傷だらけのシカイ
マキナに対する偽装だとか何らかの不調とかではなくて。本当の意味で心臓が止まる予感がした。
あり得ない。
あり得ない。あり得ない。あり得ない。それ以外の言葉が見つからない。小学生でももう少しマシな選択をする。最早それはある種のアイデンティティでもあった。誰かに理解を求めながら、誰にも理解されないであろうと思い込んでいた。いや、それこそ語弊がある。思い込んでいたのではなくて事実そうだったのだ。
これに理解を示してくれたのはスーお姉さんしか居なかった。そこから何十年と経って理解ではなく利用を示してくれたマキナが出てきた。
未紗那先輩の事は嫌いじゃないが、ことこの部分においては彼女さえも理解者ではない。それくらいこれに対するトラウマと執着は、根深い物だった。
「…………な」
恐怖ではない。単純に困惑しているだけだ。それでも声が出ない。未だに信じられない。数分、いや数時間の間を挟んでも理解出来ない。『逃走』という選択肢を封じたからこそ得た答え……なのだろうか。
「なんで、それを」
「…………」
「―――まさか、お前も。視えてるのか?」
「さあ、どうでしょうね」
兎葵は飽くまですっとぼけるつもりらしいが、非常に不味い予感がしている。仮に彼女にも同じ視界があった場合、それを知る術は今の所誰にもないとしても、メサイア・システムに狙われる可能性が……いいや、そんな事ではない。マキナの関心があちらに向く可能性だ。アイツの好意は知っているが、それは俺の特別性ありきの物であり、他にも同じ視界が居るとなると俺は用済みになる可能性がある。
殺した方が良いのではという感覚に寒気を覚えた。何を言っているんだ俺は。それは人間らしくもない。仮に用済みだったとしても今まで過ごした時間は本物だ。それ以上をねだるのは……我儘だろう。
「そんな事よりも、私に用があるんじゃないんですか?」
「そんな事って……お、お、お前は最初から知ってたのか!? 俺が視えてるって事……いや、そもそもそんな事で済ませるのもおかしい。俺達の他にも糸が視える奴がうじゃうじゃいるのか!?」
「質問が多いですね。そんなの私の知った事じゃありません。それに、全員が糸だとは限らないんじゃないんですか?」
「…………何?」
そう言われて、思い出した。公園でマキナは似たような事を言っていた。
『いい有珠希? 因果の視覚化っていうのはね、人類そのものを俯瞰してるに等しいのよ。この際原因は置いとくとして、貴方の力は貴方に理解しやすいようにされてる。貴方は全く意味分からないとか言うかもしれないけど、貴方という人間にとって最も理解しやすい形が赤い糸なのよ』
俺にとって理解しやすい形がこの形。
共通認識の無い世界だ。俺にとって理解しやすいだけで、因果が何も本当に糸として存在している訳じゃない。飽くまで俺の主観。俺というフィルターを通したらそう視えるだけ。そこに大きな問題があるとすれば、マキナではなくて兎葵から改めてその情報を突き付けられた事にある。
「……確かに用事はあったけど。その前にどうしても気になる。お前はこれが何なのか知ってるのか?」
「これ以上は教えません。そろそろ解放してくれると助かるんですが」
「する訳ないだろっ。お前は自分が何を言ったか分かってない! だって、だって俺は……何年かかって…………!」
ああ、駄目だ。泣きそうになる。こんな近くに同じ視界の持ち主がいたのに気づかないなんて。俺の悩みは唯一無二ではなかったなんて。
くだらなく、情けなく、どうしようもなく思えてくる。早朝から泣き出すなんてどんなに馬鹿らしい阿呆らしい行動だろう。兎葵もやや迷惑そうに動揺している。
「ちょっと、泣かないでください。何か私が悪い事したみたいじゃないですか」
「悪い事したんだよお前は……ちょっと待て! 今……落ち着くから!」
涙くらい出る。嬉しいんじゃなくて、悲しいのでもなくて。何だ。もうよく分からない。理解したくもない。全てを拒絶したい。何もかも分からないままであったのがどれだけ幸せであった事か。
「…………兎葵。そう。本来の用事は……お前が持ってる部品だよ」
「部品……」
「あるだろ、『距離』の規定。隠さなくても良い。とっくに調べはついてるんだ。それを……元の持ち主に返してくれ」
「嫌です」
「―――死ぬぞ」
「有珠さんが殺すんですか?」
「殺せないけど、この交渉がおじゃんになったら俺じゃどうしようもない。そういう約束なんだ。でも出来るだけ人は殺したくない……特にお前は、色々助けてもらったし。だから悪い事は言わない。出来れば……承諾してくれ」
現実味がない話だと自分でも思う。マキナは俺とメサイア・システムを除いてその存在がそもそも認知されていない。目の前で人ならざる所以を視た俺でさえも暫くキカイが何なのかなんて分からなかったし、あれはどう考えてもタダの女の子だ。何処にでもいない美貌は覗くとして。
だが兎葵なら。同じ視界を持つ彼女なら分かってもらえると思ったのだ。現実味も何も、この視界が一番現実的じゃない事くらい誰にでも分かる。こんな朝っぱらから何を頼み込んでいるのだろうと正気が俺に語り掛けて来るがそんなものは邪魔だ。恥も外聞も捨てて、俺にはどうしても頷いてもらわないといけない。
彼女の返答は、淡白なものだった。
「条件があります。二つ」
「何だ?」
「一つ。ここで私と会話した事実を他言無用とする事。二つ。私が指定した場所で落ち合う事。私の話を聞く事」
「二つ…………二つ? 二つ…………?」
「文句があるなら応じません。たとえ殺される事になっても、絶対に渡さない」
「わ、分かった。呑む。呑むから自棄にならないでくれ」
知人に死なれるのは……気分が悪い。俺を殺そうとした手前ノーコメントとしておきたい結々芽でさえ、ざまあみろと言わんばかりの感情は表れなかった。確かに俺は死んでいたし、止めてくれたマキナには今となっては感謝しかないが、それはそれとして複雑だ。只々どうする事も出来ない感情を持て余している。
「それでは、これで…………所で有珠さん。妹は好きですか?」
「ん? また妙な事を聞くな。異性としてって意味じゃないんだろ。なら好きだよ。お前は他言無用って言ったけど、特にアイツには言わないよ。こんな変な話に付き合わせるのも悪いしな」
「………………そう、ですか。つまらない事を聞きました。それでは」
『逃走』ではなく解放された兎葵は自分の足でいそいそと帰ってしまった。無理やりな方法で約束を取り付けた俺にはその背中を見送る事しか許されない。
―――なんで、そんな顔するんだよ。
俺に泣くなと言った癖に。余計な人物を巻き込みたくないと言った途端に、なんでそんな。
泣きそうな顔で、俺を見つめてくるのだ。
「兄さん? どうかしましたか?」
「……いや。今日もお前は可愛いなと思って」
「……!! な、何て! それは! …………お世辞なんて言っても、嬉しくありませんからッ」
朝食を共に迎えた折、何となしに冗談を吹っかけてみても、特に変わった事はない。兎葵と何か訳ありかとも思ったが、牧寧には特別親しくしているような友人はいないらしい。
「……なんか、鮭の味付け前と変わったか?」
「お気に召しませんでしたか?」
「そんな事はない。前より好きだよ。朝はやっぱりさっぱりとした味わいが一番だよ。後味が悪かったら学校生活にも支障が出るからな」
それくらいしか誉め言葉は出なかったが、妹は得意げに髪を手で靡かせて上機嫌に目を瞑った。
「……兄さんの好みの味が、少しずつ分かってきたような気がします。これからも定期的に味を変えていきますが、お気に召さないのでしたらどうぞ遠慮なく。兄妹として忌憚のない意見を」
「……いやほんと、有難いんだけどさ。両親と那由香から何か言われないのか? 俺の事」
「他に家族との時間も用意してあるのでそこはご心配なく。ただ私は……やはり兄さんと過ごす時間が一番楽しいかもしれません。さて、それでは兄さんに問題です。何故私は楽しいのでしょうか」
「お前が意外とお気楽だから」
「ぶぶー。正解は―――兄さんが私にだけは普通に話しかけてくれて特別な感じがするからですッ。少しイジワルでしたか?」
何も変わらない。
牧寧はいつも通りだ。俺に対してやや甘えん坊な側面があるだけの人間。兎葵が気に掛けるような要素なんて何一つ、ない。
―――よな?




