10. 優しくしないで
ヴァロワ侯爵家を出て行くことを諦めて、ここに残ることに決めたロザリンだったが、やっと会えたティエリーが自分のことをすべて忘れてしまったという事実に打ちのめされていた。
ティエリーを見つけたら、以前のようにずっと緒にいられるものとばかり思っていた。ティエリーと一緒なら、あの村にも帰れると思っていた。
それなのに、彼はすべてを忘れて、いつ思い出してくれるのか分からない。
恋人同士だったはずなのに、侯爵家の嫡男とただの使用人では、近くにいることすら許されない。
やっとティエリーに会えたのに絶望的なその状況に、ロザリンはシーツにくるまって一晩中声を殺して泣き続けた。
「――どうしたんだ、その顔」
いつものように干場にロザリンに会いに来たヴィクトルは、泣きはらした顔のロザリンに言葉を失くしていた。
一晩中泣き続けて、ロザリンの瞼は腫れて顔はむくんでいた。
こんな酷い顔を見られたくないのに、俯いて誰にも見られないように顔を隠しているのに、どうしてこの男は放っておいてくれないのかと、ロザリンは心の中で恨めしく思っていた。
わざと顔を背けながら洗濯物を干すロザリンを、ヴィクトルはその腕を掴んで自分の胸に抱き寄せた。むくんだ顔を見られたくなくて俯いているロザリンの頭頂の髪に、ヴィクトルが優しく口づける。
「そんなに泣くほど悲しいことがあったのなら、どうして俺の所に来なかったんだ? お前が泣き止むまで、ずっと抱いてやったのに」
「……だから、そういう他の人に勘違いされるような言い方はやめてってば。それに、夜中にあなたの所になんか行ける訳ないでしょ」
いつまでも自分の目を避けるように逃げ続けるのロザリンの顔を、ヴィクトルは両手で挟んで自分の方を向かせた。
「……ちょっと、やめてよ。酷い顔してるから見ないで」
どうにかしてそこから逃げようとしてロザリンがもがく。逃がさないとばかりにロザリンの顔を挟む自分の両手に力を入れたヴィクトルは、彼女の顔を覗き込み微笑んだ。
「何があった?」
ロザリンは、うっと言葉に詰まってしまった。
まさか、恋人を探しに都に出てきたら、実は彼はあなたの兄でしたとは言えなかった。しかも恋人は事故が原因で自分のことを忘れていて、これからは使用人として仕えなければならない。
そんなことをヴィクトルに言えるはずもない。それなのにこうも強く顔を両手で挟まれていてはどうにも逃げられない。ロザリンはそこから逃げる代わりに、ただヴィクトルから視線を逸らすのが精一杯だった。
何も話そうとしないロザリンに問い質すのを諦めたヴィクトルが、そっとその額に唇を当てた。
「言いたくないなら何も話さなくてもいいから、今度からは泣きたくなったら、ちゃんと俺の所に来い。夜中でも構わない。お前が泣き止むまで、ずっと抱いてやるから」
そう言いながらヴィクトルは、自分の唇をそっとロザリンの瞼に当てる。
ヴィクトルの唇は、ロザリンの右の瞼に口づけた後、左の瞼、左の頬、右の頬と少しずつ移動しながら、むくんだロザリンの顔中に触れていった。
何も聞かずに、ただ顔中に口づけるヴィクトルに、ロザリンは泣きそうだった。
自分が愛しているのはティエリーで、彼を探してここまで来た。それなのに彼はわたしを忘れてしまった。……そんな時にヴィクトルに、こんな風に優しくされたら心が揺らいでしまいそうになる。ティエリーを思いながら、ヴィクトルの優しさに甘えるなんて、そんなずるい真似はしたくない。もうわたしのことは構わないで、もう放っておいて欲しい。
「……もう、やめて。わたしにこれ以上、優しくしないで。……つらくなるから。自分が嫌になるの」
目に涙をいっぱい溜めて自分を見上げるロザリンに、ヴィクトルは目を見張る。
「お前は抱くと泣き止むのに、キスすると泣くのか」
こつんと自分の額をロザリンの額にくっつけたヴィクトルは、溢れるほどの涙を溜めたロザリンの目を覗き込んだ。
「お前にキスしたくなったら、どうしたらいい?」
もう許してえと泣き出したロザリンを、慌てたヴィクトルがあやす。
「ごめん、もうしないから。ねえ、ロザリン、ごめんってば。ほら見て、ちゃんと抱いてるからっ」
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