いつだって、最愛の
キカイに唇を奪われた経験はあるだろうか。俺は無いし、今後も起こり得る事はない。最初で最後の事故であり、幸運であり―――理不尽。
「んぅ……! マキ……んく」
楠絵マキナはキカイだが呼吸をしている。互いに口を塞いで息苦しくは無いのだろうか。無いだろう。彼女のそれは気分に近い。背丈の高い雑草に囲まれて、俺達は長い間唇を交わしていた。
「……んッ。スキ。スキッ!」
息継ぎが来たかと思えば、また即座に次が来る。『強度』の規定で物理的に脳みそを蕩けさせているのかと思ってしまうくらい何も考えられない。淫靡に、無我夢中に、俺をも求めるようにマキナは唇を交わす。
本気で抵抗しようという気は起きない。何故なら俺にこいつを拒絶する勇気なんてないから。ただ純粋に好意を示してくれるような女の子をどうして無碍に出来るだろう。しかし流石に息苦しいので少し距離を取ろうと体の間に手を突っ込んだら、胸を鷲掴みするような形になってしまった。そのせいでマキナは頬を染めて心音とは思えない駆動音を鳴らすようになり、俺も俺でそこから一歩も動けなくなってしまったので、事実上両手を奪われた状態で接吻は続いた。
今が何時かを確認する術はない。夜空を覆う熾天の檻さえ今はどうだっていい。視界にはマキナしか映らない。糸一つない綺麗な存在しか、心の安らぐモノしかない。体感で三〇分。草むらをゴロゴロと転がりながら何度も何度も何度も何度もキスを交わして、それでようやく彼女は満足したように身体を離した。
―――ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
俺の心臓も、共鳴しているかのように騒がしい。多分彼女にはこの音が聞こえていた。聞こえない訳がない。
「有珠希は、私の事がスキ?」
「…………嫌いじゃない」
「スキかキライか、よ! 教えて!」
ああ、今は誰であっても……特に兎葵には気が付かないで欲しい。散々探して見つからなかったのにこんな場面で見つかったら俺はどんな気持ちであの子を追えばいいのだ。
―――変な事、言うんじゃなかったな。
本音を言っただけでマキナが暴走してしまった。これからは努めて気を付けなければ身体が持たない。
「す、好きだよ」
「ホント?」
「本当」
「………………私もスキッ」
部品探しは何処へやら、強烈で熱烈な好意をただただ受け止めてやるしかなかった。感情を持て余しているとしか言いようのないくらい今のこいつは暴走している。触れた事のない未知の生物に出会ったかのようだ。ぺたぺた身体を触ってくるのもそれっぽさを増している。
「な、なあマキナ。その……こういうのはまた帰ってからでも。兎葵を探さないと」
「それはもういいわ! 対策を考えたから」
「ええ……じゃあ探してた時間何だったんだよ」
「探してる内に思いついたのッ。こういう手合いは探すより見つけさせる方が楽だなって。だから有珠希の努力も無駄じゃないわ。貴方と一緒に居なかったら思いつかなかったし…………一緒に居られたから、キスしちゃった……♪」
改めてそう言われると気になってしまい、唇を触り直す。全人類で俺だけが味わったのではないだろうか。キカイとのキス、または女の子との口づけ。
―――や、柔らかい。
アイドルと握手した手を『洗わない』とする表現があるが、これは洗ったとしても忘れられそうにない。同じ手で言うなら胸を掴んでしまった感覚も、生きてきた中で味わったことのない感触に脳髄がバグを起こしている。
自分の感情を見せつけてくるマキナとは対称的に俺は隠してばかりだ。でも恥ずかしいから仕方ない。そんな経験はないのだし。
「……初めて、だったんだぞ……!」
「私も初めてよ? ファースト・キスの交換ね―――うふふふ♪ 有珠希って可愛いのね。今日はすっごく得した気分ッ」
「う、うるさいな! 満足したならさっさと離れろ! どんな対策かは知らないけど、俺は用済みなんだ。帰るからなッ」
「送ろっか?」
「へ?」
時刻は十二時くらい。いつも後数時間は外に出ているのを考慮すると、早いくらいの時間である。だからと言って体力に余裕はない。マキナとの触れ合いに全てを費やした。その申し出は有難いが気のせいだろうか、コイツとの前後のやり取りを踏まえると俺に触る口実を作りたいだけのような……。
「―――危ない方法で送るのはやめてくれ。投げるとか、無しだぞ」
「うん。投げない投げないッ。ちゃんと部屋まで運んであげるから」
そう言ってマキナは俺の身体に触ると、雲を持ち上げるように軽々と抱き上げた。
「ニンゲンって軽いのね。持ち運んだら寒さを凌げそう」
「俺はカイロか。それにお前は寒さを感じないんだろ」
「安心して? 有珠希以外を運ぶ気は無いからッ」
「答えになってな―――」
言い終わるか言い終わらないかの内に、重力と空気の幕が俺の口を塞いだ。
マキナがビルよりも高く跳び上がったのだ。
「ここが有珠希の家なのね」
「記憶の捏造を辞めろ。何回か来てるだろ」
時計が十二時を回ったので、携帯の日付的には二十二日。ただし体感ではまだ眠っていないので明日は訪れていない。そういう感覚の人間は俺以外にも居ると思うのだがどうだろうか。妹は恐らく俺を待っていたと思われる状態から崩れるように眠っていた。窓の鍵は開いていたのでそこから侵入し、自分の部屋へ。
風呂に入るのも怠かったので『清浄と汚染』の規定で今日一日の汚れを落としてもらった。キカイはこういう時に便利で、一人だけSFの世界に迷い込んだようだ。
「…………で、まあ。世話になっといてあれなんだけど。何でついてきた?」
身を翻すと、そこには後ろをぴったりとついてきたマキナの姿がある。室内なのでコートを脱いでおり、中に着ていたリボンタイフリルのブラウスが露わになった。最早今更な話だが、その衣服の下は裸体である。寒さを感じないだろと言ったのはそういう所だ。
「ヒト肌が恋しいって言うでしょ。今日は有珠希とイケナイ事しちゃったから、私もそうなっちゃった。今日だけ隣で寝てもいいかしら?」
「なあ。状況分かってるか? ここは俺の家だぞ。お前が寝てたら家族になんて説明する? あ、これはキカイです気にしないで下さいで何とかならんだろ。ポンコツこら、少しは考えろ」
「扉を固めるとか?」
「異変過ぎるわ。未紗那先輩すっ飛んでくるぞ」
「じゃあ殺さないと」
……駄目だ、コイツ。
でも今のマキナは何を言っても離れようとしないだろう。むしろここで無駄に言い争えば妹を起こす可能性が……家族全体まで起きたら最悪だ。
「分かった。分かったよ。ただ、布団から身体を一部分も出すなよ。出したら蹴っ飛ばすからな」
「それでいいわッ。貴方の身体から離れなければ大丈夫よね!」
部品探しはマキナの本懐である筈だ。糸を視界から消すのも俺の本懐。何故だろう。俺はまだしもマキナの方は、己の部品を探すよりも生き生きしているような。気のせいだと……思いたいが。寝間着に着替えて風呂に入った風を装った俺は布団の片側を開けてマキナを迎え入れる。寝る姿勢にして放置するとまたよからぬ事をするだろうから、先んじて両手を繋ぎ、身体の距離を作った。
「……私。キカイは夢を見ないんだけど」
「おう」
「今日は良い夢、見るかも」
銀色の瞳を俺の顔に向けてから、彼女はゆっくりと目を閉じた。数分数えて寝息が聞こえた頃、誰にも気付かれないように俺はそっと片手を離し、マキナの腰を抱き寄せた。




