29. そして幕は下りて
ロザリンとティエリー、そしてヴィクトルの三人は二階の奥にあるヴァロワ侯爵の部屋へと向かった。
ティエリーとヴィクトルの父であるヴァロワ侯爵は一年程前から体調を崩して、今ではほとんど寝たきりになっていた。意識の無い夫の世話をつききりでしている侯爵夫人は、妻の鑑と世間で評判だった。
三人が部屋へ入ると、侯爵夫人がヴァロワ侯爵が眠っているベッドの近くにあるテーブルでお茶の用意をしていた。
「義母上、ただいま戻りました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
ティエリーの声に侯爵夫人がゆっくりと振り返った。無事に帰ってきたことを喜んでいるのか、穏やかな微笑みを浮かべている。
「あら、……ヴィクトルとロザリンも帰って来たのね」
「義母上、俺はすべてを終わらせるつもりで帰って来た」
ぶっきらぼうな口調のヴィクトルに、侯爵夫人が困ったように首を傾げた。
「……帰って来たばかりなのに、せっかちな子ね」
「ヴィクトル、何の話をしているんだ?」
他家で騒ぎを起こした上に、数日戻らなかったことで心配をかけてしまったと謝罪するつもりで来たティエリーは、義母に対するヴィクトルの態度に少し戸惑っていた。
そんなティエリーを振り返ったヴィクトルは静かにその口を開いた。
「兄上、落ち着いて聞いて欲しい。……十四年前に兄上を攫わせたのも、一年前の事故も、茸のことも、そして今回の毒も、すべて義母上の仕業だった」
突然ヴィクトルの口から放たれた内容に衝撃を受けたティエリーは、混乱して訳が分からないという顔で侯爵夫人を見た。
「兄上にばかり不幸が起きるのが、俺はずっと不思議だったんだ。それで、あの馬車の事故のことを調べなおすつもりで山に行ったら、山賊に出くわした」
「山賊!?」
「ロザリン、頬に刀傷のある山賊を覚えているか?」
急に話を振られたロザリンは、都に来る途中で自分を攫って売ろうとした山賊の頬に傷があったことを思い出して、ヴィクトルを見ながらこくりと頷いた。
「あの男は、あの一帯を縄張りにしている山賊の頭領だった。ひょっとして事故のことを何か知っていないかと思って聞いてみたら、急に血相を変えたから捕らえてすべて吐かせた。……あの刀傷の男は、ベアール家の家紋とオレリーの名前の刺繍の入ったハンカチを持っていた」
「……ベアール家って、義母上の実家の?」
「そう。そしてオレリーは義母上が実家から連れてきた侍女だ」
ティエリーが不思議そうな顔をしてヴィクトルを見る。
「どうして山賊が、その義母上の侍女のハンカチを持っているんだ?」
「山賊の頭領が言うには、十四年前にある貴族の子供を攫ってどこかに捨てるように依頼された際に、相手が気づかずに落としていったらしい」
「……十四年前? ……貴族の子供を攫って、捨てる? ……もしかして、私のことか?」
動揺するティエリーを見たヴィクトルが、躊躇いがちに頷いた。
「その男は、一年前にも同じ女から事故に見せかけて殺すよう依頼があったと言っていた。だから馬車の車輪に細工をして崖から落ちるように仕向けたと」
「……馬車に細工を? 崖から、落ちるように……私を狙って?」
ティエリーが、ふらふらと近くにあった長椅子に座り込んだ。
「すぐ密かにオレリーを捕らえた。最初は否定していたが、拷問にかけようとしたらすぐに口を割った。すべて義母上の指示だったと」
「……口が軽い使用人なんて使うものじゃないわね。捕らわれたのなら、余計なことを漏らす前にさっさと自決すればいいものを、そんなことも出来ないなんて情けないこと」
侯爵夫人が呆れたように大きな溜息を吐いて椅子に座り、目の前に準備してあった紅茶を飲んだ。
「父上もじきに目覚める」
その言葉に、侯爵夫人が片眉を吊り上げてちらりとヴィクトルを見た。
「オレリーが、父上にも兄上と同じ茸を食べさせていたと白状した。あれは義母上の実家の領地に自生する珍しい茸で、食べ続けると少しずつ体が弱ってやがて昏睡状態になり、そのまま衰弱して死ぬそうだ」
「役立たずの上におしゃべりね」
忌々しそうに舌打ちをする侯爵夫人に、ティエリーが我慢できずに声を上げた。
「どうして、そんな酷いことが出来るんだ? 父上はあなたの夫じゃないか!?」
ティエリーのその叫びに、侯爵夫人がぴくりと反応して、これまで見せたことが無い険しい表情でティエリーを見返した。
「酷いですって? それなら、愛してもいないのに持参金目当てに平民と再婚して、その妻が死んだらすぐに二回りも年下のわたくしに、お前の子は要らぬと求婚したお前達の父親はどうなの?」
テーブルの上に置かれた侯爵夫人の手が震えて、側にあるティーカップとソーサーがかちゃかちゃと小さな音を立てる。
「わたくしはまだ十六歳だったのに、父がヴァロワ家との縁が欲しいからと、こんな年寄りで二人の子持ちの男の三番目の妻にされたわ。お飾りの妻をさせられ、義子が成人したら財産は持っていかれた上にお払い箱なんて、やってられないわよ!」
侯爵夫人が振り上げた手をテーブルに叩きつけた。ティーカップに残っていた紅茶が大きく跳ねてテーブルに零れる。
「だから、兄上を攫わせたのか」
「あんまり腹が立ったから、攫って捨てさせたわ。生死はどうでも良かった。この年寄りに一泡吹かせたかっただけ」
ぶるぶると震えながら侯爵夫人が、横のベッドで眠っているヴァロワ侯爵をちらりとみた。
「この人が取り乱してティエリーを探させて、なかなか見つからずに日毎に憔悴していく様を眺めているのは楽しかったわ。……そのうちに、後ろ盾のないヴィクトルを支える弟が欲しいと言い出した時には、本気で殺してやろうかと思ったけど」
「……父上が、そんなことを?」
「あんまり人を馬鹿にしていると思わない?」
次第に表情を険しくした侯爵夫人は、激しい憎悪の籠る目でヴァロワ侯爵を睨みつけた。
「この人は、ティエリーが見つかったら掌を返して、三人目は必要無かったと笑ったの。だから、もう一度山賊を使ってティエリーを襲わせたわ。それなのに、シャルレーヌに助けられて帰ってきた上に、婚約してノアイユ公爵家が後ろ盾になるなんて。余計なことばかりするこの男が憎くてたまらない」
次第に熱くなってきていた侯爵夫人が、気持ちを落ち着かせるかのようにふうっと息を吐いた。
「どんなに憎くても、すぐには殺さない。だってカミーユはまだ十歳で、この国ではまだ爵位は継げない。今この人が死んだら、跡を継ぐのはティエリー。でも誘拐、事故と続いたティエリーをすぐに殺したら、さすがに怪しまれる。だから父親と同じように少しずつ弱らせて始末しようとしたのに、この子ったら茸を食べてくれないんだもの」
いかにも不満そうに唇を尖らせる侯爵夫人に押されるように、ティエリーが口を開いた。
「……何だか妙な味がして、気持ち悪くて食べられなかったんだ」
「別に茸を食べなくても、食事を取らないから勝手に弱ってくれて都合が良かったけど」
「そこへロザリンが来たのか」
ヴィクトルが、長椅子に腰かけてティエリーの手を握っているロザリンを見た。ヴィクトルの言葉に促されたように、侯爵夫人もちらりと彼女に視線を送る。
「みるみる元気になっていくティエリーに気が気じゃなかったけど、あの子の作るものならティエリーは黙って食べるから茸を混ぜさせたの」
話を聞いていたロザリンは、混乱した様子で頭を横に振った。
「……信じられない。……お優しい奥様が、そんなことをするなんて。わたしを侍女にしてくださって、ドレスもくださったお優しい奥様が、そんな……」
「馬鹿ねえ、そんなのティエリーとヴィクトルを煽る為に決まっているじゃないの」
「……え? ティエリーと、ヴィクトルを、……煽る?」
呆れた顔で自分を見る侯爵夫人の言葉が咄嗟には理解出来ずに、ロザリンはオウム返しのように呟いた。
「いつだったか、あなたが木から落ちた際にティエリーを見る目が普通じゃなかったからオレリーに命じて調べさせたの。そうしたら、ティエリーには村に残してきたロザリンという名前の恋人がいるというじゃないの。あなたがティエリーを探しに来たのだとピンときたわ」
最初から奥様に気づかれていたのかと、ロザリンは呆気に取られた。
「ヴィクトルもあなたに執心のようだったし、あなたを使って二人を仲違いさせたら面白いだろうなと思ったのよ。出来れば、二人共自滅して消えて欲しかったけれど」
侯爵夫人が楽しそうにふふふっと微笑んだ。
「垢抜けない田舎者のあなたをちょっと飾っただけで、この子達ったら目の色を変えてあなたを奪い合うんだもの。ねえ、ロザリン。兄弟が自分を巡って争うなんて、あなたも悪い気はしなかったでしょう?」
戸惑うロザリンを無視して、侯爵夫人は楽しそうに話し続ける。
「踊れないあなたをティエリーの練習相手に選んだのも、城下のお祭りに行かせたのも全部わたくしの演出。どう、盛り上がったでしょう? ときめいたでしょう?」
「……よくも、そんな人の心を弄ぶような真似が出来ますね」
「ティエリーがいながら、ヴィクトルを弄んだあなたが言うことかしら」
こてっと小首を傾げて侯爵夫人がロザリンを見た。
弄んだつもりはなくても、ヴィクトルを酷く傷つけてしまったことは事実で、ロザリンはそれ以上何も言えなかった。
「……義母上、ヴィクトルがさっき義母上が私に毒を飲ませたと言っていたが、もしかしてそれは、ロザリンを助けに行く際の気つけ薬のことですか?」
「そうよ。ノアイユ公爵家で倒れるように遅効性の毒を入れていたの」
侯爵夫人の返事を聞いたティエリーが、眉間に皺を寄せて目を閉じた。そして絞り出すように言葉を吐く。
「すぐに殺すつもりは無かったのでは?」
「あなたのことは少しずつ弱らせて、衰弱死させるつもりだった。でも、あなたはシャルレーヌとの婚約解消を言い出した。カミーユの為にもノアイユ公爵家を敵に回すのは困るのよ。あなたがノアイユ公爵家で血を吐いて倒れれば、あのシャルレーヌならきっとロザリンを疑うはず。あなたがロザリンに毒を盛られて死ねば、ノアイユ公爵家に恨まれることも無く邪魔者が一人消える」
目を固く閉じたままのティエリーが、ぎゅっと自分の膝を握りながら呟いた。
「……私が死んでも、ヴィクトルがいる」
「ヴィクトルは爵位になんて興味無いわ。あなたが帰ってくるまでの繋ぎ、あなたがいなければカミーユが成長するまでの繋ぎ。そう思うように、わたくしが育てたから。そうでしょう?」
「……そうだ。俺の母は平民だから、爵位は兄上かカミーユが継ぐべきだと、いつかは家を出るつもりでいた」
項垂れるティエリーを見た侯爵夫人が、悔しそうに頭を振った。
「あなたがノアイユ公爵家で死ぬのを楽しみに待っていたのに、それなのに帰って来たのね。本当に残念だわ」
「……すべて露見した。これから、どうするつもりだ」
侯爵夫人は小首を傾げてヴィクトルを見た。
「わたくしの言葉を覚えているかしら」
「何のことだ?」
「わたくしはオレリ―とは違う。生き恥を晒すようなみっともない真似はしないわ」
「義母上、まさか……」
ヴィクトルが目を見開いてテーブルの上のティーカップを見た。
苦しそうに手で押さえた侯爵夫人の口元から血が溢れ、テーブルの上が赤く染まる。そして、ふっと力が抜けたように侯爵夫人の体が崩れて床に倒れた。
慌ててヴィクトルが駆け寄って、その体を抱きかかえた。
「……後悔はしていないわ。すべては、わたくし一人がしたこと。……カミーユは、あの子は何も知らない」
「分かっている」
「……カミーユを、……カミーユを」
「カミーユは俺と兄上とで必ず守る」
ヴィクトルの手を掴んだ侯爵夫人は、やがて静かに目を閉じた。
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