あいも見えない逃避行
「……んあ?」
突拍子もない提案に妙な声が出た。牧寧の表情におちゃらけた雰囲気は一切感じない。泣き虫でない妹の側面というものを垣間見た気がする。俺はともかく、この表情ばかり見せられた人間なら妹を氷のように冷たい、または端正な眉目を仮面のように動かさない淡白な女の子だと勘違いするだろう。
「―――えっと、計画段階だよな?」
「勿論。兄さんの意思は尊重します。兄さんだってお父さんやお母さんや那由香と一緒はお辛いでしょう? そう悪くない話だと思っています。如何でしょうか」
「……」
家を借りたり、或は購入したりという行動にはそれなりの手続きが必要だが、この世界にそんなまどろっこしい要素はない。善行を邪魔する行為は全てが不純であり無視されるに値する障害物だ。なので、中学生を卒業した場合の妹―――高校生が同じ屋根の下二人で暮らす事にも、難しい問題はない。
「……お前はいいのか? 別にお前は険悪じゃないだろ」
「あのですね、兄さん。私がどうしてこんな事を言いだしたのか考えてもみてください。兄さんに家を与えてそちらに住まわせるという事だって可能なんですよ?」
妹が黒真珠のような瞳を揺らし、首を傾げる。言うなれば体の良い追放だ。特に俺は誰かに頼るという行為が嫌いなので、生活上やむを得ない部分はさておき、一人暮らしが最低限度で収まるとは到底思えない。もしそうなるなら、マキナの家にでも身を寄せるか。
―――それはそれで危ない気もするな。
何がどう危ないかはよく分からないけど。
「…………ええと。慈悲?」
「へ?」
「いやあ、だから……あれだろ。その気ならお前を一人で追放してやれるけど慈悲で一緒に住んでやるよ的な……」
妹が俺に否定的な感情を持っていない事くらい知っているが、家族に対しても円満な関係がある以上、俺についてくる意味が本当に分からない。それでも何か理由がある筈だと精一杯考えた結果がそうなった。
さて、牧寧は震えている。
「もう! 兄さん!」
初めて妹に怒鳴られたのに、全く圧力がないせいで可愛い以外の感想が出て来ない。怯むのも何か違う気がして、 気まずそうに眼を細める。
「私を何だと思ってるんですかッ? それとも兄さんから見た私は……そんな、高慢ちきな感じなんですか?」
「いやそういう訳じゃないけど理由が思いつかない。お前が離れる理由がマジで、さっぱり見当もつかないんだよ」
「……もう! もういいです。鈍い兄さんにはほとほと呆れましたッ。私、お風呂に入ってきますから。ええ、兄さんはここでどうぞゆっくりしていてください!」
話している内に夜食は終わっている。妹は不機嫌そうに口を尖らせながらさっさと食器を持って一階に行ってしまった。何に怒っているのかも分からない。マキナや未紗那先輩と絡んだ事で少しは女心も分かるようになったかと内心得意げに思っていたが、まだまだだったようだ。
「……落ち着かねえよ」
妹の部屋は白を基本として彩られており、ベッドもぬいぐるみもフカフカだ。部屋には至る所に写真が置いてあり、棚にはアルバムが二十冊ほど存在している。部屋に飾られている写真はどれも昔の物ばかりだ。最近取ったであろう写真は全て裏向きに飾られている。共通点があるとすれば裏向きの写真には俺が存在しないというくらいか。
悲観する事はない。アルバムの名前は『兄さんとのアルバム』だ。どういう意図があって区分されているかは本人のみぞ知る事として―――いや、流石に二十冊も生まれるくらい思い出はなかった筈だが。
ドンドンドン。
窓が叩かれる音。発生源は二階廊下に単独で存在する窓か。妹が一階に降りているので、この音に気が付けるのは俺か引き籠りと化した波園さんくらいしか居ない。
ドンドンドン。
ドンドンドン!
ドンドンドンドンドンドン!
耳を澄ませて聞いてみると、俺の部屋の窓も叩かれている音に気が付いた。それもかなり強い音だ。こちらの方とは比較にならない。この家は未改定なのでこのまま倍々に叩く力が強くなるといずれ窓が割れてしまう。
廊下に出ると、見知らぬ男が蜘蛛の様に張り付いていた。俺の姿を見るやあからさまに喜び、鍵の方を指さして開錠を求めている。何処の世界に住居侵入を許す人間が居るのだろうと思ったが、善人なら招き入れてしまうのだろうなと。
「……」
ジェスチャーなら対話は可能だ。一旦離れろと手で指示を出すと男性は直ぐに従ってくれた。その糸は両親や可愛くない方の妹と同様ハートを作り出している。違いがあるとすれば赤い糸に白い糸が絡まり、その周辺を青い糸が無軌道に繋がっているという事だ。空の檻に繋がった赤い糸は二、三本。普通の人間がこうなる事はない。明らかに何らかの規定を受けている。
分からないのは、波園さんが拾得者なら影響を受けた人間から何故逃げなければならないのかという事だ。もしかしてマキナの家にいる間に本来の規定者が何かしたとか……それで、何らかの理由があって波園さんが狙われていると。
考えてばかりも仕方がない。鍵を外すフリをして窓のスライド部分に取り付けられているまた別の鍵を仕込む。絶対に鍵を開けてくれる筈と信じている男性を放置して、自分の部屋へ。案の定、鍵はかかっていたが、扉に耳をつけると女性の啜り泣きのようなものが微かに聞こえる。それをかき消す勢いで窓が叩かれていた。
「…………おい。聞こえるか、波園さん。こんな状況で信じられるかどうか分からないが、鍵を開けてくれないか?」
ドンドンドンドン!
「俺を信じられないと思う。けど俺も隠し事があって貴方の事はとやかく言えない。でも」
ドンドンドンドン!
「…………」
ドンドンドンドン!
うるさい。
ああ、うるさい。うるさい。うるさい。俺の声がかき消される。話すにも信用してもらうにも、まずはこの雑音を止めないといけないか。いつもナイフを学生鞄に突っ込んであったのは不幸中の幸いだ。抜き身の刃を見せながらゆっくり階段を降りて家の外へ。
囲むように出待ちしていた男性数人の白い糸を切ると、敷地の外まで押しのけて周囲をざわつかせた。
「何のつもりか知らないが、人の敷地に勝手に入ってくるな。殺すぞ」
何だ、その殺人鬼を見るような目は。糸の本数からざっくりと見た所、俺の家を三〇人あまりが囲っている。この状況で自衛手段を用意しない方が不自然だろう。刃物がどうした、凶器の暴力がどうした。相手は数的有利という究極の暴力を持っているのに。
集団の中から小学生くらいの女の子が出てきた。少女は刃物に怯えながらも毅然とした態度で俺に話しかけてくる。
「すみません。ここに波園こゆるさんが居たりしませんか?」
「居ない」
「家の中に入ってかくにんしてもいいですか?」
「居ないもんは居ない。帰れ」
拙い喋り方に絆されるような男ではない。刃物の切っ先を向けると少女は泣きそうな顔で大人しく引き下がった。もしもこの世界がやはり人形劇なら、俺は完璧に悪役だ。周りが俺を奇異の眼で見ている。端っこの人間は警察に連絡しているようだった。
ドンドンドンドン!
「波園ちゃん! 居るんだろ! 開けてくれよ! 居なくなってずっと心配してたんだ、ねえ、ねえってばあ!」
うるさいのはスーツ姿の男だった。アイツのせいで俺の声もかき消されて、まともな対話も望めない。外壁を足掛かりに屋根へよじ登っても俺の存在には目もくれない。ナイフを目の前に突き出してみてもさっぱり気付く様子がないので、白い糸を切ってやった。
糸は『行動』の因果。一度切れば相手は自らの意思で行動を辞めたと思わされる。果たして思惑は成功し、男性が俺の方を向いて首を傾げた。
「……貴方は誰ですか? 邪魔しないで下さい」
「ここ、俺の家なんですけど。勝手に屋根上がっていいと思ってるんですか?」
「じゃあ上がらせてくれませんか? 後もう少しで波園ちゃんを説得出来る所なんです!」
こういう人間は往々にして存在する。
空気を読む一環なのだろうが、人に物を聞いて返事を貰う前に行動するような。建前だけでも俺は聞いたぞと言わんばかりの行動は、普段なら見逃すがこういう非常時にされると物凄く不愉快だ。何よりあちらに対話する気が一切ないのに説得が成功するかもと希望を抱いている辺りが痛々しい。あの啜り泣きは感動の涙だったとでも?
男性が足元に控えさせていた角材を手に取った所で再び白い糸を切った。
「……あの。何ですか? 手伝ってくれるならともかく、じっと見て」
「―――だから。ここ。俺の家」
「さっき上がっていいって言ったじゃないですか!」
「言ってねえ」
「じゃああがら」
「断る」
角材を取り上げて横腹を軽く叩くと、男性は大袈裟に回避行動を取って逃げるように屋根から降りて行った。
「あ、危ないじゃないか!」
「人の窓破ろうとしてる方がよっぽど危ない。後さ、気づけよ。窓をこっちから割るって事は硝子の破片が部屋に飛ぶって事だぞ。もしこの部屋に波園ってのが居るなら、少しはどんな事が起きるか考えてみろや」
カーテンが引かれているので、ある程度は抑えられるだろう。しかし被害がゼロになったとしても、それは推しを慮っているのか? その行動自体、軽視していないか?
窓を守るように座り込む。警察が来たら更に面倒な事になりそうだが、どういう訳か玄関から乗り込もうという意思はないらしい。ならあそこは放置して、俺はここを守ろう。警察が来る騒ぎになれば流石に先輩くらいは来てくれるだろう。
「…………あの」
窓がほんの一センチ、開かれた。俺が振り返ってはファンを刺激する可能性がある。
「何だ?」
「た、助けて下さい……! おわ、おわ、追われてて……!」
背中から伸びてきた白い糸を握り潰す。事情はよく分からないが、それくらいならとっくに明らかになっている。誰に追われているかというのも、その言動から既に察している。
「…………あと少しで警察が来る。流石に警察がきちゃ俺も無茶出来ない。今はそのままじっとしてろ。パトカーが来たら窓を開けて俺の手を掴め」
返事はなかったが、今までと違って騒音は潰した。ちゃんと聴こえていることを祈ろう。
「……後、俺に変な力を使うのはやめろ。見捨てるぞ」
「…………し、知りません。私の意思じゃどうしようもなくて……」
信じないなら見捨てるまでだが、一体何の為にマキナから交渉の権利を勝ち取ったのか。できれば誰も殺したくないし死んでほしくないからだ。
だから、信じる。
先輩の力もマキナの力も今は借りられない。自分の力で突破しないと。
「……手を出せ!」
パトカーのサイレンが聞こえた瞬間、波園こゆると思われる手を引いて、俺は道路に飛び出した。たかだか三十人の集団で道路は埋め尽くせない。突破口は存在する。
もしも存在しないというなら、文字通り切り開こう。




