幻影考察
「別に不思議な兆候は何も…………ただ、今から考えると妙な風潮はありましたね。よく分からないというか、よく分かりません」
「言い切っただけじゃないか」
「だって今考えても……よく分からない。当時の風潮が欠片も残ってないのもおかしいです。わざわざ説明しなくても分かると……」
「…………ん?」
分からねえから聞いているんだ、と言い返そうとしたのに、言葉が直前で止まって喉に詰まる。暫く妙な硬直があったが、兎葵は改めてその妙な風潮とやらについて教えてくれた。
「死ななくなってたんです」
「は?」
「うん。そうなりますよね。でも本当です。あの時期は誰も人間が死にませんでした。その筈だったのに、何か色々な人が急に同じ人間を怪物と判定して殺そうとしてきたんです。それで死なない筈だったのが死ぬようになって……それだけです。変な事件でしょ」
何も知らないまま同じ事を教えられたら確かに首を傾げていたかもしれないが、この世には物理法則を決める側の存在が居る事を今は知っている。何か言い忘れたのか、それとも隠しているのかははっきりしないが、マキナなら分かる筈だ。不可解な現象の先には決まってアイツが居る。今回に限って言い訳はさせない。人間に物理法則は変えられないのだから。
「……分かった。有難う。それと今回の変な噂は関係無さそうだな」
「元々貴方との接点なんて……ありませんから。ていうか私は何しに来たんでしたっけ。分からなくなったので帰ります。くれぐれも噂にはお気をつけて」
「気を付けるも何も、俺がどうにか出来るならとっくに止めてるが」
「どうこう出来ないから、町中で悪人扱いですよ」
………………。
「え、もしかして結構まずいのか?」
「飽くまでまだ噂ですから、命の危険までは。でも絡まれると思いますよ」
そう言い残して兎葵は去っていった。十分ばかりの間を挟んで保健室に未紗那先輩が入ってくる。
「式宮君。まだ一時限目は終わっていませんが、C組が引き受けてくれるそうなので次限からはそちらへ」
「……先輩。俺の噂って、もう町中に広がってるっぽいんですけど……これ、普通じゃないですよね」
兎葵の事は伝えていない。関係性を自己申告して話をややこしくしたくなかった。開きっぱなしな窓に視線を送ってから未紗那先輩は保健室に鍵を掛ける。ついでのように窓を閉めて、そこも鍵をかけた。短めに履いたスカートを翻し、彼女の双眸が俺を捉える。
「恐らく、部品の力ですね」
「『噂』の規定ですか?」
「正式名称はともかく。組織からも噂が確認されています。キカイの仕業とは考えにくい……ような。そうでもないような。協力者の立場としては如何ですか?」
「メリットがない……と思います。マキナは俺の心臓を握ってる訳ですし。とっくに生殺与奪を握ってるのにまだ追い詰めるとは思えない……でしょ」
それにアイツはそんな部品があったとしてもまだ回収していない。隠し持っていたとしても兎葵まで対象に入れているのが本当に分からない。だから違うと思う。アイツの人間性を考慮した考え方は先輩に賛同されないので省いたが。
「そうですか。君はそう思いますか。なら大丈夫なのでしょうか。私の考えすぎならそれでいいのですが……」
「何か危惧が?」
「心臓をどうにか取り返せば君には従う理由が無くなるとして、そこを踏まえた保険という可能性もあります。現実で行き場を無くせば貴方はキカイしか縋れなくなるだろうと。そういう魂胆なのではと」
言われてみると、あり得ない話だが戦術としては悪くない。相手に依存させてしまえば細かい手間や心配は全て放棄して良くなる。問題があるとすればマキナにそこまで考えが及ぶ程の悪性はない(部品を拾われる事について全く考えていなかったようなポンコツだ)し、俺は意思が強い様でとても弱い人間なのでそんな回りくどい事をしなくても色仕掛けをされたらほいほいついていく気がする……客観的に自分を見た評価だ。悲しいかな、マキナが可愛いのが悪い。
「どうすればいいでしょうか」
「暫くは外出を控えるくらいでしょうか。しかし登校時のようにどうしても外へ出なければいけない時は…………仮面でもつけてみますか?」
「それはそれで怪しい人ですね。でも背に腹は代えられないんでしょ? だったら出来る限り普通のお面でお願いします」
「デスマスク……」
「普通のお面って言いましたよね?」
今に限った話ではないのでもう気にも留めていないが、今日も授業には集中出来なさそうだ。テストの結果とか、最近はあまりよろしくないから少しは真面目に取り組まないといけないのに。
―――勉強の意味ってなんだろうな。
学生によくある、勉強したくないが為の哲学ではない。この世界のシステムが狂っているから、善人の声一つで俺の就職にしろ進学にしろ台無しにされるような世界だ。たくさん勉強して良い大学に入りたいとか、給料の良い会社に行きたいとか高い志は結構だが、それが一体何になる。
この風潮を迎合しなければまともに生きられない世界で、まともに生きるなんて思えない。俺の中ではまともな就職先にメサイア・システムが生まれつつある。英語くらいは頑張らないと駄目だろうか。
そうだ。俺は先輩とのデートの時にこの人に言ったじゃないか。将来なんて考えてない。考えてないのに、勉強だけはやろうとする意味は何だ? 目標の無い勉強に意味なんてあるのか?
「…………未紗那先輩」
「はい?」
「もし俺がメサイアで働きたいって言い出したら、先輩は勉強教えてくれますか? 英語とか」
「それは勿論! こう見えても私、他人のお世話をするのが好きなんですッ。特に君みたいな可愛い後輩のお世話は何年したって大丈夫ですよッ」
「こう見えてもっていうか、そうとしか見えないんですけど」
「ふふ、そう言ってくれると嬉しいです。君が居てくれるなら何も要らない……そこまでは言いませんが、君に褒められると凄く嬉しいのは何ででしょうね」
二時限目以降は変わった事もなく、昼休みになった。
事実上のクラス替えに新たな友達が生まれるかもと別に期待はしていなかったが、案の定、噂の影響で俺に話しかけようとする奴はいない。ひそひそと話題に上がるばかりで、本人が居る癖にちっとも真偽を確認しない辺りが彼等の本性だ。
これが善人なんて笑わせる。どうせ悪人扱いされるならと俺は机を蹴るように立ち上がって屋上に逃げるように歩いていった。
「居心地……悪い」
なんだかんだで以前のクラスは俺に対して寛容だったのだと思い知らされる。だからどうしたという話だが、結局孤立して間近でデタラメな噂を耳にするくらいなら家に帰ればよかった。妹とダラダラ喋ってればその内夜になるから、その方が絶対にストレスも無くて。
「…………はあ」
屋上は俺一人の楽園ではない。何やら水彩画を描く先客がいるが、関わって来ないどころか恐らく気付いていないので全然マシだ。妹から渡された弁当を開けると、心を無にして掻っ込む。
―――先輩誘えばよかったかな。
でも、あのクラスにも未紗那先輩のファンは多いから余計に軋轢が生まれるか。カガラさんが居てくれるなら呼びたかった。あの人はつかみどころこそないが友人としてはマシな部類である。のり弁を半分ほど食べた所で絵を描いていた青年が道具一式を鞄に入れて立ち上がる。
「くれぐれも死なない様に。火のない煙は延焼すれば火元がなくて手が付けられないからな」
まるで俺に向かって話しかけているような独り言を残して、去っていった。




