狂執の結実
「どけええええええ!」
全部、全部全部この糸のせいだ。俺だって周囲の人間にナイフを振り回すような危ない人間になりたくなかった。でも仕方ないのだ。こうでもしないと規定が手に入らない。穏便に、安全に、誰も死なずに済ませたいと思うくらいいいだろう。『傷病』の規定を力ずくで回収しようとして何人が死んだ。あんなのはもうごめんだ。何処の誰とも知らない自殺は止めようがないとしても、せめてこれくらいの被害は抑えたい。
規定者が殺しに来ているなら話は別だ。俺だって死にたくないから、それはもう和解のしようがない。しかしこゆるさんは明らかに規定を使いこなせておらず、その異常な力に自身も被害を被っている。こういう人を殺すのは、善くない。
「近づいた奴等、全員殺すからなあああああああ!」
声で圧して、白い糸を切る。ついでに青い糸も切っているが本当に効果が良く分からない。害がないので一緒に切っているだけ。何のメリットがなくとも糸は見ているだけで吐き気がするので切断されてくれるとほんの少しだけ気持ちがいい。
俺のナイフ捌きは素人のそれだが、白い糸が強制的にあらゆる行動をキャンセルさせてしまうせいで、見た目以上の効力がある。キャンセルはマキナ曰く『自発的』なので―――言うなれば自発を誘発させている。自ら動きを止めてあまつさえ近くを刃物が通り過ぎるなんて想像するだけでも肝が冷える。相手が素人なら効果覿面だ。
「波園ちゃんを返して!」
「きゃ……いやっ!」
「触るなっつってんだろ!」
マキナや未紗那先輩がどんなに強い存在だったかを再確認する。俺には人間一人満足に守る事も出来やしない。せめてもの保険として片手を繋いでいたのが功を奏した。反対側の手を抱き込もうとした中学生を蹴り飛ばし、あわやの所でこゆるさんを抱きしめる。
「大丈夫か?」
「………………ッはぃ」
蹴ったのはお腹なので許して欲しい。そしてこれに懲りたようなら俺を追わないで欲しい。糸の力でどうにかなっているだけで人海戦術は基本的に覆せない。頭上を切ってばかりだから今は安全かもしれないが、少しでも身長の高い人間が混ざったら俺はどうするつもりだろう。うっかり刃物を肌に滑らせれば致命傷だ。
襲い掛かってきては勝手に停止する人の波を力任せに掻き分けると、そこは表通りだった。偶発的な物ではない。俺が狙っただけ。人の壁が明らかに裏へ誘導するような意図を感じたので敢えて表へ出てみた。こちらには立て籠もっていた俺達に向けて脅迫をしてきた三人組が居るものの、来るのは想定外だったらしい。拡声器以外に何の準備もしておらず、奴等は手持無沙汰のまま加勢するように向かってきた。
「ああもうほっとけよ! 人が嫌がってんのにずっとつけてきやがって! 厄介ファンが歓迎される訳ねえだろばああああああああか!」
どいつもこいつも人の顔なんか見やしない。規定のせいだと分かった上で言っている。ハートだらけの糸を視て俺は気がおかしくなりそうだ。悪態でも吐いてないとやってられない。こゆるさんの手前、精神状態がまともである風は装わないと、信用問題に関わってくる。
「なんか追われてる!」
「あ、あの人こゆるちゃんを攫った人だよ!」
「警察に連絡……連絡……」
波園こゆるのアイドル力を舐め腐っていた。道行く人の全てが俺の敵だ。言葉の上では何となく理解していても、実際に加勢されると非常にきつくなる。世の中素晴らしい善人が多すぎて涙が止まらない。お願いだから今くらいは携帯のカメラをこちらに向けて傍観者を気取っていて欲しかった。ネットにアップするなり友達に自慢するなり何でもいいから、俺を追いかける側に加わるのだけはどうか…………
糸が邪魔!
こゆるさんの規定はこんな状況でも俺を蝕まんとしてくる。こいつが一番あり得ない。空気を読め。俺の味方は何処だ。見渡す限り敵だらけ、規定の影響に拘らず、誰も犯罪者の味方はしてくれない。そんな当たり前の状況に憤慨している俺は、やはり悪人なのだろうか。
「うおおおあああああああああ!」
「どあっ!」
「きゃああああああ!」
ラグビー部も斯くやという模範的なタックルを食らい、俺達は共に体勢を崩した。糸の有利で辛うじて均衡を保っていたがもう限界だ。一人に組み付かれたかと思えば三人に、三人が十人、十人が五〇人くらいに。
「波園ちゃん!」
「取り返したぞおおおお!」
「何かされてるかもしれない!」
「俺の家で調べよう!」
「私が身体を調べる!」
「こっち! 早く!」
「誘拐犯から引き離せ!」
「波園ちゃんだあああああ!」
「い―――あ―――あ――――――!」
こゆるさんの声がかき消される。
愛に狂ったファンには優しさの欠片もない。髪を掴み、顔を掴み、首を掴み、肩を掴み、胸を掴み、足を掴み、靴を掴み、太腿を掴み、お尻を掴み、腰を掴み、腕を掴み。組み伏せられたこの状況では頭上に伸びる糸を切る事も出来ない。圧倒的人数差にどうしようもないのは彼女も同じだ。目に大粒の涙を浮かべながら、俺に向かって何度も手を伸ばそうとした。伸ばそうとして、そのたびに防がれていた。
「……………………………波。こゆるッ!」
糸が切れないなら。俺に残された道は一つしかない。
ファンはこゆるさんの方に気を取られ、俺への対応がおろそかだ。今しかないだろうと、俺は再び持ち上げたナイフで己の手首を勢いよく掻っ捌いた。
「うがああああああああああああああああ!?」
元々マキナに落とされた手首だからと楽観視していたが、何をどうやってかしっかりと神経まで繋げてくれていたようだ。あの時は『傷病』の規定もなかったのにどうやって。そんな事がどうでも良くなるくらい、痛かった。気が狂うなんて生ぬるい。視界が閃光のように白くなって、全身が感電したかのような熱を持って、正常な意識なんてとても保っていられない。次の瞬間には全てが嘘で、何もかもデタラメで、だからどうでもよくなってしまう無気力が確定していた。
そんな俺を助けていたのは腹立たしくもこの視界。どんなにおかしくなっても糸だけは見えてしまうせいで、これは現実なんだと身体が反応してしまう。それが悔しくて、悲しくて、業腹で。
血の気が抜けるから、いつも以上に冷静になってしまう。
間欠泉よろしく飛沫いた血液を周囲にまき散らすと、あれだけ強気に俺達を固めていたファンが一斉に飛び退いて血液から逃れるように背中を向けた。残されたのはたった一人で血の雨を受け続けるこゆるさんのみ。
ナイフをポケットに刺すようにしまって、出血の無い方の手で彼女を抱き上げる。色んな所を触られたショックからか、アイドルは借りてきた猫よりも大人しくなっていた。虚ろな瞳が僅かに動いているので気絶まではしていないようだ。
「…………逃げるぞ!」
俺の血は余程穢れているらしく、ファンの殆どが動きを止めてその場で服を脱ぐなり水を浴びるなりの対処法を取っていた。今の内に逃げるしかない。最初にして最後のチャンスだ。これ以上血を使えば、普通に死ぬ。
途中からは血痕を残さない為に服の中に右腕を入れて走る事になった。なんと走りにくい姿勢か、マラソンでやる気のない奴がするような走りよりも更に疲れる。加えて現在進行形で続く出血に伴う脱力に何度足を取られたか分からない。その度にこゆるさんが手を貸してくれなければ今頃は追加で何か所か怪我を負っていただろう。
「………………何でまた、トイレ」
「……だ、だって有珠希さんが今にも死にそうだったから……」
「だからって…………駅前のトイレはないだろ」
人ごみのどさくさに紛れて男子トイレの中に入るまでは良いが、個室に籠ったのは判断ミスだ。一日に何百人が利用するであろう公共の場所をこんな形で独占すれば駅員を呼ばれるか警察を呼ばれるか。何にせよ時間の問題だ。
しかし出血多量で判断力が低下しつつある俺にとやかく言う筋合いはない。彼女はそんな頼りない俺の為にここまで案内してくれたのだから(意識が不明瞭で何処をどう走ったかいまいち覚えていない)。
「直ぐに応急手当をするから、大人しくしてください」
「………………ごめん。返り血、浴びせたな」
「え?」
玄関、という言葉がある。日常用語の様で、元は宗教用語だ。この国には信仰の自由があり何を信じるも自由、何も信じないも自由だが、日常生活にまで用語が溶け込むと最早そこに具体的な信仰はなくなってくる。しかし信仰には変わりない。
穢れ信仰というと如何にも古めかしく聞こえてくるが、俺達が普段やっているような手洗いなんかは穢れを祓う行為ともされる。科学的な説明では病原菌を洗い流す為にする行動だが―――同じ事だ。穢れとは要するに汚いと思えてしまう概念。怪我や病気がその代表で、どんな素人でも誰かの血を進んで浴びたいとは思わない。宗教的には穢れているし、科学的には単純に不潔、どんな病原菌を持っているか分からない。だから触りたくない。
汚い物には出来るだけ触りたくないという心理を逆手に取った末に思いついたのがあの作戦だ。あそこまで嫌がってくれるのは予想外だった。本来なら血塗れの手で両目を触ってやれば怯むだろうと考えていただけに、そこは安く済んだとも言える。
「…………いいんです。私の方が感謝しないといけませんし」
「……いや、助けるのは当たり前だ。そうするだけの理由があるし。指一本触らせないのはまあ……無理だったけど」
「確かに嫌でしたけど………………」
包帯を巻かれて、一先ず出血は抑え込めた。こゆるさんは慎重な手つきで手首を触りながら、思案に耽っている。何だか頬が染まっているという様にも見えるが、それは血の気が失せて青白くなっているせいだろう。視界の彩色フィルターもモノクロ化しているに違いない。
「…………あの。有珠希さんって。他の呼び方あります、か?」
「あ? 今の流れでそんな事……聞くのか?」
「敬語じゃなかったら嬉しいって…………そう、言ってたじゃないですか。で、出来れば! 誰も呼んでないような呼び方がいいんですけど!」
誰も呼んでないような呼び方?
そう言われても……有珠と呼び捨てにされるのは論外だが、その方向くらいしか思いつかない。マキナと言い、一神通と言い、これと言い、何かと血が消える事に定評がある俺だが、どんなに血が足りた状態で考えてもこれ以上の最適解は出なさそうだ。
「……普通に有珠希じゃ駄目なのか?」
「駄目ですッ。それだと有珠希さんがよろこん…………と、とにかくッ。他の。他の呼び方ですッ!」
扉の隙間から利用者の影を窺う。彼女はここが男子トイレである事を忘れているようだ。無声音でもなく普通の声音で話しかけられると反応に困る。何かの間違いで利用者がこの会話を聞いてみろ、男女が個室で何をやっているのかと騒がれるのは明らかだ。
かと言って強硬手段で口を塞ぐのも恩を仇で返すみたいでスッキリしない。色々考えた末に、俺は対面にしか聞こえないくらいの声で呟いた。
「有珠君……とかでいいんじゃないか。君付けはあれだけど、全体が敬語じゃなくなればいい感じにタメっぽくなる」
「………………有珠、君。それ、私専用の呼び方です。なの?」
「うおおすげえ不自然なタメ口だな。そうなったら嬉しいってだけで無理してもらう必要はないんだが」
「いや、別に無理なんてしてないです。わよ。なの? え? あれ? えっと……」
「やめとけやめとけ。もう意味が分からん。ゆっくりでいいよ。敬語が駄目って言ってるんじゃないしな。しかし君の方からその提案をしてきたってことは…………少しは信用されたって事でいいのか?」
アイドルをトイレの個室で正座させる光景を目にするとは思わなかった。こゆるさんは不自然を通りこして無理やり目を色々な方向に動かしながら、深々と頭を下げた。
「ふ、不束者ですがよろしくお願いします…………ッ」
え、これ何の挨拶?
気軽に行こうというだけの話が、堅苦しい形式に則られた。こゆるさんの感情は相変わらずよく分からないが、そこまで信用してくれたならわざわざ自傷した甲斐もあったか。やはり約束を守れば信用は自ずと得られると…………。
「有珠君。有珠君…………私だけ……特別…………専用の呼び方………………ふふふふふふ…………勘違いしてくれたら……………ぃぃのに……な」
「―――えっと。そんなテスト前みたいに暗記しようとしなくてもいいんだけど。漢字はともかく読みはそうでもないだろ」
「れ、練習させてくだ…………私だけの呼び方になるからッ」
「おう。せめて敬語が出たなら言い切ってくれ」
偏見かもしれないが、ここまで簡単に狼狽える人間が良くもステージに立って何万人を相手にライブ出来るものだ。これがトップアイドルの舞台裏だというならお見事と褒め称えるしかない。今まで誰にも本性を暴かれずにやってきたなら、それはとても凄い事だ。
俺にも彼女のような胆力があれば、ロクデナシにならずに済んだのかも……しれない。




