記憶喪失を利用せよ
好きな女が記憶喪失になった。二週間前に交通事故に合って、死ぬほど心配していたのだが、その女が仲良かった友達から聞いた話によると、自分の名前や家族、これまでの経歴など重要な事は一応覚えてはいるものの、その記憶がほとんど断片的で、趣味や学校での自分の生活や人間関係のほとんどを覚えていないらしい。
記憶喪失なんて非日常も良い所だが、人間生きていれば自分にも身の回りにもありえない事は訪れるものだが、そう言った出来事はなかなか受け入れることは出来ない。
その女の子は中学の時に出会い友達になり、そして大好きになった。中三の頃に告白され振られてしまったが、友達関係は続いていたのだが、相手には恋人がいるしどうしようもなくなり、俺はその子と誕生日のプレゼント(誕生日が一日違いなのだ)を交換する日をすっぽかし、メルアドを変えても教えなかった。
俺は弱くて情けない。自分がどう頑張っても付き合う事は出来ないという現実に絶望し、友達関係さえもやめて逃げてしまった。なにより、記憶喪失で友達の記憶をほとんど失っていて、どうやら恋人の事も忘れていることに少し喜んでいる。
中三の頃に振られて、そして逃げた。俺が友達関係を止めて逃げたとわかった時、あいつは怒り狂った。それで終わりだと思った。しかし、なんと同じ旭岡高校に入学してしまった。クラスは違うが、廊下ですれ違うたびに無視されるのが辛い。睨んでくれれば、一応は俺の存在を認めてくれていると言う事だが、俺が通っても風が吹いたくらいにしか思っていない。
しかし、江鹿るみはそういう俺の汚い記憶を失っている。恋人も、恋人がいるのに告白して振られて俺も、忘れてる。
もしかしたら、また、友達になってくれるかな? そう思っている自分がいる。もう一度ゼロからのスタートが出来れば、次は失敗しないでうまくやる。そして俺が新しい恋人になりたい。それを考えると嬉しいけど、同時に自分のあまりにも汚く情けない心にがっかりする。でも良いんだ。だってまだ好きだし、自分が良ければそれでいいのだ。
自分がダメな人間でも、それをうまく隠していれば、世間的にお前はダメな奴だとは言われない。そこんとこ、正直者はバカを見ると言う事だろう。腹黒い性格だろうがなんだろうが、自分の汚さを隠せる奴がうまく人生を歩んでいける。
俺は旭岡病院に行った。記憶喪失になったが、事故そのものは江鹿が奇跡的にうまくよけた事、車がそこまでスピードを出していなくて、なんとかハンドルを切って避けたので、なんとか死は免れた。
受付で江鹿の病室を聞き、緊張しながら部屋を向かう。この心臓の高鳴りは、江鹿と会える嬉しさと記憶忘れているという事実と、自分の情けない思惑に対する失望感。色々なものが混じっている。
病室の前に行くと、廊下のベンチに美人な女が座っているのに気づいた。手にはペットボトルを持っていて、その中には水が入っている。そして一瞬俺を見た。見た事のない顔だが、特に気にせず病室に入った。
江鹿はベッドに寝転がって漫画を読んでいた。髪はボブカットで目がくりくりしていて、小動物的な顔である。健康的な肌。優しそうな雰囲気。やっぱ江鹿は世界で一番可愛い。アイドルよりも誰よりも可愛い。
江鹿は俺の方を向くと、小首を傾げた。そして軽く会釈してくる。俺も会釈を返すとベッドに近づいた。
「やぁ」
「えっと。……ごめんなさい。思い出せない」
凄い。江鹿が普通に俺と話している。俺が突然一方的に逃げた事に怒り、それ以来完膚無きまでに無視してきたのに、俺の目を見ている。でも違う。ダメだ。人の不幸をなんで喜んでるんだ。江鹿には恋人がいてそいつの事が好きで、俺の事は嫌いなんだ。
でも、人は甘いものが好きなんだ。死ぬほどの絶望や辛い事は無くなるはずがないのに、それら全てがリセットされた。そんな事滅多に起きない。無くしたと思ったものが、最初から無かったことになってる。そんな甘い出来事に直面して、首を横にそむける事は出来ない。
「貴方は私と、どんな関係だったんですか? なんとなく、顔は覚えているような気がしないでもないんだけど」
声は高いのだが、落ち着いてぼそぼそ話すため、なんだか声を聞いているとこそばゆい気持ちになる。
ていうか、なんと答えれば良いだろうか。本当の事を言えるわけがないし。
「中学と高校同じだったよ。ただまぁ、一同お互い名前を知ってるってくらいかな。クラスは一度も同じになった事無いし」
「そうなんですか」
江鹿は、ニコリと笑った。あの江鹿が俺に笑顔を向けている。なんという感動であろうか。しかしこの喜びも江鹿の笑顔も偽りである。本来あるべき姿じゃない。
しかし、俺が元々そんなに深い関係にあった人間じゃないと聞くと、なんだか落ち着いたようだ。確かに、家族や親友や恋人が目の前にいるのに思い出せないと苦しいだろうが、大して親しくなかった人なら、気負う必要はないだろう。むしろ勝手に気負ってるのは俺の方だ。
「でも、どうしてそこまで仲良くない私の所に来たんですか?」
「一応顔と名前は知ってるし、会話もした事がある。お見舞いくらい、来るさ」
心臓が訛のように重くなった気がした。さすがに俺だって人間。良心が痛む。よくもまぁ、こんな事をぺらぺらと言えるようなものだ。
「ありがとうございます」
沈黙。記憶を無くしているのだから、話が進むはずもない。とりあえず俺は、一番大事な事を聞くことにした。
「ていうか、記憶喪失と言っても、具体的にどんな事は覚えてたり忘れてたりするんだ」
「記憶喪失って言われると、なんだか大げさな気もするんだけど。自分の名前とか性格とか住んでる場所。年齢に学校。そして家族とか趣味はハッキリと覚えてる。ただ、家族以外の人間関係がかなりあやふや。顔と名前聞けば覚えている気がするけど、気がするだけで全然思い出せない。それに音楽が好きな事は覚えてるけど、好きな歌手とかも思い出せない。でもね、自分の事は覚えているから、自分と記憶を失ったっていう実感がないの。でも、中途半端に覚えているから逆にはがゆい」
記憶喪失については良くわからないが、それならもしかすると記憶が完全に戻るかもしれない。
……いや待てよ。もしも江鹿が記憶を取り戻したら、今話している偽りの俺はどうなる。これまで以上に嫌われる。今この瞬間、思い出されたら、どんな目で睨まれてしまうのだろうか。
「事故から二週間くらい経ったか?」
「正確に言うと十八日かな。失った記憶は全然戻らない」
俺が記憶喪失の原因やどうしたら治るとかそんな事を考えていてもしょうがないので、話を変えることにした。
「記憶失ったにしては、なんか元気だな。俺なら気狂いそうだけど」
「狂いそうにもなるけど、しょうがないからね。過去は変えられないし、嫌な思い出で毎日苦しめられたとしても、やっぱりそれはどうしようもないんだよね。受け入れて前に進もうと頑張らなきゃいけない。そこで頑張る事を止めて過去の事を思い出して悶々としていたら、ダメな人間になるだけだよ」
記憶喪失になりながらも前に進もうとする江鹿。未来を見ることは一切せず、過去の思い出で未だに悶々として投げやりになっていた自分。笑っちゃうね。そりゃあ振られる。江鹿と俺じゃあ、人としての出来が違いすぎる。自分でもわかっている事だが、俺は過去をいつまでも引きずる人間なのだ。ネチネチしてて、嫌な性格。
ふと、後ろから視線を感じて振り向いた。大部屋なので他にも人がいる。中年の女で、興味ありげな顔をしている。江鹿もそれに気づいたのか、顔をしかめた。
いきなりやって来て、長居しても江鹿が気をつかって疲れるだけだろう。今日はもう帰ろう。
「突然やってきて悪いな。そろそろ帰る。様子、見に来ただけだから」
また来るのかどうか、自分でもわからない。
「あ、うん。今日はありがとう。病院暇だから、また来てよ。人と話していれば、何か思い出すかも知れないって先生が言ってたし」
俺は頷いて病室を出た。信じられない。もう絶縁した女の子が、また自分の所に会いに来てくれと言っている。自分がやった事ではあるが、失ったはずの女の子が、俺のマイナスのイメージを綺麗さっぱり忘れて受け入れてくれる。
偽りでも何でも良い。俺は今、最高に幸せだった。
「ちょっと君」
廊下のベンチに座っていた女が話しかけてきた。背が高く、髪の毛は背中まで届いている。年齢は二十代前半。結構美人。美人なのだが、疲れ切っているというか、なんだか覇気が感じられない。自分から話しかけておいて、かなり緊張した顔をしてる。
「笹倉りのと言います。ちょっと、付き合ってくれませんか」
「……知り合いかなんかでしたっけ?」
「いえ、初対面です。ただ、江鹿るみさんの事でお話があります」
笹倉の表情が一気に引き締まった。何かを決意したような、そんな顔。ただ、勝手に江鹿の事で何かを決意されても困る。ていうか、俺は偽りの時間を過ごしただけである。俺が江鹿について話す権利はない。江鹿の話をするべきは、友達や恋人だ。
しかしこの女は、俺が江鹿と親しい男だと思っているらしい。違う。俺は最低な人間なんだ。中三の夏に振られて一年が経っても、失恋した女を忘れられずに辛い日を送っていた。そんな日常に舞い降りた非現実な不幸を利用して、一方的に幸せとむなしさを感じているだけなんだ。
ただ、話を聞くだけなら許されるか? いや許されない。でも気になる。
「家族にはあまりお話できないんです。お願い出来ませんか?」
俺は気づくと頷いていた。最低最悪な人間だと思う。俺は江鹿の嫌いな人間。記憶が失われているのを利用して関わるなんて、ストーカーと言われてもしょうがないかもしれない。
「では、喫茶イトゥラに行きましょう」
喫茶イトゥラと言えば、旭岡高校の生徒が良く利用している喫茶店だ。そういえばこの店の前を通った時、ガラス越しに江鹿がいたのを見た事がある。その時あいつは、俺を睨んだ。その目は何かを問いただすような力強さを持っていた。
「ここじゃ話しにくいので……。すみません」
笹倉は歩き出した。後をついていく。俺はとんでもない事をやっているのではないかと思うが、もう後には引けない雰囲気である。
二十分ほどでイトゥラにつき、笹倉はブラック。俺はアイスコーヒーを頼む。コーヒーはすぐに運ばれ、お互い一口飲むと笹倉はさっそく話し出した。
「早速本題ですが、実は私、江鹿さんが車に轢かれる瞬間を目の前で見ていました」
「へ?」
「あの子は普通に横断歩道を渡っていましたが、車が突っ込んできたんです。私は江鹿さんから数歩後ろにいましたが、ギリギリ車は私にぶつからないというのはすぐにわかりましたが、逃げました」
「ちょっと待って下さい。車が貴方にギリギリぶつからない距離にいたとは言え、江鹿の後ろを歩いていたんですよね? 体を引っ張るなり、何か出来たはずですよ。その場面を見ていないから、あまり責めるような事は言えませんけど……」
「多分、後ろから突き飛ばすなりひっぱるなり、何か出来たはずです。でも、私は怖かった。自分を守る事だけを考えて後ろへと走って逃げたんです」
その時の事を思い出したのか、笹倉は下を向いて唇を血が出るんじゃないかと思うほどに噛んだ。目の前で人が轢かれようとしているのに逃げるとはなんたる事だ! と怒鳴ってもいいのかもしれない。ただ、人間そんなに立派じゃない。目の前を歩いている人間に車が突っ込んできている。しかし自分はギリギリ大丈夫だ。かなり危険だけど、前にいる赤の他人を助けよう! そう思える人は滅多にいない。自分が轢かれて死んでしまうかもしれないのに、わざわざ安全な距離から危険な距離まで前に進み他人を助けるなんて、相当な勇気が必要だ。
だから、江鹿を助けずに後ろへと逃げた笹倉を責める事は出来ない。江鹿が笹倉の家族や友達だったら別だが、赤の他人なのだからそこまでの勇気を出せるわけがない。
「貴方を責めることは出来ないでしょう。もしも江鹿を助けていたら、貴方も巻き添えを喰って車にはねられていたはずです。当たり所が悪ければ死んでいたかもしれない。突っ込んでくる車に一歩、二歩と駆け寄って、他人を助けるなんて普通出来る事じゃありません。確実に後ろへ引いた貴方の判断は賢明でしょう。事故ばっかりは、運が悪かったとしか言えません」
「でも! 助けようと思えば助ける事が出来たかもしれないんです。なにももの凄いスピードで来てたわけじゃない。あの状況であの子を助けられるとしたら私だけだったはず」
笹倉はブラックを一気に飲み干すと、机に思い切りコップを置いた。
「いきなり自分のプライベートを会ったばかりの他人に言うのははばかられますが、言います。私は小学生の時いじめられていましたが、仲の良い友達に守られ、助けられてなんとか不登校にならずに済みました。そのくせ、嫌な事があるとなんでも周りのせいにする癖があります。あいつがいなかったら平和だったのに。こいつのせいでこんな目にあった。すぐそんな事を考えます。なのに、いざ目の前で車に轢かれようとしている人がいるという状況に陥った時、私は逃げた。人に助けられたくせに他人が嫌いな私は、他人を助けませんでした。おかしいでしょう?」
それは考えすぎだ。そりゃあ何か嫌な事があったら周りのせいにしたくなる。自分は悪くない。そう思いたい。それが本当の時もあるし、人のせいにしてる時もある。しかしそんな事を言っていたらキリがない。人生っていうのはそういう事の繰り返しだ。
いくら嫌な事を周りのせいにする癖があるとしても、やっぱり目の前に車が突っ込んできている状況で、人を助けずに逃げたからといってそこまで自分を責める必要はない。しょうがない。その一言で済ましてもいいだろう。
助ける事が出来なかったのはしょうがない。自分を守る事を優先するのは当然といえば当然だ。しかし、目の前で人が轢かれてしまいそれを後悔して、江鹿の知り合いである俺にその話をしている。話して何になる?
「深く考えすぎじゃないですか。そりゃ、嫌な事があれば周りのせいにしたくもなりますよ」
「違うんです。心の中だけで周りのせいにするなら良いです。でも私は、そういう気持ちを表面上に出してしまうんです」
それは相当重症だな。
「なんでこうしたの。どうしてそんな事をするの。もっと考えられなかったの? そう責めてしまいます。だから何度も皆に言われました。じゃあお前は他人が困っていたら必ず助けるし、他人の迷惑にする事はしないんだなと。私はそう言われると、必ず強く頷きます。でも、私は今回逃げました」
俺はイライラしてきて、強い口調で言った。
「だから何ですか? それを俺に話して何になるんですか? 愚痴や後悔をはき出したいなら、他でしてください」
すると笹倉は、黒い鞄からペットボトルを取り出した。中は普通の水。
「信じてもらえないかもしれませんが、私は大学で薬の研究をしていて、最近は記憶喪失を治す薬を発明しました」
とてつもない電波発言に、俺はしばらく黙った。記憶喪失を治す薬? そんなものが発明出来るわけがない。あまりにもありえない。
「ふざけてるんですか?」
「ふざけていません。この液体を半分ほど飲ませれば十分です。記憶を失った部分を、この薬でショックを与えて治します」
「記憶喪失云々は抜きにして、そんな怪しい薬は早く捨てて欲しいね」
俺はコーヒーを一口飲んで続けた。
「まさか、その怪しい薬を、江鹿に飲ませろと言うんじゃないでしょうね?」
「そのまさかですよ。この薬は普通の人が飲めば全くの無害です。でも、記憶喪失の人が飲めば、記憶失った箇所が回復されます」
笹倉はそう言うと、ペットボトルのふたを開けて、一気に半分ほど飲み干した。
しばらくの間沈黙。笹倉は真剣な目で俺を見ている。特に変わった所はない。
「ほら。大丈夫でしょう。お願いします。これを江鹿さんに飲ませて下さい。不幸中の幸いか、あの子の怪我は交通事故にしては軽いものでした。でもそれは肉体的なものであり、中身である記憶を失ってしまいました。せめてこの薬で、記憶を治してあげて下さい。助けたいんです」
そんな電波トーク誰が信じるか。笹倉の顔は真剣そのもので、エサを求める犬のような目で俺を見ているが、いくら顔でアピールしても話題そのものは意味不明だ。江鹿を助けられなかった事や自分の悪い癖は本当だとしても、薬の話は飛躍が激しいし非現実的すぎる。
「貴方が本当に江鹿の事について後悔していたとしても、その気持ちは嬉しいですけど、そんな薬を受け取れるわけがありません。ただの水かもしれないし、あんたが発明した人体に何らかの影響がある薬で、記憶喪失になっている人間で実験したいのかもしれない」
「どちらも違うわ。これは記憶喪失を治す薬。私の研究で発明したんです。信用出来ます」
「貴方は、初対面の人間が開発した謎の薬を信用出来ますか」
「……」
「どんな電波を言っているのか、わかっていないんですか?」
「では貴方は、江鹿さんの記憶喪失を治したくないのですか?」
「え?」
「だってお友達でしょう。お見舞いに来るくらいなんだから。親交があった江鹿さんの記憶、治したくないのですか?」
そこを突かれるとどうも弱い。こいつの薬が本物だろうと怪しかろうと、記憶喪失を治したくないのか? と聞かれてしまうと、どうも言葉に詰まる。そりゃ記憶が治るにこしたことはない。でも俺は、あともうしばらく記憶が戻らず、一時の幸せを感じたい。
俺は江鹿を傷つける気はなかった。つーかそもそもあいつには恋人がいたんだ。それを知って告白した。つまり江鹿からすれば、自分を好きな男に過ぎないわけで、告白した瞬間に友達関係さえ失っていた。俺は江鹿に悪口なんて言ったことない。告白以外にした事なんて何もない。なのに、なんであそこまで嫌われなきゃダメなんだ。
気づいたらメルアドを変えられていたとか、遊びの約束をすっぽかしたとか、それだけの事じゃないか。確かに一方的に逃げてしまい避ける事を最初にしたのは俺だ。嫌われてもしょうがないと言えばしょうがないし、悪いのはどう考えても俺だ。なんであんなに怒るんだ! と思うのは逆ギレ以外のなにものでもない。自業自得。
でも、このまま悶々としててもダメだと思った。新しい一歩を歩もうと思った。だから吹っ切ろうとした。でも結果的に、あいつに嫌われると悲しいし睨まれると腹が立つ。
そんな江鹿が俺を見て笑っているんだ。あまりキザな事は言いたくないが、こういう恋愛に関しては確かに理屈で言い表せるものじゃない。
「貴方は、一方的に記憶のない江鹿さんと話したいだけなんですか?」
突然笹倉は、人差し指で机をトントンと叩きながら、キツイ目で俺を見てそう言った。
「確かに、こんな話をスムーズに信じてもらおうなんて思っていませんし、電波と言われても仕方ないです。むしろ、あっさり信じる方がおかしいです。でも、私が今言いたいのはそういう問題ではありません。もしも江鹿さんを純粋に友達だと思っているなら、話自体は怪しくても、記憶が治るというフレーズを聞けば、一瞬でも嬉しそうな顔したり、食いついてくるのが人の心理でしょう。でも貴方は無反応。ただ、怪しんだり私を睨むだけ。どうして、具体的に何故治るのかとか、今この女の話していることは怪しすぎるけど、それでも記憶が戻るのなら聞いてみようとか思わないのですか?」
俺はカッとなり、机を叩きそうになった。
でも、確かに笹倉の言うとおりだ。俺は江鹿に振られて、無様に逃げた。関係を絶った。そして嫌われ、逆ギレをして後悔してもなお、好きという感情が消えない。そして江鹿の記憶が戻る事を祈るばかりか、記憶が戻らずにこのままの状態でいれば、二人で楽しく会話が出来る。そう考えていた。
また、逃げようとしている。江鹿の記憶が戻ってまた嫌われる事から逃げている。笑えるほどに最低人間だ。でもそこまで逃げたり悩んでしまうのは、好きという二文字で済んでしまう。
「……まぁ、そこらへんは貴方のプライぺートでしょうし、私の踏み込む話ではないでしょう。とりあえず、これは渡しておきます。あと、一応メルアドと番号も」
笹倉はペットボトルとメルアドと番号を書いた紙を机に置いた。俺はもうどうでもよくなり、それらを受け取った。
「ていうか、なんで家族とか恋人に渡さないんですか?」
「ご家族や恋人くらいに仲が良い人に言ってしまうと、警戒されて何されるかわかりませんからね。警察に突き出される可能性もあります。恋人さんはすぐにわかりました」
そりゃあ恋人はお見舞いに来るだろう。今日鉢合わせしなくて良かった。いや、それよりも……。
「なんで恋人はすぐにわかったんですか?」
俺がそう聞くと、笹倉は始めて見下すような顔をした。まるで、優等生が成績も悪く素行も良くない生徒を見るような目つき。気にくわない。
「恋人さんはあのイケメンの方ですよね? あの人は、この世の終わりかのような顔で江鹿さんの顔を見ていました」
俺は、江鹿の恋人がそんな顔をしていた事と自分の態度を比べて情けなく思うよりも、まず笹倉が”イケメン”という所を強調して言った所に敏感に反応した。一発殴りたい所だが、笹倉は怒っているのだ。俺があまりにも楽しそうに江鹿と話していたから。まるで記憶喪失を喜んでいるかのように。でも、だからこそ俺みたいな人間に頼んだのかもしれない。
純粋な人間に渡したら、まず間違いなくはね返される。でも俺は、記憶が治ればいいという思いと、このまま治らなければいいという思いがぶつかり合っている。だからこそ、笹倉に腹立ちながらも跳ね返すことをしない。
俺は旭岡病院の駐車場で、ミニクーパーに隠れていた。薬の事を考える前に、江鹿の状態を確認しに来た。と、自分に言い聞かせてここまで足を運んだのだが、病院から江鹿の恋人である森本和が出てきたのだ。背が高くかなりのイケメンであり、相当モテる。江鹿もめちゃくちゃモテて可愛いんだから、理想のカップルと言って誰も否定しない。他の人間が入れる隙なんかない。むしろ俺は、あの江鹿と遊んだりプレゼント交換をしたという思い出があるので、他の男からしたら羨ましい事この上ないだろう。
でもそんな事はどうでもいい。別に俺は可愛い女友達を自慢したいわけじゃないんだ。付き合いたい。ただそれだけ。純粋にそれしか考えていなかった。だが現実は甘くない。好きになったからと言って絶対に付き合えたら苦労しない。
ミニクーパーの横を森本が通っていった。むなしさに耐えきれずに、もう世界が真っ白になりそうな気がした。あいつは堂々と病院に来ている。何がなんでも記憶が戻ってほしいと思っているだろう。だからこそ、笹倉の言ったとおりの顔をして江鹿を見ていた。
俺は? 俺はどうだ。江鹿に振られたあげく自分から逃げて、その結果嫌われてしまい、しかも逃げて嫌われた事を後悔している。そして今は、コソコソと病院に来てこうして隠れている。
……落ちたな。ここまで来ると自分が怖くなる。でも、俺の足は一歩一歩、病院へ向かっている。
病室に入ると、江鹿は漫画を読んでいた。
「あ、青崎君。来てくれたんだ」
と、江鹿は満面の笑みを浮かべてくれた。
「なんの漫画読んでるんだ」
「さっきの男の人が持ってきてくれたの。これ、私が好きだった漫画なんだって。記憶を思い出すためには、とにかく自分が触れていた物をひたすら触れていかないとダメだと思って。でもこの漫画、タイトルは覚えてるけど内容はほとんど覚えてないんだよねぇ……」
すると森本は、自分が恋人だと伝えていないのか。なんとなく、カッコ良いと思った。
俺はポケットからMDを取り出して、机に置いた。
「これは?」
「お前が好きだった歌手の曲を入れてきた。聴いてみな。何か思い出すかも」
江鹿は漫画を閉じて、MDプレイヤーを小さい棚の引き出しから取り出した。中には他にデジタルオーディオプレイヤー、CDプレイヤーと勢揃いしていた。どんなメディアを持ってこられても準備オーケーという事だろう。
MDをセットして、イヤホンを耳に突っ込む。ドラムの音が微妙に漏れて聞こえてくれる。覚えているかどうか。これで記憶が戻るきっかけになればいい。そうさ、あんな怪しい薬に頼るわけにはいかない。なるべく、自然に記憶が戻ればいい。だから俺はこうしてMDを持ってきている。そうやって自分に言い聞かせないと、泣き出しそうだ。
江鹿は最初の一曲を聴くと、イヤホンを外して強く頷いた。
「覚えてる! この曲は覚えてるよ。大好きだった!」
「本当か?」
「うん。でも……。タイトルが思い出せない」
記憶喪失ってそんなに曖昧なのか。そういう思いが顔に出たのか、江鹿は俯きながら言った。
「イライラするんだ。普通記憶喪失って言葉以外は全部忘れるもんじゃないの? なのに私は、友達の顔を覚えていても名前とか遊んだ記憶が無い。趣味全般に関するものはほとんど覚えてるけど、それは漫画のタイトルだったり、今みたいに曲のタイトルだったり。服を集めるのも好きだったけど、ただそれを覚えてるだけでどういう服を好んでたかハッキリしない。完全に覚えてる部分は、よく考えてみると少ないんだ。なんか、頭の中ぐちゃぐちゃ。自分の事はなんとか覚えてるから、江鹿るみという存在は把握出来ているし、自分はギリギリの所で保っていられる。なのに、他の事が中途半端に抜けている。だから、ムカツクんだ。自分が自分じゃないような気さえしてくる」
想像を絶する苦しみだろうな。そう思った。不憫でならない。なんとかしてやりたい。そういう思いがどんどん強くなってくる。
ダメだ。俺は何をしているんだ。会いにきちゃダメだ。これ以上江鹿の記憶喪失を利用して一方的な幸せを得る事は出来ない。しょうがないんだ。無理なものは無理。それが人生だ。
わがままはもう止めよう。
たまらず、俺は「忙しいから」と言って病室を出た。走るように廊下を駆け抜ける。もう嫌だ。何もかもが嫌だ。情けない。情けなさすぎる。なんとかなるんじゃないかと心の隅で思ってた。でも、何がどうなんとかなるのかは、自分でもわからない。
玄関まで行くと、突然声をかけられた。
「青崎!」
振り向くと、そこには中学からの知り合いがいた。確か神山理名。江鹿の友達だ。
「なんでアンタ、ここにいんのよ」
「いや……」
「もしかしてるみのお見舞いに来たの?」
「まぁ……」
「うっわ。マジでキモイんだけど。アンタさ、るみに嫌われてるのになんで来てんの? あんだけ避けられて、睨まれてさ。まぁ何でアンタがるみにあそこまで嫌われてるのかはわかんないけど、あのるみをあそこまで怒らせるって事は相当な事をしたんでしょ? なのに、よく会いに来られるよね」
もの凄い勢いでまくしたてる。甲高い声で、嫌みったらしくイントネーションをつけたりする。早口で、唾が飛びそうな勢いで喋るその姿には、とてつもない怒りと憎悪が感じられた。
「もしかして、記憶喪失になってるのを良い事に、るみと楽しく会話出来るなんて思ってないよね?」
「いや、そんな事は……。ただ、心配で」
「はあ? アンタさ、頭おかしいんじゃないの? アンタが心配する必要がどこにあるの? 森本君とか他の友達が心配してるんだから、青崎が心配してもしょうがないじゃん。アンタは他人で無関係なの。邪魔だし居ても意味ないから、どっかいってよ。だいたい、るみの記憶が戻ったら、それこそアンタ世界で一番痛い人間になるよ」
俺はノーガードのボクサーのように、凄まじいラッシュを食らいまくり、一瞬神山を突き飛ばしたくなる衝動に駆られた。怒りと情けなさと後悔と図星と逆ギレで、頭の中が爆発しそう。血が、虫のように体の中で蠢いている。
神山は言いたいだけ言うと、早足で病院へ入っていった。もう終わりだ。最後に、江鹿の記憶を戻そう。今の俺にはそれしかする事がない。
携帯を開いて、笹倉に電話をかけた。一応、電話番号とメルアドは電話帳に登録しておいた。
「もしもし、笹倉ですけど」
「青崎です」
「……え?」
そういえば、名前を教えていなかった。
「薬をもらった」
「あぁ、うん。そういえば名前聞いてなかったね。声があんまり暗いからわからなかったわ」
「あの薬、本当に大丈夫ですか」
「うん。実際、私が飲んでも異常無かったし、今だって普通に喋ってるじゃない」
「副作用とかは?」
「あると言えば、ある」
「え」
「記憶喪失の間の記憶は無くなるわ」
「なんですか、そのやっかいなシステムは」
「詳しく説明すると長くなるわ」
「わかりました。もう十分です。薬を使います」
「そりゃ使うしかないもんね。使ったら、報告して」
「はい」
電話を切った。俺は家に戻ってペットボトルを持ち、急いでまた病院に戻った。
家から自転車を漕いで病室に行くと、江鹿はイヤホンで音楽を聴いていた。机にはMDプレイヤーが置いてあるから、多分さっき渡した奴だろう。気配で気づいたのか、こっちを向いてキョトンとした顔をした。イヤホンを外して、まじまじと俺を見る。
「ど、どうしたの」
「一つ忘れてた」
「なに?」
「これ」
ペットボトルを差し出す。江鹿は不思議そうに俺を見ながらも受け取ってくれた。
「水?」
「そうだ」
「これがどうかしたの」
「飲んでくれ」
「へ? いや、まぁ。喉は渇いてたけど」
「頼む。何も聞かずに飲んでくれ」
江鹿はしばらくペットボトルを見つめた。振ってみたり、フタを開けて匂いを嗅いでみたり。そして普通の水だとわかると、躊躇しながらも中に入っていた半分を飲み干した。
数秒、いや数十秒くらい経った時、江鹿はゆっくりと目を閉じてベッドに倒れた。驚いて近寄ると、眠っていた。俺はナースコールを押すと、病室から走り去った。
次の日には、江鹿の記憶が完全に戻ったという噂が友達から流れてきた。笹倉の言っていた副作用だが、本当に記憶喪失の間の記憶は完全に忘れているらしい。
これで良かったんだ。俺は江鹿を助けた。しかし江鹿はその事を知らない。別に知る必要もないだろう。記憶は完全に戻り、記憶を失っている間の事は覚えていない。それでいい。俺と会った事は覚えていないのだから。
俺は情けなくて、気持ち悪い男なんだ。いっそ、俺の記憶は記憶喪失の間だけと言わず、出会った時から今に至るまでを完全に忘れて欲しい。
江鹿は二週間後に退院して、無事高校に戻ってきた。そして俺は、いつも通り友達と雑談をしたり授業は居眠りをしたりしている。江鹿と廊下ですれ違ったら、コソコソ逃げる日も戻ってくる。
昼休み、購買に行くために廊下を歩いていると、前から江鹿が歩いてきた。またいつものように睨まれるかと思ったが、そうではなかった。なんと、俺に近寄ってきたのだ。
目の前に江鹿るみがいる。しかも記憶を完全に取り戻した状態で。顔は無表情。怒ってはいない。
「アンタさ、ナースコール押さなかった?」
「は?」
「なんか、私が記憶喪失になったって病院の人も友達も言うんだけどさ、私はただ事故にあってからずーっと眠ってただけで、やっと起きた時はちゃんと記憶はあったんだよね」
江鹿はあの日眠った。そして再び起きた江鹿からすれば、記憶は事故にあった日で止まっているわけで、相当の間眠っていたと思うだろう。だから記憶喪失になったと言われて、相当困惑しただろう。周りだって同じだと思う。江鹿が記憶喪失の間の事を覚えていないのだから。やっかいな話である。
「ただ、一つ疑問がある。事故があってから始めて起きた時」
正しく言うと、俺が薬を飲ませた後に起きたという事になる。
「すぐに、アンタがナースコールを押している姿が頭に浮かんだ。もしかして、アンタ病室に来てたの?」
俺はつい言葉に詰まった。覚えている? なんで俺の事だけ覚えてる。いや、待てよ。あの時江鹿は、薬を飲んだ瞬間眠ったわけじゃない。薬を飲んだ後、何秒かは起きていた。そしてだんだんと眠たそうな顔になり、ベッドに倒れてやっと眠ったのだ。
つまり、薬を飲んでから数秒か数十秒の記憶は、曖昧に残っていても不思議ではない。なんて中途半端なんだ。記憶がギリギリ残っている間、記憶がいよいよ無くなる間、その中間の記憶は曖昧に覚えていたのか。
でも、それはあくまで中途半端で曖昧な話。薬を飲んで眠る瞬間の、とても不思議で歯がゆい時間。そんなの、幻想とも気のせいとも、なんとでも言えるさ。
「俺が行くと思うか?」
そう言うと、江鹿はバカにしたような笑いを浮かべた。
「そりゃあ来る訳ないよね。もし来てたら、気持ち悪い
読んでくださった方、ありがとうございました。