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高坂は杏より常連歴は杏より長いらしく、サリナさんともフランクに話す関係だ。距離の保ち方が上手い人なようで、むやみにプライベートに突っ込むようなことは聞かないし話さないし、杏が話したい気分ではないときはそっとしておいてくれるし、話したいことがあるときは聞いてくれる、なかなか貴重な存在だ。
彼とはここでしか会ったことはない。このバーで少し話すだけの関係。
でも…
意外に高坂さんのことはいろいろ知ってるかも。私もここに来だして結構経つからな。
杏がバーに行ってみよう、と思い立ったのはちょっとした思いつきだった。
その頃友人がバタバタと(失礼?)結婚しだして、夜の飲み会がさっぱりなくなってしまったのだ。『ランチ会なら。』という友人たちに『それじゃあ心ゆくまで飲めねーじゃねーか』と静かに心の中で切れていたのは随分前のこと。だったら一人で飲みに行けばよくない?と思って店探しを始めた。
が、居酒屋に一人で行くのはハードルが高い。おしゃれカフェで飲む、というのもアリだが、可愛らしいドリンクばかりだ。じゃあ、バー?バーってやつに行けばいいの!?と女性おひとりさまで行けるところを探した。が、いろいろな口コミを見ると『女が一人でバーなんて男漁りに行くのと同じこと』『おひとりさまって感じがかわいそう』『男の領域に入ってくるな』という意見をチラホラ見つけて、途方にくれてしまったのだ。
今なら鼻で笑ってあしらうが、当時はまだぴちぴち(と自分では思っている)お年頃。人に変に思われたくないという自意識が邪魔をして、二の足を踏んでいたのだ。
そんな時、ネット検索の上部の広告に出てきたのがここの店だった。『おひとりさま、女性大歓迎』『静かに心ゆくまで美味しいお酒をお楽しみいただけます』
いつもなら広告は絶対にクリックしないが、その時はついついクリックしてしまった。
サイトはしっかりした作りだし、店内の写真もきれいだった。それにオーナーさんが女性だというのが最後の決め手になった。しかも行動範囲内にある。思い立ったらすぐ行動、がモットーの杏は、その週の半ばにさっそく訪れたのだった。
「いらっしゃい。初めてのお客様ね。お好きな席にどうぞ。」
にこやかに迎え入れてくれたのは写真で見たままの美人のオーナーだった。キョロキョロと店内を見渡した杏に、
「そちらのお席はどうかしら?」
と薦めてくれた。
「あっはい。ありがとうございます。」
杏はドキドキしながらもスツールに座った。
わーお、バーっぽい!
内心の興奮を悟られないように(たぶんバレバレだったと思うけど)席に座った杏に、オーナーはおしぼりとナッツを出してくれた。
「初めまして。私はサリナよ。うちにようこそ。何をお召しになる?」
にっこり笑った美人に目を奪われた杏は、気がつけばここに来た経緯をすべて話してしまっていた。
「で、ようやく結婚する気になったんだな?」
昔に思いを馳せていた杏を現実に引き戻したのは高坂の声だ。
「何の話?」
「だから、結婚。杏さん前に『老後が心配になったら結婚する』って言っていただろう。」
「そんなこと言ったっけ?」
「言った。八年前に。」
「よく覚えてるね、そんなこと。」
言ったような記憶があるような無いような。
当時は結婚フィーバーの友人たちが、しきりに結婚のよさを強調してきて辟易していたのだ。
『結婚しないの?』『結婚するなら早くしないと、うちの会社の40歳の人も、もっと早く婚活しておけばよかったって言ってるよ』『子供とか、考えないと。』
…知らんがな。友人たちが幸せなのはいい。だが、それを押し付けられても困る。
そんな時、高坂にも結婚について振られて、コイツもか!と思った杏は冗談で言ったのだ、老後が心配になったら結婚してやってもいい、と。
『てかお前そんな相手いないだろー?』みたいな反応を期待していたのに、高坂は黙り込むと『…そうか。』と重々しく頷いた。
あれ?外した?冗談だったんだけど。
重々しい沈黙をどうしていいか分からなかった杏は、その話題はそのまま流すことにしたのだけれども。
「で、結婚するんだな。」
「え、しないし。今日はやけに絡むわね。どうしたの?会社で何か嫌なことでもあった?」
高坂は残念な人を見るような目で、杏を見た。
「あなたの隣に独身の男が座っているんだけど。」
正確には隣の隣ね、なんて茶化して言える雰囲気ではない。
「そう、そうだね。高坂さんも独身ね。独身貴族同士ね、はは。」
「だから何の問題もない。結婚しよう。」
うん?