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繁華街を少し歩くと、見逃してしまいそうな細い抜け道がある。その路地裏に入っていくにつれて周りの喧騒はどんどんかき消されていく。バー「ラ・ストレーガ」はその奥にひっそりと佇んでいる。


「こんばんはー。」

あんはバーの重厚な木のドアを開けた。

「いらっしゃい、杏ちゃん。」

笑顔で迎えてくれたのはスラリと背の高いオーナーだ。亜麻色の髪はゆるくシニョンにし、おくれ毛がうなじにかかっているのが艶っぽい。肌はツヤツヤ、瞳の大きな目は潤っていて、女でも彼女に見つめられるとドキッとしてしまう。


サリナさんはいつ見ても美人よね。これぞ美魔女と言うのかしら。怖くて年齢は聞けないけど。


杏はいつもの席に座った。L字型のカウンターの短い方の端。右隣は壁だ。二席しかないそのスポットは、杏が初めてこの店に来た時にオーナーが薦めてくれた席だ。ここなら隣に荷物を置いちゃえば隣には人が座れなくなるからね、一人になりたいときはちょうどいいのよ、と。


「もうすっかり春って感じですね。少し前まであんなに寒い寒いって言ってたのが嘘みたい。」

「本当ね。いきなり暖かくなってきたものね。着る服に困っちゃうわ。」

サリナさんが杏の前におしぼりとナッツを置く。この店は昔からずっと布のおしぼりだ。指先はやはり冷えていたのだろうか、暖かいおしぼりの熱がじわりと広がる。


「すてきな桜ですね。本物?」

杏はカウンターに生けてあった木の枝を指して言う。

「そうなのよ。綺麗に咲いたからおすそわけってお客さんにもらってね。いつものでいいかしら?」


はいお願いしますと杏は答えながら店内を見渡した。週末の早い時間だからか、まだお客はまばらだ。落ち着いた店内には、静かなBGMが流れている。


「はい、お待たせ。」

サリナさんがコトリと杏の前にマティーニを置いた。杏はお礼を言いながらマティーニを口にする。


うーん、今日も美味しい。


女が一人でマティーニなんて恥ずかしい、なんて思っていた昔が懐かしい。


「そういえば今日はエイプリルフールね。」

サリナさんが笑いながら言った。

「そうでしたっけ?あ、そうか。4月1日ですね。毎年何かしようしようと思ってて過ぎちゃうんですよね。」


そもそもエイプリルフールって、外国の企業とかが新聞一面にばーんとお茶目な嘘を載せてるイメージだ。生真面目な国民性の我々がやったら、下手したらクレームの嵐、翌日謝罪会見なんていう笑えない事態になりそうな気がする。


「まあ毎年律儀に嘘ついている子もいるみたいだけどね。」

ふふふとサリナさんが笑いながらドアの方を見た。


ーーカランカラン


レトロな鈴の音が聞こえた。木のドアについている鈴は、ドアを開ける人によって微妙に違う音を奏でる。


開け方にも性格が出るのね、きっと。私はどうなんだろ。


「よ。」

言いながらL字カウンターの角、杏の斜め向かいに一つ席を空けて座ってきたのは同じく常連の高坂こうさかだ。

「よ。」

杏も気軽に返す。


高坂がオーダーを済ませるのを待って、杏は話しかける。


「聞いてよ。今年ついに恐れていたことが起こるの。」

「どうした?」


「新卒で入社した時にね、会社のおじさんに『君は何年生まれ?』って聞かれたから西暦で何年ですぅ、って答えたんだけど。『てことは…」っておじさんが和暦に直してね、和暦よ!で、『俺、その年に働き始めたよ』ってびっくりされたことがあったの。私、『えー、そうなんですか。スゴイ!』とか言いながら、何言ってんだこのオッサンって心の中で思ってたんだけど…ついに…」

「ついに?」


「ついに今年、そうなるのよ。」

「今年入ってくる新人の生まれた年があなたの働き始めた年と同じってこと?」


「そうなるわね。」

「そうなるか。じゃあ僕も同じかな。いや、去年か一昨年かな。」


想像できるだろうか。私が新社会人として働き始めた年に生まれた新生児が。

私が新人としてあっぷあっぷしてた時にハイハイ・よちよち歩きをしていた幼児が。

私が後輩やら部下やらを持ってヘトヘトになっていた時に思春期を迎えて親に反抗したり恋に落ちたりしていた学生が。

今年から、新社会人として同じオフィスで働くのだ。


「年ね。」

「…年だな。」

二人はため息をついた。


「もう終活とか始めた方がいいのかな。」

「それはさすがにまだ早いだろう。」

「それもそうか。」


「…でも、僕らも定年は見えてきたな。」

「たしかに。まだまだ先だと思ってたけど、きっとあっという間ね。」

杏はマティーニを飲み干す。目で、サリナさんもう一杯と合図する。

サリナは笑って頷いた。


「あー、そろそろ老後のこととか考えた方がいいのかな。」

「そうだな。考えた方がいいな。」

高坂が急に笑った気配を感じた杏は、桜の枝から目を離して彼の方を見た。

「…なに笑ってるの?」

高坂は笑いが抑え切れないというように口角を上げている。目尻は下がっているが、目がキラキラして瞳の色が濃くなっている。


え、なに、どこが笑いのツボだったんだろう。


杏は少し引きながら高坂を見た。


「いや、今日はいい日だなと思って。」

「…そう。」

杏はなんとなくこれ以上追及しない方がいいと思って曖昧に頷いた。


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