今の一時はただの友達
「お洒落って……言ってもなあ。なあ牧寧。どう思う?」
家に帰って早々、俺は妹を呼び止めて相談を持ち掛けた。あれから二か月、模範的な生活を送ってきた影響で妹との仲は以前よりも親密になった。目に見えて距離感が変わった訳ではないが、強いて言うなら今もちょくちょく俺の部屋で眠りに来る事くらいか。
一応というか―――マキナ以外の全てに糸は見えるが、そこは長い付き合いだ。何とも思っていない訳ではないが、過度に見る事がなければ取り乱す事もなくなった。自分にまた糸がくっついていたら、流石にまた発狂するけど。
「兄さんは着飾らずともかっ……コホン。お洒落したいなんて、珍しいですね。どうかしたんですか?」
「訳あってお洒落しないといけないんだ。でも……ほら。俺の服って適当だろ。自分で買うような事もしないし、仮に今から買いに行ったとしても十数年磨かれなかったファッションセンスは化石も同然だ。クソダサいチョイスとクソダサいチョイスが混ざって最強に見えるかもしれない。だからお前に……相談を持ち掛けてみたんだけど」
「やめとけやめとけ! お前に似合う服とかねーから!」
「お父さん。何もそんな事実を言わなくたって……あはは」
「二人は少し黙っていてもらえませんか! 私を助けると思って」
リビングでこの話をしたのは失敗だったか。那由香は野次こそないがじっと俺の顔を睨みつけてそれとなく意思を伝えてくる。あまりにも交流がないので俺達を兄妹と言っていいかは分からないが、こうして手に取るように伝わってくるとやっぱり兄妹なんだろうなあという思いが浮かび上がってくる。
残念ながら、大好きな姉とやらにはもう少し聞きたい事しかないのだ。
「ファッションセンス、とは言ったものの、感覚的な話に正解はありません。好きに着替えれば良いと思います」
「でも、ジャージは駄目だろ」
「兄さん? それは駄目とかそれ以前にやる気を感じられないんですよ……それと、別に怒ったりしませんから、素直にデートと言ってくれればいいものを」
「いやだってデートなんて言ったら…………」
「それ以上は言わなくとも結構です。兄さんを取られるのは何だか悔しい気もしますが、他ならぬこゆるちゃんですからね。ええ、ええ」
―――ん?
何か妙な勘違いが妹の脳内で横行している。
「……え? こゆる……こゆる、こゆる!?」
無言に耐えかねた那由香が割って入るように叫ぶ。ほぼ同時に両親が目を剥いて俺に詰め寄って来た。
「何だと!? 有珠希お前! あれだけ他人様に迷惑を掛けるなと言っておいたのに、まさか芸能人に迷惑を掛けるなど!」
「ああどうしましょう。じ、事務所に電話? 謝罪? 菓子折りを……ええ、そんな暇ある?」
「三人とも、兄さんが部屋に戻るまで発言を禁止します。私を助けると思ってどうか従ってください!」
善意につけこんだ強権に抗う術はない。最近の妹はやたらと強気だ。これが本当に『お化けが怖いから』とか『友達に怪談話をされて眠れないから』という理由だけでベッドにのこのことやってくる妹の姿だろうか。ギャップが激し過ぎるし別に萌えない。単純に困惑している。
いや、それ以前に。
「な、波園さんとデート?」
「兄さんがわざわざそんな事で悩むくらいなんです。考え得るのはこゆるちゃんとのデート以外ありえません。なんてったってトップアイドルとのお忍びデートなんですから」
そういえば、何故かは良く分からないが牧寧は俺とこゆるさんが交際していると思い込んでいる。新曲のタイトルに始まり、俺の好きな色を着ているからだとか、胸が大きくなっているからだとか、もう色々無茶苦茶だ。こゆるさんの事になるとこの妹の知能指数は一〇〇くらい下がっているのではないか。
大体、俺達の接点を作ったのは規定だ。どいつもこいつも『愛』の規定(なのはマキナからちゃんと答えを聞いたので間違いない)に引っかかって頼りないから俺に白羽の矢が立ってしまったのだ。危うく死にかけたし、何なら周辺にも甚大な被害が出るところだった。
あれ以降、こゆるさんと出会った事はない。あんな近くに居ると忘れてしまいそうだが、妹も言ってくれたように波園こゆるはトップアイドルだ。俺の家が都心にあるならともかくそうでないなら早々会いに来られる訳もない。そもそも会いに来る理由がない。お互いに。
波園こゆるは『愛』の規定に悩まされる事がなくなり。
俺は『愛』の規定を回収した。
そうするだけの理由があるから守っていただけで、もうその理由は何処にもない。ファンならあれが一夜の幻想に過ぎなかったと諦めるなんて出来なかっただろうが、元より興味のない俺には関係ない話だ。妹が勝手に色めき立っているだけ。
「……因みに。因みにな。お前が俺と波園さんを恋人だと思う根拠を今日も聞かせてほしい」
「百聞は一見に如かずと、SNSをご覧になれば明白だと思いますけど?」
SNSは……やっていない。携帯を取り出そうとするよりも早く妹が自分の携帯を渡してくれた。画面にはとっくにこゆるさんのアカウントが表示されており、本物証明と言わんばかりにとんでもない桁数のフォロワーが表示されていた。一瞬で数えられない。多分一千万。
「…………この写真」
気になったのは一枚の写真だ。文面では『大切な友達と撮った一枚!』としてボカシを入れているが、どう考えてもこのツーショット写真は俺が片割れを務めている。続く文面にはもっと撮っておけば良かったとか、また会いたいとか。牧寧が誤解するのも無理はないような文章が続いている。
その他にも『四月に贈りたいから』という謎の名目でファンに向けて男性が好きな仕草やプレゼント、髪型、服装、色、趣味など、様々な質問をぶつけていた。推しに頼られているのがそんなに嬉しいのか、勘繰ったり苦言を呈する様子もなくちゃんと意見を出している。
理想的な大衆の使い方と表現すると聞こえは悪いが、ファンを嫌いなりに向き合い方を見つけたようでそこは嬉しい……何でかは分からないが。
「―――良く分かった。もうそういう事でいいや。内緒で頼む」
「はい。徹底します」
この勘違いを解こうとした俺が間違っていた。どうせなら利用出来る所まで利用しよう。こゆるさんと再会することは金輪際あり得ないし、この嘘がバレる日は来ない。
「で、話は戻るんだけどどんな感じのがいいと思う? 参考までに聞いておきたい」
「兄さんの服は絶対数としてそもそも少ないですから。髪が短いのに髪の毛がある程度必要な髪型を試してみたいと言うようなものです。こゆるちゃんの隣と考えるなら……目立たない服装であれば良いのでは?」
「無難なアドバイスだな」
「完璧を目指すには選択肢が少なすぎるんです。でも、大丈夫です。無難で済むならこゆるちゃんだってきっと何も言いませんよ。もしも嫌われるようなのでしたらそれはそれで」
牧寧は意地悪な笑みと共に、俺の手を握った。
「兄さんの良い所を知ってるのは、私だけだったらいいのに……なんて。ふふふ」
悩みに悩んだ末、ダウンジャケットを着てジーパンを履く事になった。これでも精一杯考えたのだが、華やかさなんてものはない。俺なりに頑張ったので先輩も認めてくれると信じて、夜八時に外出をした。
「……またやらかした」
これは別の意味で時間にルーズだと自虐をしたい。待ち合わせ場所も決めてなければ時間も決めてないとは何事だ。悪いのは俺だけ? 未紗那先輩にも責任がある? だが別れた直後の、うきうきるんるんと擬音が鳴りそうなくらいご機嫌な背中を見せてくれた先輩に非を問うのは男として致命的に間違っている。
デートと言えば駅前という浅い発想でやってきたが、先輩の姿はない。カガラさんも居なければ超さんも居ないし、マキナは論外。そもそもここに来るかも分からないので、待っていていいのかも自信がない。
デート前に糸のストレスでぶっ倒れる事がないように眼を瞑ろうとすると、俺の身体よりも早く何かが視界を塞いでくれた。
「だーれだッ」
「…………未礼紗那先輩」
「正解ですッ。待ち合わせ場所を指定した覚えはないのによく分かりましたね!」
視界を覆う手が消えて、三種類の糸が無数に出現する。それは振り返った所で変わらないが、代わりに、目隠しクイズの誤答を疑うような一顧傾城の美人が佇んでいた。
未紗那先輩はチェックのリボンブラウスに黒いマキシ丈のロングスカートを履いており、在校中は肩に流していた髪を一つ結びに纏めていた。普段の先輩からは想像もつかないくらい―――否、想像を絶するようなお淑やかさだ。とてもとても顔を踏み潰したりキカイに喧嘩を売れるような人とは思えない。
あまりの可愛さに眼を逸らすも、先輩はやはり先輩で。逸らしたと同時に入り込んでくる。
「どうですか、式宮君。いつもの先輩とは違う姿に驚きましたかッ?」
「え、ええ…………まあ」
「むむむ。反応が悪いですね。そう目を逸らしたりせずに、何か言う事があったりしませんかッ?」
だるまさんが転んだをしているかのようだ。目を逸らす度に先輩が視界に居て、入る毎に距離が近づいてくる。攻略法が見つからないあまりに惰性で繰り返していたら胸の先端が当たってしまうくらいの距離まで接近を許してしまった。
「…………うう」
―――絶対この人、風呂入ったよ。
髪の毛からナチュラルな香りがする。頭がくらついて、意識が昏倒してしまいそうだ。こんないい匂いがするなんて聞いてない。マキナが無臭だったのはキカイだからか。
「と、とても可愛いと思います」
「……よろしい♪」
まだ待ち合わせをしただけなのに、未紗那先輩の笑顔はたえず賑やかだ。出来るだけ意識はしないようにと努めて来たのに、そんな嬉しそうな顔をすると一歩引いてみようとする俺が馬鹿みたいで―――段々、デートという言葉の意味を至近距離で理解するようになっている。
「式宮君も、約束通りお洒落してきましたね。かっこいいですよ?」
「………………」
「おや、式宮君。どうかしましたか?」
「―――褒められるのに、慣れてなくて。糸の話、先輩にもしましたよね。俺、基本的に糸は見てるだけで気持ち悪くなるので、こういう機会に恵まれなかったんですよ」
「成程。そういう事でしたか。なら式宮君のデート服を初めて見たという事になるんでしょうか。それはそれで役得ですねッ。後輩の可愛い側面も見られて一石二鳥とも言えます」
「そういう先輩は経験豊富で羨ましいですよ。精々エスコートしてください」
「いえ、私も初めてですよ?」
自暴自棄になりかけていた思考が強制的に切断される。初めて先輩が俯いた。
「…………え」
「―――だから、お互い初めてなんですって。君とのデートが嬉しくてちょっと舞い上がっちゃったと言いますか。ま、まあ初めてが水着でないのは幸運でした。流石に少し……恥ずかしいですから」
「先輩、水着を着てくれるんですか?」
「冬は着ませんよ!? …………えーっと。式宮君は水着、見たいですか?」
「かなり興味があります」
存在しない眼鏡のブリッジを持ち上げる。さっきとは一転して離れようとしたが、とっくに手を繋いでしまったので離さない。
「う………こ、困りましたね。それでしたら、今回だけと言わずこれからも……デートを。それ次第では水着を着る事もむにゃむにゃ―――ああ! ごめんなさい。今までの発言はなしでお願いします!」
「無理なんですけど」
「駄目です駄目です。後輩にいいようにされるなんて先輩としてのプライドが許しません! ええ、そうですとも。誘った手前、今日は私がリードするんです。ですから今日は徹底的に親睦を深めましょうッ」
強引に話を打ち切り、先輩が俺の身体を引っ張った。その剛力にされるがまま、腕を引かれていくといつの間にかぴったり肩を寄せ合って互いの腕を組んでいた。
「先輩。流石に距離、近いと思うんですけど」
「親睦を深めるには継続的なボディタッチが有効だと上司から聞いた覚えがあります。が、我慢してください。間違っても腕は捥いだりしませんから!」
え、脅された……?




