24. さようなら。ありがとう。
アルベール先生のことがあってすぐにヴィクトルは、カリーヌという女性をロザリンに引き合わせた。カリーヌは元々はヴィクトルの乳母だったが、今は息子のマルセルとともにヴィクトルに仕えていた。
誰の指示を受けてアルベール先生がティエリーの食事に茸を入れさせたのかは、まだ分かっていなかった。自分以外に頼る者のいないロザリンを守り、その手助けをするようにとヴィクトルに命じられて、カリーヌとマルセルは常にロザリンの側にいるようになった。
それから数日して、ロザリンは突然、カリーヌからヴィクトルが屋敷を出て行くことを知らされた。
ヴィクトルはロザリンには何も言わずに、黙ってここを去るつもりでいるらしかった。何も知らないロザリンを不憫に思ったカリーヌが教えてくれたのだ。
その話を聞いた瞬間に、ロザリンは走り出していた。
足元にまとわりつくドレスの裾を持ち上げ、はしたないと咎める使用人達の視線を無視して、ロザリンは必死に走った。
ヴィクトルが出て行くなんて。ここからいなくなるなんて。どうして何も言ってくれなかったの?
ロザリンは大階段を駆け下り、玄関を走り抜け、広大な庭をひた走った。そうして、門扉をくぐろうとしていたヴィクトルに何とか追いついた。
小さな荷物だけを手に持ち、ヴィクトルは一人でヴァロワ邸を去ろうとしていた。
「待って!」
その声に振り返ったヴィクトルが、自分に向かって走って来るロザリンの姿に気づいて足を止めた。
「……どうして? どうして出て行くの? ここはあなたの家でしょう?」
やっと追いついたと肩で息をするロザリンに、ヴィクトルが困ったように小さく笑う。
「俺に、お前と兄上の幸せを見届けろと言うのか?」
「……そうじゃないけど、でも出て行くなんて」
「俺の居場所はもうここには無い。出て行くしかないだろう」
「……でも」
「気にするな。俺は次男だから、いつかはこの家を出なければならない。それが少し早まっただけだ」
ロザリンは、肩を竦めて笑うヴィクトルを見上げた。
「……どこへ行くの? 住む所はあるの?」
「俺の母が遺してくれた屋敷がある」
「……身の周りのことをしてくれる人はいるの?」
心配そうに次から次に尋ねるロザリンを、呆れたようにヴィクトルが見下ろす。
「お前なあ、俺のことより自分達の心配をしろよ。兄上はああ言ってるけど、婚約解消なんてそう簡単に出来るもんじゃないんだぞ」
痛い所を突かれたロザリンが唇を噛んで黙り込む。
「……それに、あの茸のこともある。アルベール先生の後ろにいたのが誰か調べさせているから、何か分かったらカリーヌを通じて知らせる。カリーヌとマルセルにお前と兄上のことは頼んであるが、くれぐれも気をつけろ」
暗闇の中でアルベール先生が何者かに殺されたことを思い出して、ロザリンは恐怖で思わずヴィクトルの上着を掴みかけて、すぐにはっとしてその手を下ろした。
そんなロザリンに気づいたヴィクトルが優しく微笑みかける。
「大丈夫、これからはお前のことは兄上が守ってくれる」
自分を優しく見つめる黒い瞳を、ロザリンは泣きそうな思いで見上げていた。
思い返せば、初めて出会った時からずっとヴィクトルは自分を守り、そしてその優しさで包んでくれていた。時には強引だったけれど、いつも温かかった。
それなのに自分は同じ優しさで返すことが出来ずに、彼を傷つけてしまった。
「……ごめんなさい」
唇を震わせて謝るロザリンにヴィクトルが笑いかける。
「お前が幸せなら、それでいいさ」
ヴィクトルの言葉に、見上げるロザリンの目からぼろぼろと一気に涙が溢れてくる。それを見たヴィクトルが急にあたふたと慌てだした。
「……泣くなよ。……俺はもうお前を抱いてやれないんだから。……お前が泣いても、何もしてやれないんだから」
困ったようにヴィクトルはロザリンの顔を覗き込む。
「これからはちゃんと兄上に抱いてもらうんだぞ」
ヴィクトルの言葉に泣きながら笑い出したロザリンは、涙を拭いながらヴィクトルを見上げた。
「あなたのその誤解を招く言い方はとうとう直らなかったわね」
笑い出したロザリンを見て、ほっとしたようにヴィクトルが目を細めた。
「兄上と幸せになれ」
そう言ってヴィクトルは、その場にロザリンを残し、振り返らずに門を出て行った。
ロザリンはそのヴィクトルの後姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。
ありがとう、ごめんなさいと心の中で繰り返し呟きながら。
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