救世主気取りの癖に、自分も救えないのか。
オーケー。それでは忘れている人も居るらしいので、もう一度説明しよう。特に俺は言う瞬間まで忘れていた。
救いようがないという言葉は基本的には許されない禁句だ。救いようがないというのは死体だけが許される概念であり、何故死体が救えないのかと言われたら助けた所でお礼など言わないからだ。見返りの無い善行を善人は嫌う。この見返りというのはお礼一つでも十分だが、死人に口なし、死んで肉の塊となればそれさえ言えない。だから助けない。助けられない物は認識出来ない。この世界はとても単純化されているので、取り敢えず誰かを助けられるなら善人判定してくれる。善人しか居ないしそれらは助け合いの精神で繋がっている以上、手遅れな存在は見えていては都合が悪い。
だから、駄目なのだ。
救いようがない人間が存在して良い訳がない。
かつては遥か年下の子供に言い放って酷い目に遭ったが、今度は自分に向けて使った。どうしても手を伸ばしてほしくないからと完璧に拒絶した。するとどうだ。教室全体が黙り込み、その糸に変化が生じた。
白い糸と青い糸が絡んでいる。視えない力が糸を半ばから引っ張り、繊維を紡ぎ直し、二重螺旋を描くようにつなぎ直されている。かつてはこんな光景を見た覚えなど……いや、あのとき青い糸は見えなかった。マキナはこれの正体を『選択肢』―――未来としていたが、それと『現在』を示す白い糸がこうして螺旋を描くのはどういう意味を持っているのか。
許されるならじっくりと観察したいが、本能が危険を感じている。人数に反して冷え切った空気に冷や汗が止まらない事なんて当然だと言わんばかりに。
「…………嘘だ」
「…………嘘だ」
「嘘だ」
「嘘だ」
「嘘だ」
「嘘だ」
口が揃う。視線が纏まり糸が絡む。歯が軋み、不安定なリズムで足踏みが鳴っては涙を流す。それは何かの儀式の様で、単に集団が目の前で狂っただけの錯覚とも言う。この瞬間、クラスメイトに個性は無くなった。男性も女性も身長も体重も髪の色も制服のよれ具合も関係ない。それが人間の基準であると証明するかのように、当たり前の如く、全員が全く同じ動きをしていた。
「…………」
人間の癖に人間の基準から外れようとする代償で、俺もおかしくなっているのかもしれない。恐怖を感じなくなっていた。しかし困惑はしていた。マキナは己をキカイと称するが、これではどちらがキカイなのか分かったものではない。余程彼等の方が統制されていてキカイみたいではないか。
「嘘だ」
「救えないなんて」
「救われないなんて」
「あり得ない」
身体を縛られていた椅子を持ち上げられる。肉体的に言えば俺も十分成人男性くらいの体格はあるが、数的有利に多少の重さは関係ない。文化祭さながら、クラスメイトの共同作業で身体が浮いている。
「お、おい。何するんだよ」
「そんなものは」
「いない」
窓が開く。そこで俺の身体がこれから起こる出来事を先んじて体験。それはまるでビルの端に立ってみるような、身体を包むもどかしい感覚。途端に全身を悪寒が奔る。
「マジか。おい。おいおいおいおい。待てよおい。待て。待て待て。待て待て待て待て待て待てま―――ッ!」
椅子に縛られたまま宙を舞ったのは、初めてだ。
救えない存在などいる筈がないと、クラスメイトは俺の存在を拒絶した。その結果があの二重螺旋だと理解する頃には、当の昔に椅子は落下して俺の身体もコンクリートに。
「…………あれ」
打ち付けられない。全身を打って死亡するものとばかり想定していたのに、落下の衝撃どころかまだ宙に浮いている。
「―――大丈夫ですか?」
「……先輩?」
椅子が丁寧に降ろされる。馬鹿力でロープを引きちぎった未紗那先輩はそのまま拘束を外すと、俺が手を出すのを待つように先んじて手を伸ばしていた。
「怪我は無いようですね。ギリギリ間に合ったって感じですか」
「いや……あの。今はその手を、取れないです」
なのでこの両手は地面に突く。彼女は自分の掌を窺って怪訝そうに首を傾げた。
「ちゃんと手は洗いましたよ?」
「そういう話じゃなくて! そこの窓から見てる人に……お前等じゃどうやっても救えないって言っちゃったんで。先輩の手を取るとなんか―――まずくないですか」
善人は一括りにされている現状で、俺が更に細分化してしまうのは避けたい。最早仲直りなど不可能と知った上で、先輩に迷惑は掛けたくない。
今や学校中が中庭に放り出された俺と助けに来た先輩に注目している。
全方位あらゆる窓から教員と生徒が見渡している。どんな状況であってもこの中心に居るのは恥ずかしいが、ここで出来る無難な選択は現状を膠着させるくらいだ。俺に言われて未紗那先輩も窓に視線をやる。納得したかのように頷いてくれた。
「成程成程。しかしですね式宮君。君は一つ勘違いをしていますよ」
「勘違い?」
「君が危惧しているのは私と他の人とで区別する事でしょう? 確かに只事ではありませんね。しかし火種を作ったのは君ではない筈。私も教室で君の噂を耳にしました」
「え? ……あの先輩。俺、やってないですよ!」
「そこは勿論信じています。キカイに脅されてる君にそこまでの自由があるとは思いませんから。それと……いえ、これは良いでしょう。ともかく発端が別にある以上、私には先輩としても職務としても君を助ける義務があります」
もう一度、手を伸ばす先輩。俺にはまだ、決心がつかない。
「……まだ不十分ですか?」
「貴方に迷惑を掛けるのはちょっと……ただでさえ、色んな事に対応しないといけないのに」
「生まれただけでも人はある程度場所を食ってしまうんですから、その程度の事は気にしないで下さい―――――丁度いい時機ですから、少し本音を語りましょうか」
「本音?」
「ええ。君にだけ特別ですよ」
手を伸ばすのはそのままに先輩はしゃがみこんだ。俺と目線の高さを同じにして、視線が合ったらニコっと笑ってくれる。
「君は私の事をどう思ってくれてますか?」
「ど、どうって……優しくて、美人で、頼れる…………人」
「ふふ、ありがとうございますッ。面と向かって君にそう言われちゃうのは照れますね。しかしそう思ってくれているなら今から君に迷惑を掛けるでしょう。これでお互い様なので気にしないで下さい」
「め、迷惑って―――どんな?」
「私、どんな人でも困っているなら平等に助けてきたつもりです。それがメサイア・システムの信条、『人類を独立させたまま運営』する事にも繋がっていますから。それを徹底してきたつもりです。でも今は―――不平等に君を助けたい。だからこの手、取ってくれませんか」
今も俺達のやり取りの行方を全校生徒が見守っている。未紗那先輩にも助けられる筈はないという思いがあったり、なかったり。いや、もうそういう考察はどうでもいい。
「……ずるいです、先輩。そんな風に言われたら、断れないじゃないですか」
「お嫌いですか?」
身体を支えていた手を動かし、ゆっくりとその手を取る。
この日から俺達は不平等に助け/助けられ、
世界の法則に仇なす共犯者となった。
「―――嫌いな訳、ないでしょ」
お尻の砂埃を払って、周囲を見渡した。
事情を知らない他のクラスは単に先輩を称賛していたが、救いようがない存在を拒絶した俺のクラスはというと―――
お化けでも見たような真っ青な顔で、敵意も殺意もない無気力だけが伝わる怠惰な視線が集っていた。




