月の兎と夜の虹
夜になるまでの数時間をマキナと過ごした。最初の数十分を作戦に向けて話し合った後は夜になるまで寛いだ。テレビさえ見なければここは糸を視なくて済む唯一の空間だ。何もしなくても楽しいし、気持ちが安らぐ。ただこれは……比喩的な意味合いが強い。確かに安らいではいるが、こいつが隣に居るだけで心拍が上がりっぱなしだ。
楽しい時間は夢の様に去っていく。七時間睡眠でも十時間睡眠でも当人からすれば一瞬だ。退屈は片時も感じなかった。ただ話し、触れ合い、見つめ合うだけでもこの身体は充実していた。
「……いや、床を鉄にするなよ。急に冷たいだろ」
「木だって似たようなものじゃない」
「似てない。温かみがないんだよ。布団だって鉄製だったら気持ち良くないだろ」
「『強度』の規定で試してみる?」
「妙な事に規定を使うんじゃない……っと。待った。ちょっと電話かけるな。一応外出るか」
「ここに居ていいのに」
「メサイア・システムがワンチャン俺の携帯に何かしてる可能性があるからな。GPSとかあったらシャレにならないだろ。だから……大人しく待ってろよ」
外に出ると言ってもマンションの外に出るだけだ。それなら辛うじてたまたまここに居ただけという言い訳が通じない事もない。
「待って!」
扉を開けようとした時、背後からマキナが抱き上げてきた。相手を工業用の機械と思えば人間が持ち上がるなんて当たり前すぎて驚く事でもないが、女の子と認識すると途端に恥ずかしくなる。両足が宙に浮いて地面が遠い。
「何だよッ。離せって」
「やっぱり私も行くわ!」
「は? 何で?」
「悪い虫がつかないように守ってあげるッ。電話の邪魔はしないんだから、いいでしょ?」
―――大丈夫かな。
彼女が守ってくれるならこれ以上の安全地帯はないが、電話先の相手がメサイアの重役と知ったらどんな顔をするだろう。
だが理由もなくこれを断るのもどうなのか。俺の不安も知らず、マキナはもついていくことが決定したかのように微笑んでいる。
「……電話中、声出すなよ? 妹と一緒で説明がややこしい」
「うん。早く行こッ?」
どこに行くかもわからないのにこの言い草だ。この際なので周囲の探知は彼女に任せる。マンションから離脱すると、その足元で電話を掛けた。この時の為の電話番号だ。マキナに引き続いてあの人とも連絡が取れないようでは身動きがとりにくい。俺を買ってくれているなら直ぐにでも出てもらいたい所だ。
『プランは決まったか?』
『まあ、大体。ただ兎葵が何処で襲われるかっていう情報を貰ってなかったので』
『おおー。そりゃ悪かったな。四又池って所だ。兎葵は常に移動してるが、こっちの作戦では追い込み漁の要領でそこで囲う。で、ミシャーナによる蹂躙だな。割り込む余地はあるか?』
『…………そっちでどうにかなりませんか?」
「下手すりゃ背信行為だな。I₋nが死ぬのは惜しい。頼もしい味方に頑張ってもらえ。代わりにその場を抜け出せたなら攪乱してやる」
「具体的には?」
「まさか善人の俺が嘘を吐くなんて思わねえからな。幾らでも雑兵は操り放題だ。ミシャーナは難しいだろうが、アイツは特段何かを感知するのに優れてる訳じゃねえ。勝算は高えぞ」
「……ちょっと待ってて下さい」
携帯を下ろして、マキナの方を見遣る。彼女は退屈そうに後ろでを組んで片足を軸にゆらゆら揺れていた。こんな愛らしい姿を晒すのだから、盗み聞きされていたりという線はなさそうだ。
「マキナ。一つ相談があるんだが」
「何?」
「未紗那先輩と戦う上で、奇襲を掛けたい。お前は真正面からでもいいんだろうけど、兎葵の身に何かあったら聞き出したい事も聞けなくなる。案はあるか?」
「案ねえ。奇襲って言うならこれ以上ないくらいのがあるけど。とっても楽しいから秘密にしておきたいわッ」
「成功するか?」
「ええ! せっかく私を頼ってくれたんだもの、損はさせないんだから! 有珠希はぜーんぶ私に任せておけばいいの、部品の為でもあるしね!」
再び携帯に耳を当てると、ハイドさんはわざとらしくコーヒーを啜る音を立てていた。
『……聞き終わったか?』
『もしかして全部……聞いてました?』
『知らねえ。だが何だろうな。ブラックの筈なんだがこのコーヒーはやけに甘えよ。んじゃあそっちの方は一任する。俺はI₋nと攪乱作戦を勝手に進めておくから、何かトラブルがあるようならまた電話しろ』
電話を切って、時刻を確認。午後八時。こっちはこっちで勝手にやってくれと言われたが、勝手にやる為に色々と情報を売ってくれるのではなかったか。いや、こちらには頼もしい味方が間違いなく居る。
「マキナ。兎葵が今どこにいるか分かるか? 『愛』の規定人海戦術が引っかかったんだろ」
「あ、んーとね。追われてる最中よ。メサイアの奴等なのかしら、ニオイがそんな感じ」
もう作戦は決行されているか……普段ならこれぐらいの時間帯でも未紗那先輩は監視を外れた俺を探していただろうから、まず間違いなく。他の情報と突き合わせても作戦は実行されている。先輩と出会う前に救出するのは不可能に近い。ネットの地図を出してマキナに大まかな位置を教えてもらったら既に四又池の近くだ。
何なら追い込み漁はほぼ完了していて、そこに付け入る隙は無い。
「…………そうか。じゃあ早速奇襲案を頼む。絶対にバレないってのを信じるからな」
「絶対にバレたくないなら、ここから始めましょうかッ。貴方と二人きりでやるなんて凄く新鮮な気持ち。離れちゃ駄目よ?」
マキナはすっかり病みつきになってしまったような手つきで指を絡ませると、もう片方の腕をゴキゴキと鳴らして悪戯っぽく微笑んだ。
「えい」
何処を見ても人が居る。
私こと羽儀兎葵を追う人間の数は十や二十では効かない。何をしてこうなったかは明白だけど、ここまでするのかという弱音が脳裏をよぎった。否定しないと。息が切れる前に。この力が存在しなくなる前に。
ワープの力を駆使して撒こうにも、私を追う人間はちっとも減らない。きっと遠くから監視されている。俯瞰してんで捕捉されている限り減る事はない。人の少ない方向にばかり逃げているけれど、一向に状況は良くならない。
「…………最悪」
こんな最悪な組織だから、人を殺したなんて噂が立つんじゃないの?
悪態が出る。それでは何も変わらない。出すべきは何の生産性もないような後悔ではなくて、この状況を打破出来るような作戦。作戦。作戦。作戦……を考える時間、が。欲しい メサイアの人達は加害の素振りを見せてこないけれど、それが何より最悪だ。拷問方法は幾らでもある。尋問方法は幾らでもある。見かけが暴力的じゃないのは安心材料にならない。
四又池くらいにしか逃げ場がないと悟り、導かれるように背丈の高い雑草の中へ。暗いし、痒いし、邪魔くさい。片目分の視界で飛び込むには無謀な場所だったか。
「……………………」
―――おかしい。
誰も入ってこない。足音がしない。あんなにしつこかった人間の気配がしてこない。分からない。分かりたくない。分かっても分からない。嵌められたという事実を、認めたくなんかなかった。
「羽儀兎葵。出てきなさい。貴方は我々の手で完全に包囲されました。大人しく投降すれば命は取りません」
冷たい女の声がする。草むらを描き分けるような冷たい声。生気の代わりに殺意が乗った、人を人とも思わない敵意に満ちた警告。そんなものに従うなんてあり得ないけど、無視は出来なかった。私達は初対面だけど、とっくに因縁が出来ている。これを清算しない事には納得がいかない。
「出ていかない。私はわざと誘い込まれただけです」
「それではピンチなのは私の方と。ではそういう事にするとして、一つ理由を聞かせてください。何故襲撃したんですか? 貴方には理由がない……個人情報も見つからない。メサイアはそのような人に何かを下覚えはありませんが」
「………………お前らが、有珠さんを殺したって聞いたから!」
「有珠…………ああ、彼ですか。どういった関係でしょう」
「言わない。言っても分からない。お前等なんかに、私の苦労は分かりません」
「――――――よく分かりました。対話する気はないようですね。では改めて貴方を殺害させて頂きましょう」
あの女の得物は戦槌とナイフ。どれも夜間の草むらを掻き分けるには不便な道具だ。誘い込んだつもりでも、実際問題の地の利は自分にある―――
「ミーシャーナ♪ あーそびーまーしょー?」
連続更新します。
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