19. 土砂降りの雨の中
それからというもの、ロザリンはずっと塞いでいた。
事故で記憶を失って自分を忘れてしまったとはいえ、恋人のティエリーに婚約者がいたこと。
そして、田舎から出てきたばかりで右も左も分からなかった自分にあんなにも優しくしてくれたヴィクトルと、傷つけ合ってしまったこと。
もうどうしたらいいのか分からないと激しく落ち込んでいるロザリンを心配したティエリーが、見かねて声をかけた。
「……どうしたの? ヴィクトルと、何かあった?」
ティエリーは自分でも気づかぬ間にロザリンに惹かれていた。
可愛くて、よく気の利く侍女というだけの存在だったはずが、時折ロザリンが自分に向ける表情が妙に胸を締め付けた。ロザリンに屈託のない笑顔を向けられると、無性に抱きしめたくなる。
ロザリンが弟の恋人だと、そして自分には婚約者がいると分かっていても、ティエリーは抑えがたい胸の高まりを感じていた。
「いいえ、……ヴィクトルとは、……何も」
唇をぎゅっと噛み締めて涙をこらえるロザリンのその姿を見れば、ヴィクトルとの間に何かがあったのは一目瞭然だった。
それなのに、何も言わずにぷるぷると頭を振るロザリンがたまらなく可愛く思えて、ティエリーは思わずロザリンを抱きしめてしまった。
「つらい時は、我慢しなくていい」
突然のティエリーの抱擁にロザリンは驚きながらも、包み込むような優しさが懐かしかった。
村にいる時は毎日こんな風にティエリーに抱きしめてもらっていたと思い出しながら、ロザリンはティエリーの腕の温もりを感じていた。
祖父とティエリーと自分の三人で、貧しかったけれど楽しく暮らしていた村での日々を思い出して、ロザリンはティエリーに抱きしめられながら涙を流していた。
しばらくして涙が収まったロザリンが顔を上げると、優しく自分を見つめるティエリーの青灰色の瞳があった。懐かしいその瞳をロザリンがじっと見上げていると、ギイッと音を立てて部屋のドアが開いた。
扇子を手に中へ入って来た侯爵夫人は、目を赤くしたロザリンを見るなり、こてっと小首を傾げた。
「あらあら、これはどういうことかしら? 侍女を泣かせるなんて」
ティエリーの腕の中で涙を拭っているロザリンを覗き込むように見た侯爵夫人は、小さく溜息を吐くとティエリーに向かって口を開いた。
「こんなに泣くなんて、田舎から出てきたばかりで故郷が恋しいのかしらね。可哀想に。……そうだわ、ティエリー。良く働いてくれている褒美に、この子を外に連れて行ってあげなさいな」
「外に、ですか?」
「そうよ。他の侍女たちが話していたのだけれど、今夜、城下でお祭りがあるそうよ。いい気晴らしになるんじゃないかしら」
ロザリンが泣いていたのを故郷が恋しいせいだと勘違いした侯爵夫人の勧めに従い、ティエリーはロザリンを祭りに連れて行くことにした。
ずっと塞いでいるロザリンをどうにかして慰めてやりたかった。
「――悪かったね、楽しみにしていたのに」
夜道をロザリンと並んで歩きながら、申し訳なさそうにティエリーが零した。
今夜あるというお祭りを楽しみに行ってみれば、これから天気が崩れるからと早々にお開きになってしまったのだ。
「気にしないで下さい。わたしは若様と外出出来ただけで嬉しいのですから」
「今度、何か埋め合わせをするよ」
「平気です。だって、お祭りならどこでも出来ますよ。ほら、こんな風に」
そう言ってロザリンはティエリーの手を取った。
歌を口ずさみながら、高く掲げたティエリーの手を支点にしてロザリンはくるくると回り出した。
楽しそうに歌いながら、くるくると舞い、飛び切りの笑顔を自分に向けるロザリンに、ティエリーはどうしようもなく心を奪われていた。
「きゃっ」
石畳に足元を取られたロザリンが体勢を崩して倒れそうになるのを、咄嗟にティエリーが抱きかかえた。大きく背中を反らし、目を見開いて、ぽかんと口を開けるロザリンの頬にぽつりと雨粒が落ちる。
大きな榛色の瞳を揺らしながら自分を見つめるロザリンに、まるで吸い寄せられるようにティエリーは自分の顔を近づけた。
そして見開かれたままのロザリンの瞳を覗き込みながら、覆いかぶさるように彼女の唇に自分の唇を重ねた。
躊躇いがちにそっと触れるティエリーの唇に、ロザリンは戸惑っていた。それでも仰向けになったままの自分を支えている彼の上着をぎゅっと掴んで、そしてロザリンは目を閉じた。
ロザリンのその様子を見たティエリーは、抱きかかえていた腕に力を込めて、唇を重ねたまま強く自分の方へ彼女の体を抱き寄せた。
そして、その強引さに驚くロザリンに微笑みながら、もう一度深く唇を重ねた。
ぽつりぽつりと降り出した雨が、抱き合う二人の肩に落ちて跳ねる。
「――――何を、している」
ふいに聞こえてきた震えるような低い声に、ティエリーとロザリンは即座に唇を離して声のする方を見た。
ロザリンがあっと思った時にはもう怒りに震えたヴィクトルが、こちらに向かって来てティエリーを殴り飛ばしていた。
雨に濡れた石畳の上にティエリーがずささっと倒れる。
「婚約者がいるくせに! ロザリンを傷つけるな!」
口の端から流れる血を手の甲で拭いながらティエリーはヴィクトルを見上げた。怒りの収まらないヴィクトルは肩を震わせながらティエリーを睨みつけている。
「これ以上、ロザリンを惑わせるような真似はやめろ!」
ティエリーの胸倉を掴んで拳を振り上げ、今にも殴りつけようとするヴィクトルの前に、ロザリンが身を投げ出した。
「やめて! ティエリーを傷つけないで!」
「……お前、自分が何をしているか分かっているのか! 兄上には婚約者がいるんだぞ!」
「いいの、それでも。……彼を愛しているの。側にいたいの」
ロザリンはティエリーを背に庇い、今までに見たことも無いほど激しく怒るヴィクトルに震えながらも訴えた。
「……お前は、馬鹿だ。……大馬鹿者だ」
震えながらそれでもティエリーを庇うロザリンに、ヴィクトルは顔を歪めながら呟いた。
振り上げた拳を降ろしたヴィクトルが、震えるロザリンの頬にそっと触れる。
「……俺は、お前が傷つくのは見たくない。……お前には笑っていて欲しいんだ」
「わたしはティエリーの側にいられるだけで幸せなの」
ロザリンは目に涙を溜めながらヴィクトルを見上げて微笑んだ。
そんなロザリンの姿に言葉を失くしたヴィクトルは、ロザリンの頬に触れていた手を降ろした。強く眉根を寄せて目を閉じたヴィクトルは顔を上げて、叩きつけるように激しく振り出した雨を全身に受けていた。
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