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2. 重なるつらい出来事

 アンヌおばさんの家に行ったはず。それなのに、どこかで転んだのか、泥で汚れた服に泣きはらした顔で帰って来たロザリンを見て、祖父はすべてを悟った。


 つらい思いをしないように、わざわざ遠出させて追い払ったつもりが、知ってしまったのか。ティエリーの乗った馬車を追いかけて行ったのかと。


「……顔を洗っておいで。酷い顔をしているから」


 敢えて何も触れずに普段どおりに振舞う祖父に、放心状態のロザリンは引き寄せた椅子にどさっと疲れた体を投げ出しながら尋ねた。


「おじいちゃん。どうして、わたしに黙っていたの?」

「……何のことだい?」

「とぼけないで。アンヌおばさんから聞いたの、ティエリーの身元が分かったって」


 祖父はそれには答えずに、ロザリンに背を向けて竈に火を入れた。


「ティエリーはどこへ行ったの? 彼の親は何て言う名前なの? 教えて」


 ロザリンは祖父の背中に向かって問いかける。


「……忘れなさい。……最初からすべて。何もなかったんだ」

「そんなこと出来るわけないでしょう! 春には結婚するのよ、わたし達!」

「無理だっ。身分が違い過ぎるっ……!」


 声を荒らげるロザリンを振り返った祖父は、絞り出すような声で呟いた。

 その言葉に驚いたロザリンが、表情を強張らせながらさらに尋ねる。


「……身分って、何? ……ティエリーの親は、もしかして貴族なの?」

「結婚なんて、……出来るわけがない。ティエリーのことは忘れなさい」


 (はしばみ)色の大きな瞳を見開いたまま、ロザリンは小さく首を振る。そんなロザリンの肩に手を置いて、祖父は優しく諭すように言い聞かせた。


「お前にとっても、ティエリーにとっても、忘れた方が幸せなんだよ」


 優しい眼差しで自分を慰める祖父を見上げながら、ロザリンは唇を噛んで必死に涙をこらえた。


「……忘れないわ。だって、ティエリーは必ず迎えに来るって言ってくれたもの。……だから、わたし、ここでティエリーが来るのを待つわ」





 そして冬が来て、やがて結婚式をするはずだった春を過ぎ、一年が経ってもティエリーは迎えに来なかった。


「ロザリン、その後どうだい? ティエリーから連絡はあったのかい?」


 買い出しを終えて家に帰る途中のロザリンに、アンヌおばさんが声をかけてきた。ロザリンは気まずそうに力のない笑みを浮かべた。


「……いいえ、何にも」

「もう一年も経つんだろう? そんな薄情な男は忘れて、他にいい人を探しなよ。何ならあたしが紹介してあげようか? いつまでも待っていたら行き遅れてしまうよ」


 ロザリンは十五歳になっていた。

 同じ年頃の村の娘達はそろそろ結婚しだして、まだ相手の決まっていない者はこの村ではロザリンだけだった。


 ただでさえ若者の数は少ないのに、のんびりしていたら嫁ぎ先がなくなると、アンヌおばさんはロザリンのことを心配してくれていた。


「心配してくれてありがとう、アンヌおばさん。でも、わたし、もう少しだけティエリーを待っていたいの。……もしかしたら明日帰って来るかもしれないし」

「そんなこと信じてるのは、あんただけだよ。不憫な子だねえ」


 なおも話を続けようとするアンヌおばさんに、ロザリンは祖父に薬を飲ませる時間だからと断って、逃げるようにその場を立ち去った。


 ロザリンは、いつまでもティエリーを待つと心に決めていた。

 しかし、ティエリーが村を離れて一年が過ぎ、今では村中の者がロザリンの顔を見る度にティエリーのことは忘れるように言ってくるようになっていて、さすがにロザリンもそれには辟易していた。


「ただいま、おじいちゃん。すぐにお薬を煎じるから待っていて……」


 近頃急に体が弱って来た祖父の為に買ってきた薬草を手に、ロザリンは家に帰った。祖父がいるはずの家の中は灯りもついておらず、暗くしんと静まり返っている。


「……おじいちゃん? ……いないの?」


 最近は家の中に籠りきりで外出するはずはないのにと、祖父の姿が見えないことにロザリンは首を傾げた。買ってきた薬草を机の上に置いて家の中を見渡していると、奥にある竈の前に倒れている祖父の姿が見えた。


「おじいちゃんっ!」


 ロザリンは駆け寄って、すでに冷たくなっている祖父の体を抱え起こした。


「おじいちゃんっ! おじいちゃん! 目を開けて!」


 冷たい祖父の体を抱きしめて、ロザリンは声の限りに叫んだ。けれども、二度と優しい祖父の目が開くことは無かった。

 そうしてロザリンは独りぼっちになった。





「――あまり気を落とさないようにね。何か困ったことがあったら、すぐにわたしに言うんだよ? 分かったね? ロザリン」


 祖父の葬儀を終えて悲しみに沈むロザリンに、アンヌおばさんが気遣うように優しく声をかける。

 ロザリン一人でこの家に住むのは心配だから自分の家に来るようにと言うアンヌおばさんに、ロザリンは気丈に答えた。


「ティエリーが帰って来た時に、わたしがここに居ないと困るから、わたしはここに残ります。大丈夫、一人でも何とかやっていけるわ。心配しないで」


 今日か明日か、ふいにティエリーが帰ってくるかもしれない。遅くなってごめんと謝りながら、ティエリーが帰ってくるかもしれない。そう思うと、ロザリンはこの家から離れられなかった。

 それに何より、優しかった祖父の思い出が残るこの家を離れるのがつらい。ロザリンはもう少しだけ祖父との思い出に浸っていたかった。



 慣れない独りの夕食を終えてロザリンが片づけをしていると、ドンドンッと誰かが激しく玄関戸を叩く音がした。


 こんな時間に誰だろうと、ロザリンは戸惑いながらドンドン叩かれて音を立てている戸を見た。

 ふとティエリーの顔が脳裏に浮かんだ。もしかしてティエリーがやっと自分を迎えに来てくれたのかと、ロザリンは喜び駆け寄って戸を開けた。


「ティエリー?」


 そこに立っていたのは、ティエリーではなかった。酔っぱらって顔を真っ赤にしたアンヌおばさんの息子のハンスだった。

 ロザリンは今までに何度か通りでハンスを見かけたことはあっても、話をしたことは無かった。一度も家に来たことの無いハンスの突然の訪問にロザリンはたじろぎながら、つい大きく開けてしまった戸を気づかれないように半分閉じた。


「……あの、こんな時間に、何の用ですか?」

「何の用だあ? 惨めな女を慰めに来てやったに決まってるだろ!」


 そう言うと、ハンスは無理やり家に入ってきてロザリンを床に押し倒した。


「何するのよ! 放して!」


 ロザリンは自分の上に馬乗りになっているハンスの胸を力いっぱい叩きながら叫んだ。


「男に捨てられた上にジジイに死なれた寂しいお前を、この俺が慰めてやろうってんだよ。ぎゃあぎゃあ騒ぐな!」


 ハンスは抵抗するロザリンの頬を力任せに殴り、彼女の胸元に手をかけて着ている服を引きちぎろうとする。


 ロザリンはハンスの手を取って思いっきり噛みついた。大きな叫び声を上げるハンスの腹を全力で蹴り飛ばす。そして、腹を両手で押さえながら痛みに転げまわるハンスの背を、ロザリンは近くにあった椅子で何度も打ちつけた。


「出て行ってっ! 役人を呼ぶわよっ!」


 這うようにしてハンスが出て行くと、ロザリンは急いで戸を閉めた。そしてその前に机や椅子を重ねて、もう誰も押し入って来られないように塞いだ。


 しばらくその前で息を荒くしたまま立ち尽くしていたロザリンは、やがてへなへなと床に座り込んだ。

 ハンスに殴られた際に口の中を切ったらしい。唇の端から流れている血を手の甲で拭ったロザリンは、自分の体が恐怖で小刻みに震えていることに気づいた。


 ティエリーも祖父もいない。これからは一人で生きていかなければならない。

 女の一人暮らしだと軽んじて、さっきのハンスのような真似をする者も出てくるかもしれない。そう思うとロザリンは怖くてたまらなかった。


「……おじいちゃん、ティエリー。……怖いよ、帰って来てよ。一人にしないで」


 床に座り膝を抱えていると、勝手に涙が溢れてくる。恐怖で眠れぬまま、ロザリンは夜が明けるのを待った。




 やがて夜が明け、ロザリンは泣き疲れてうとうととし始めていた。ふいに誰かが訪ねて来たらしく戸を叩く音がした。


「ロザリン! ロザリン! いるの?」


 性懲りもなくまたハンスがやって来たのかと、ロザリンは恐怖にビクッと顔を上げた。けれど、その声の主がアンヌおばさんだと分かると、急いで戸の前に山積みにしていた机や椅子をどけた。

 

 たった一人で一晩中、また誰かが襲ってくるかもしれないという恐怖と戦っていたロザリンは、優しいアンヌおばさんの顔を早く見たかった。早くアンヌおばさんに会って安心したい。

 ロザリンは気が急きながら戸を開けた。


 アンヌおばさんは、戸の前でロザリンが出てくるのを待ち構えていた。そして家から飛び出してきたロザリンを見るなり、その頬を大きく振り上げた手で叩いた。


「よくも大事な息子に怪我をさせてくれたね! あんなに良くしてあげたのに、この恩知らず!」


 ロザリンは叩かれた頬を両手で押さえながら、ぽかんと訳の分からぬままアンヌおばさんを見た。


「……アンヌおばさん?」

「一人になった途端に家に男を引きずり込むなんて、いやらしい女だね! ハンスが断ってもしつこく誘ってきたそうじゃないか! 断られた腹いせに怪我をさせるなんて、この性悪が!」

「ちがっ、違う! わたしはそんなことしてない! 誤解よ!」


 説明しようとするロザリンの髪をいきなり鷲掴みにしたアンヌおばさんは、そのままロザリンを地面に引きずり倒して、騒ぎを聞きつけて集まって来た村人の前で声を張り上げた。


「この女はね、身寄りのない哀れな女の振りをして、男を家に誘い込むようなあばずれなんだよ! 下手に相手すると、うちの可愛いハンスみたいに大怪我させられるから、関わらない方が身の為だよ!」


 遠回しに見ながらひそひそと話をしている村人達の冷たい視線に、ロザリンは居た堪れなくなって後ずさった。そして逃げるように家の中に駆け込むと、バタンッと音を立てて戸を閉めた。

 戸を背に立ったまま、ロザリンは悔しさに唇を噛み締める。


 ……もう、ここにはいられない。村を出よう。


 そしてロザリンは涙を零しながら、旅支度を始めた。

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[一言] 引き込まれました。 ゆっくり読ませていただきます。
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