だから善い事は、キライ
えーんえん。
えーんえん。
妹が泣いている。
妹が泣いていた。
これが夢なのを知っている。これが夢であると理解している。いつもと違う夢な件についてはなにも言うまい。そういう事もあるだろう。問題は何故妹が泣いているのかだ。ここは病院だろうか。眠っている男の子の胸にはナイフが刺さっている。
―――おいおい。
まさか、殺したのか?
そんな事が、あり得るのか? 夢は夢だから、つまりデタラメ。そう捉える事も出来るが、これを記憶の整理として使っている以上、今更その理屈を持ち出すのは俺にとってあまりに都合が良すぎる。一方でこれを事実と認めるのもおかしな話。
だって、そんな記憶はない。
妹が人を殺していたら流石に記憶に残るだろう。忘れているなんて考えない。これはデタラメだ。夢は記憶の整理だが、整理故にとんちんかんな組み合わせを発揮する事もある……らしい。今までの俺は夢が固定されていたので何とも確信を得られない話だが、例えば妹と二人で話した記憶と、目の前で殺された結々芽と、発狂したせいで親と喧嘩になり妹が泣く羽目になったあのエピソードが混ざったとか。
夢はそれだけで終わった。本当に不思議な夢だった。明晰夢は夢が終わるまで意識がハッキリしているだけのはずだが、俺の意識は夢が終わっても尚、断絶される事はなく、遂に目覚める瞬間まで意識は残ってしまった。
「…………」
眠った気がしないし、ずっと起きていたようだ。いや、起きていたというか、実際起きていた訳ではなくて。
「何、寝てんだよ。俺は」
眠らないなんてそういう規定でも存在しない限り不可能かもしれないが、それでも迂闊だったし、この状況で寝るのはあまりにも馬鹿馬鹿しい。せっかくうまくいきかけていたのに全てが水の泡になったようだ。
シャッターが閉じているのは何故? こゆるさんはまさか、俺を置いて逃げてしまったのか?
「……最悪だよ」
因果の糸は光源に左右されない。どんな暗闇においても糸がハッキリと見えるのはこれの数少ない利点だ。糸があればそこには人が居るしし、無いならない。それを踏まえて改めて周囲を見渡すと、ここは完璧な暗闇だった。
こゆるさんが俺の傍から離れない前提で計画を練っていたので、ものの見事に全てが破綻した。指名手配がどうのこうの、想像していた自分がなんて愚かな人間なのかを認識させられる。アレが離れたなら俺は無罪だ。コソコソ隠れる必要はない。堂々と日の下を歩けばいい。誰も俺の事に興味なんてないから、未紗那先輩の家に行こうがマキナの家に行こうが勝手にしろと。
眼の出血は一定時間の静養で収束した。明け方の暗さで見えるようなヒビなら只のヒビではないだろう。こゆるさんも俺も気が付くべきだった、目にひびが入ったなら、普通に考えてまともな視力は得られないという事に。
人間とは思えない異常性だ。気が付いていたならこゆるさんはもっと早く俺の下を去っていたし、俺も自分が人間かどうかを疑い始めていた。この心臓に起因している症状だと考えられるが、真実はどうでもいい。
取り敢えず外へ出ようと手探りでシャッターを探していると、店の裏手からガサガサと何かが侵入を試みている音が聞こえてきた。こんな寂れた廃墟に空き巣とは考えにくいというか、単純に旨味が無さ過ぎてあり得ない。携帯は起動……しても良いが、生物が入ろうとしているなら糸が視えるので必要ない。
「…………えっと。何してる……んだ?」
裏口で引っかかっていたのは人間で、外と身体が接しているので辛うじてその姿が認識出来る。結論から言うとこゆるさんが引っかかっていた。
「あ……ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」
「起こされたっていうか、起きたっていうか。いやあの。マジで……何してんの?」
「そ、そんな事よりも入れてくれませんか? なんか扉が……開かなくてッ」
建て付けが悪くなっているのもあるだろう。諸々の問題で取り壊されずに放置された廃墟だ。人が入ってくる事など想定されていない。安全性だってそう。何もかも保証されていないからこの建物は廃墟と呼ばれているのだ。
しかしこゆるさんが引っかかっている一番の原因は、建物どうこうというよりも彼女のスタイルに問題がある。多分というか確実に妹だったらこんな事にはならなかった。彼女を引っかからせる元凶に触る勇気は無かったので、糸を払うついでに扉を蹴りで強引にこじ開けて救出した。
こちらからは分からなかったがかなり重力の影響を受ける角度で挟まっていたようだ。前のめりの体勢からあわや転倒という所でこゆるさんを抱き止めた。俺は何とも思わないが、多分、この光景を写真に収めたらファンに殺される。
「あ、有難うございます……」
「俺が眠ったのは悪いと思ってるけど、勝手に出ていくなよ。君は恐れ知らずなのか何なのか分からないな」
知らなくても相手はトップアイドルだ。マキナと違って『馬鹿』というのは憚られた。それくらいの良識は俺にもまだ残っている。とはいえ、手に提げられたレジ袋が全ての行動を物語っている気がする。
「…………買い物って、マジか? どうやったんだよ」
「い、いい感じに隠れて、代金を……置いて。お、お腹空いたんじゃないんですよ!? 有珠希さんの出血があんまりにも酷く見えたので……」
その心遣いは嬉しいが、そのステルス・ミッションは難易度が高すぎたようだ。中には包帯と…………サンドイッチがある。
「―――これ買ってお腹空いてないのは嘘だろ」
「…………ッ。ち、違います! これは有珠希さんの為に―――!」
「二人分食えと?」
「そ、そうですよッ」
「せめて一緒に食べる予定だったくらいにはしてほしかったな。コンビニも監視カメラがある筈なのによくもまあバレなかったもんだよ」
変装もしていないし。最低限の帽子やサングラスのような印象を変えるアイテムもない。逃げ出してきた身の着のまま買い物をするなんて本当に肝が据わっているのか馬鹿なのか。一見してこゆるさんの衣装は制服のように見えるから単に学生が来ただけと思われた可能性はあるが、こんな可愛い女子高生が来たら嫌が応でも顔を見ると思うし、彼女には芸能人特有の煌びやかなオーラがある。
推定『愛』の規定が常時発動している事も踏まえれば、無事に戻ってこられたのは奇跡に近い。せっかく買ってきてくれた包帯には申し訳ないが目を覆われると視界が封殺されて何も見えなくなるので、包帯は彼女に持たせたままという事で話を終わらせた。
「本当に大丈夫です?」
「大丈夫だよ。そんな事よりも、外はどんな感じだった? 護衛対象に聞くのもおかしな話なんだけど」
「…………ええっと、指名手配? されてました」
「この顔にピンと来たらって奴ね。その言い方じゃ俺だけか」
まあトップアイドルの顔などわざわざ貼りだすまでもないか。もしかして彼女が気付かれなかったのは俺の顔がそこら中に張り付けられていたから? 外を見ていないので分からないが、こゆるさん以上に俺は光の下で生きてはならないのかもしれない。
「写真ありますけど、見ますか?」
「……怖い物見たさってこういうのを言うんだな」
糸が邪魔なので払いつつ、サンドイッチをそれぞれ手に取って口に運ぶ。暗いと味が良く分からない。味などという概念は舌でしか感じられない筈なのに、何とも不思議な感覚だ。視覚は人間の能力以上に様々な役割を果たしているのかもしれない。
こゆるさん携帯には迷惑行為も斯くやと思われるくらい、俺の顔……というか住所、フルネーム、年齢、所属高校などが全て貼りだされていた。この世にプライバシーの侵害はないようだ。また別の写真にはファンの一人と思われる男性が俺の顔写真をバラまいていた。動画ではないが、写真の上でも道路に散らばったチラシが通行人の邪魔をしていると分かる。
「…………へえ」
「……?」
写真に写る人間の七割の糸がハートマークを作っている。共通して言えるのはその全員が俺の顔写真を拾ってじっと眺めているという事だ。その表情は素人にも分かるくらい露骨に恨めしく、憤怒に満ちている。
どうやら『愛』の規定が限界まで進行した人間は因果の糸がハートマークになるらしい。ここまでサンプルがあるなら決めつけても問題無さそうだ。この地域の人間全員が影響かに入っている訳ではないので、糸次第では見つかってもワンチャンス生き残れるかもしれない。
「因みに、君を好きになる力は制御出来ないのか?」
「制御って……よく分からないので。どうにか出来るんですか?」
「俺も知らないけど、まあ制御出来たら逃げるなんてあり得ないよなー」
………………。。
「え。お前何で携帯の電源入れてんだよ」




