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12. わたしに出来ること

 まるで子供のようにじゃれ合うロザリンとヴィクトルの耳に、突然、叫び声が聞こえてきた。


「――きゃああっ、若様っ!」


 すぐ近くから聞こえてくるその侍女の叫び声にヴィクトルが駆け出すと、ロザリンが後ろからついて来ていた。


「どうしてお前がついて来るんだ?」


 不思議そうに尋ねるヴィクトルに、ロザリンは答えに詰まってしまう。

 それでもティエリーの身に何かが起きたのに、自分が無関心でいられるはずがない。ロザリンはどうにかしてヴィクトルについて行って、何が起きたのかを自分の目で確かめたかった。


「えっと、その、あなたのお兄さんなら、わたしも無関係じゃないでしょ?」

「……そうだな、兄上はお前の義兄になるのだからな」


 納得した様子のヴィクトルに、もっと他の言い訳を考えつけば良かったと後悔しながらロザリンは走ってついて行く。


 裏庭から表に出ると、ティエリーが倒れているのが見えた。

 地面に倒れているティエリーを数人の侍女がおろおろと取り囲んでいる。ヴィクトルが駆け寄ってティエリーを抱え起こしながら、侍女に尋ねた。


「何があった? 兄上はどうして倒れたんだ?」

「わ、分かりませんっ。散歩の途中に急に立ち止まって、そのままふらっとお倒れになったんです。わたくし達も何が起きたのか……」


 侍女が真っ青な顔で説明するのを黙って聞いていたヴィクトルは、意識の無いティエリーを両手で抱き上げると、そのまま屋敷の正面玄関に向かって歩き出した。ティエリーが心配でたまらないロザリンもヴィクトルの後をついて行き、そのまま屋敷の中へ入った。


 ロザリンがヴァロワ侯爵家の母屋に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。

 仕事場の洗濯場と干場は裏庭にあり、住んでいるのは使用人向けの離れだったし、母屋は洗濯担当の下女であるロザリンが勝手に出入りできる場所ではなかった。


 そのヴァロワ侯爵家の母屋の正面玄関から中へ入ると、真っ白な大理石の床が目に入った。その向こうには濃青色の絨毯が敷かれた大階段があり、天井からは磨き上げられてキラキラと光るクリスタルのシャンデリアが下がっている。


 初めて目にする貴族の邸宅の豪華さに、ロザリンは思わず腰が引けてしまった。ヴィクトルはそんなロザリンを気にする様子もなく、ティエリーを抱えたまま正面の大階段を上っていく。ヴィクトルに置いていかれないように慌ててついて行くロザリンに、周りの使用人達の冷たい視線が突き刺さる。


 ヴィクトルと一緒にいるからどうにか見逃されて、誰にも声をかけられずにいる。けれど、これがもしロザリン一人だったら間違いなく、すぐにここから叩き出されただろう。もしかしたら罰を受けたかもしれない。ロザリンは思わず、ティエリーを抱えて歩くヴィクトルの上着の裾を掴んでしまった。


 そんなロザリンに気づいたヴィクトルが視線を向けて、心配ないとばかりに優しく微笑む。


 長い大理石の廊下を歩き、豪華な装飾のある大きな扉の前でヴィクトルが足を止めた。後ろをついて来ていた侍女がその扉を開けると、中には天蓋付きの広いベッドがあり、ヴィクトルはそこに抱えていたティエリーを降ろして横たわらせた。


 ティエリーの顔色は悪く、まだ目覚める様子は無かった。

 そんなティエリーの顔を心配そうに覗き込んだヴィクトルが侍女に尋ねる。


「主治医のアルベール先生は?」

「今呼びに行っているので、もうすぐ来られるはずです」

「兄上はちゃんと薬を飲んでいるのか?」

「は、はいっ。それは勿論でございます」


 当たり前のように薬という言葉を口にするヴィクトルに、ロザリンは首を傾げた。

 村にいる間、ティエリーは一度も病気になったことは無く、薬も飲んだことは無かった。それなのに今は突然倒れてこんなにも顔色が悪く、しかも薬が当たり前の様子。ティエリーは一体何の病気なのかと、ロザリンは心配でたまらなかった。


「ヴィクトル、……あの、ティエリー、いえ、若様はどこか悪いの?」


 眠るティエリーの横に立っているヴィクトルが、ロザリンを振り返る。


「いや、どこが悪いという訳ではないんだが、兄上は食事が出来ないんだ」

「……食事が出来ないって、どういうこと?」

「元から食の細い方なんだが、こっちの食事が口に合わないらしくて、料理人が何を作っても食べられないんだ。だから、普段の食事は主治医のアルベール先生の指示に従って、薬で済ませている」


 気づかわし気にティエリーを見るヴィクトルの言葉に、ロザリンは愕然とした。


 ティエリーは十八歳で、背も高く、十分に大人の男性の体だ。それなのに食事が口に合わないからといって、薬だけで体が持つはずがない。そんなの倒れて当たり前じゃないかと叫びそうになるのを、ロザリンは必死にこらえた。


 ベッドで眠ったままのティエリーは顔色も悪く、村にいた頃に比べるとだいぶ痩せていた。食事が出来ないなんて、どうして。自分が側にいたら、こんなことにはならなかったのにと泣きそうになりながら、ロザリンはふと昔のことを思い出した。


 そういえば、祖父に連れられて我が家に来たばかりの頃のティエリーは、偏食が酷かった。村の食事が口に合わなくて泣いてばかりだった。それを祖父とロザリンで試行錯誤して何とか食べられるようになったのだ。


 ……もしかして村の食事に慣れて、今度は逆に都の食事が口に合わなくなったの? 食事が出来ずに薬だけで済ませているから、こんなに痩せて弱っているのなら、ちゃんと食べられるようになったら、ティエリーは元のように元気になるの?


 ロザリンは、ベッドの横に立ってティエリーを心配そうに見ているヴィクトルの上着をそっと引っ張った。


「うん? どうした?」

「……ヴィクトル、お願いがあるの。わたしに、……若様の食事を作らせてもらえない?」


 意を決して頼むロザリンを、ヴィクトルはきょとんと見ている。そんなヴィクトルの後ろからロザリンの言葉を聞きつけた侍女が出てきて、強い口調でロザリンを叱責する。


「無礼なっ! 洗濯下女の分際で若様の食事を作りたいなどと、立場をわきまえなさい!」


 自分が場違いで、無礼なことをしているのは承知の上で、それでもロザリンはヴィクトルに頼んでいた。

 ティエリーは村にいる間は、ずっと自分の作った食事を食べていた。ティエリーの好みをよく把握している自分ならもしかしたらと、ロザリンはすがるようにヴィクトルを見上げた。

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