、いっぱい食べろ。お前は瘦せ過ぎだぞ」
「やっぱり見たんでしょ!」
青年の言葉にむせながらロザリンが叫ぶ。
「何を言ってるんだ。俺は、お前のことを何度も担いだり抱いたりしたんだぞ。そんなの見なくても分かる」
「誤解されるような言い方はやめてよ!」
あっという間に一匹食べ終えたロザリンに、青年はお替わりを差し出した。
青年に対して、腹が立つやら恥ずかしいやらで気の収まらないロザリンだったが、空腹には勝てずにお替わりの焼き魚を受け取ってまた噛りついた。
ふんわりと柔らかい焼き魚を食べながら、ロザリンは横で焚火に枝を足す青年を見ていた。
濡れた黒髪を後ろに撫でつけていた時は大人びて見えたが、自分よりも一つ二つくらい上で、ティエリーと同じくらいの年齢だろうか。今は乾いた髪が顔にかかっていて、その髪の隙間から見える黒い瞳は優しく、ふと目が合うたびに穏やかに微笑んでくる。
「今夜は俺が起きているから、お前は寝ていていいぞ。ずっと泣いていたから疲れているだろう? 朝になったら俺が家まで送ってやるから、もう心配はいらないからな」
青年がずっと火を絶やさずにいてくれるお陰で、体がぽかぽかと温かい。お腹いっぱいになったロザリンは、少しずつ瞼が重たくなるのを感じていた。そんなロザリンの様子に気づいた青年が優しく声をかける。
「何も心配しないで、もう寝ろ」
うとうととし始めたロザリンに、思い出したように青年が尋ねた。
「そうだ、お前、名前は何て言うんだ? 俺はヴィクトル。お前は?」
「……ロザ、リン」
「ロザリンか、……可愛い名前だな」
夢うつつに答えたロザリンの名前を確認するように呟いて、ヴィクトルは眠りについたロザリンを見た。
月が高く昇り辺りがしんと静まり返る中、ヴィクトルは眠るロザリンの様子を見ながら焚火にくべる木の枝を集めていた。ロザリンはよほど疲れていたのか、寝返りすら打たずに眠り続けている。
「……」
ふと声が聞こえたような気がして、ヴィクトルが眠るロザリンの顔を覗くと、ロザリンは悲しい夢でも見ているのか、眠りながら涙を流していた。
「大丈夫か?」
ぽつりとヴィクトルが漏らす声が聞こえたのか、ふいにロザリンが手を伸ばしてきて、ぎゅっとヴィクトルの手を握る。
「……いちゃん、……エリー、……どこにも行かないで」
眠ったまま泣きながらロザリンはヴィクトルの手を握って離さなかった。そんなロザリンに驚きながらもヴィクトルは、じっと彼女の顔を見つめていた。
やがて、握られているのとは反対側の手でロザリンの髪を撫でながらヴィクトルが囁いた。
「どこにも行かない。ずっと側にいるから」
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