希望の星
「もう行っちゃうの?」
「そりゃあ……帰るだろ」
あれから背筋もとい心臓が冷えっぱなしだが、一目散に逃げるのはわざとらしいし、あんまり素っ気ない対応をするのも不自然という事で、本来帰ろうと思っていた時間よりも更に一時間滞在して ようやく帰宅を認められた。
と言っても看病の体だったので、マキナが元気に部屋を歩き回っているならいずれにしても帰らないといけない。単に部屋を出るだけなのにマキナは大袈裟で、わざわざパジャマから縞々でモフモフのパーカーとレースの短パンに着替え、扉の前まで歩み寄って来た。
―――碌に視線も合わせられねねえ。
因みに後ろめたさとは全く関係ない。視界に映るマキナが他のどんな景色よりも刺激的過ぎて直視出来ないだけだ。見たら死ぬというか、心臓しかない人間は実質的に死んでいるのではと思わないでもないが。
「元気になってくれてよかったよ。一時間余計にうだうだしてた甲斐があったな」
「うん。有珠希と色々な話が出来て良かったわッ。今度は有珠希の昔の話とか聞いてみたかったり?」
「俺の過去は一瞬を除いて何も面白くないぞ。まあでも、話題には事欠かないよな。この世界、色々おかしいし」
マキナの趣味なんて知る由もないが、彼女は俺の話す事全てに食いついてくれるので話し辛いという感覚がそもそも存在しない。受け答えがまともに出来るならほぼ独り言だ。学校の話だとか、流石に傍から見ても間抜けすぎる善人の話だとか、そういう話くらいしか出来なかったが彼女はすっかり楽しんでいる様子だった。
人と話す事はこんなにも楽しかったのかと―――いや、キカイだが。マキナにだけは俺もいつになく饒舌になってしまい(それは秘めたる危機感を隠す為でもあったが)、うだうだと言いつつも俺からすれば夢のような時間だ。
「ねえ、また来てくれる?」
「お見舞いかよ。俺達は取引相手だ、二人きりで話したい事があるならそりゃ来るよ。俺の家には来るな、とも言ってるしな。その辺りは考慮しておかないと」
「……素直ね?」
「ここで捻くれても仕方ない」
心臓が偽装を計っている。この鼓動は紛れもなく人のカタチ。マキナの何処を見ても心拍数は跳ね上がり、邪な気持ちが芽生えそうになるのをぐっと堪えなければいけない。いつも邪険にしていて申し訳ないと思っている。だから糸よ、今だけはマキナに繋がってくれないか。何本繋がっても文句は言わないから、今だけは嫌われて欲しい。そうでないと俺は、この月に魅了されてしまう。
「じゃ、じゃあな」
今度こそ話す事がなくなったので、逃げる様に扉を開けようとする。それよりも早くマキナの手が俺を引っ張り戻さなければ、逃走には成功していただろう。
「待って、有珠希」
「……何だよ。ごねられても泊まらないぞ」
「―――そうじゃないの。教えて欲しい事があって」
俺の心臓の事ではあるまい。幾らでも聞く機会はあった。わざわざこのタイミングで聞こうとするのはどう考えても性悪の所業であり、俺は泳がされていただけの馬鹿だと露呈した事になる。色々と最悪の可能性について思案していたが、きまりの悪そうな顔を見て全てが杞憂だと悟った。
「……有珠希は、誰かの事を考える時ってない? 私でも、妹でも、腹立たしいけどメサイアの連中とか」
「俺はっていうか、誰でもあるだろうな。お前にだってあるだろ」
「うん……だったら変な事を聞くみたいだけど、それで身体が温まる事ってある?」
「はあ?」
テストで分からない部分を延々と考え続けた結果頭が痛くなってきたみたいな話だろうか。多分違うが、その言い方だとそれくらいしか出てこない。後、痛くなるのと熱いのは別の話だ。
「……ないな。お前の想定してる状況がハッキリしないのもあるけど、それで身体が温かくなるってのはない」
「……そう。それじゃあこれは、特別なコトなんだ……そっかそっか、貴方は特別なんだぁ……うふふ!」
「んぁ? 俺?」
要領を得ないが、何やら嬉しそうなのでツッコミは控えた。こちらとしても考える事がある。マキナが何を考えているかよりも何故俺がこんな状況になってしまったのかを整理したい。「これが最後」と言い切り、マキナは俺に抱き着いてきた。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
心拍が早い。俺のものより何倍も、人間の血管だったら破裂してしまうのではないかというくらい。彼女は俺の血で生きていて、しかしキカイでなければ生きられない。度々覚えるキカイという存在への疑いは、これで完璧に晴らされた。
首元まで伸びた髪に触れる。妹が二人いるのだ、髪は女の命という事くらいよく分かっている。少なくとも心を許してくれていないとそれだけで逆鱗に早変わりするような場所だ。目が眩む程の黄金を掻き分け、梳くように撫でる。マキナは無音を貫いていた。
「特別……特別…………うふふ、うふふふふふ! 特別……なんだから…………!」
「―――俺にはさっぱりだけど、お前って体温高いんだな」
「それは有珠希だってそう。自覚がないの? 私、このまま溶けてしまいたいくらいよ」
恐ろしい事をしれっと言ってくれるなと苦笑しつつ、背中に手を下げた。
身体が熱いのは事実だ。マキナに触れている部分の全てが熱い。柔らかくて、しなやかで、眩しくて、綺麗で、美しくて。危機感から早く離れろと本能が警鐘を鳴らしていたが、それ以上にこの身体が見目麗しき金髪銀眼のキカイを欲していた。
溶けてしまいたいのは俺の方だ。このまま一生抱きしめて、閉じ込めて、外界を禁じて、深海の底か宇宙の彼方かで眠りたい。
………………。
「なあ、もういいか?」
「―――うん。今日の所は許してあげるわ」
喪って初めて気が付く物もある。マキナから離れた部分は死亡したように冷たかった。今度こそ引き留めるつもりはないようで、彼女は絢爛な笑顔を浮かべて小さく手を振っていた。
「気を付けて帰ってね。もし家に入れなかったりしたら戻ってきてもいいわよ」
「そんな事にはならないって信じてる。何の意味があるかは分からんが」
今日の夜はやけに飛び降り自殺が多かった。それ自体は止められないので気にしないようにしているが、たまたま車の上に落下した人なんかは可哀想だなとも思う。認識出来ない物体に車を破壊されて保険が通るのかどうか…………通るか。最強の免罪符はあらゆる問題を解決してくれる。
他人の心配は程々に、俺の近くに落ちてくるのだけはやめてほしい。糸の動きに注意していれば事前に避ける事も可能だが、糸に意識を向ける事自体が否応なしにストレスを与えてくる。自殺者にそんな気は回らないだろうが、特に飛び降り自殺なんて死体がバラバラに吹っ飛ぶのだから周りがどんな被害を被るか。一部を除いて認識される事のない凶器が定期的に降ってくると考えたら恐ろしいだろう。
―――何でこんな事になってんだか。
善人の何が気持ち悪いって、個々人の意識にちゃんとした違いはある事だ。宗教宜しく思想が統一かされていて、良識ばかりに沿う人間ならまだ話は軽かった。問題は良識に沿っていながら非常識な部分にまで良識をゴリ押す所。自分が善人以外にカテゴライズされるのがそんなに嫌なのか、あらゆる手段でそれは正しかったし、善い行いだったという事にしてくる。それが一番、気持ち悪い。
『善行』という曖昧確固な基準を除けば比較的自由な思想が保たれている現状、自殺者が存在するのは不思議な話ではない。死体が手遅れなら自殺する寸前が助ける最後のチャンスともいえるが、死ねば認識されなくなる。それでは誰も問題に取り上げられない。
「でも、多すぎる」
彼等は善人である以前に人間だ。人間は生物であり、生物には原始の時代より生存本能を持ち合わせている。この世界の九割以上が善人とて、誰もが誰も死にたがりという訳ではない。なのに気のせいだろうか、特に今日は自殺者が多い。帰り道も一苦労だ。
「―――ただいま」
門限ギリギリ。糸の見過ぎで休憩を挟んだのが災いした。俺の帰りを認めるでもなく家族は夕食を始めており、その場の誰も俺の帰宅を認めようとしなかった。単純に気が付いていないと思われる。式宮家は俺の存在を無視すれば近所が羨むほどの仲良し家族なのだから。話題なんて幾らでも膨らませられる。
―――アイツが、居ない。
牧寧が参加していないのは珍しい。というかおかしい。家族の一員だ、俺と違って軋轢もない。首を傾げつつ自室に入ろうとすると、その妹が陣取るように扉の前で正座をしていた。
「…………え」
ほんの息漏れに耳が動く。瞑想していた牧寧が階段の方を向いて俺の姿を認めた刹那、何のやりとりも介さず、発生するまでもなく狼狽した。
「に、兄さんッ? あ、えっと。その……お、お見苦しい所をお見せしてます。でも、如何に兄さんと言えどもこの部屋には入らないで欲しいんです」
「いや、そこは俺の部屋なんだけどな。何してるんだ? 悪戯?」
「違いますッ。兄さんは私を何だと思ってるんですか? もう、そんな年じゃありません! お客様がいらっしゃって、お父さんがご案内したんです。兄さん、どうせ帰って来ないからって」
間違っちゃいない。普段の行いを鑑みれば至極当然の結論だ。自分が信用してもらっている前提があるならまだしも、怒るに怒れない。それにしても妹は頑なで、こんな頑固だった瞬間は見た事がない。記憶が確かなら玩具を欲しがった時とか、握手会に行った時とか……それくらいか。
「…………ん?」
どうしても視界に入る糸に、違和感があった。色が増えたとか本数が増えたとかではない。この違和感は、先程感じるべきだったものなのだろうか。階段を降りて家族団欒の景色に目を向けた。両親と那由香の三人が楽しそうに食事を摂っている。
彼等の糸は、あやとりでもするかのようにハート形を作り出していた。
「に、兄さんッ?」
「部屋に誰が来てるッ?」
「え、え?」
「いいから答えろ!」
妹は俺の剣幕に呑み込まれていたものの、震える声で名前を言った。
「な、波園こゆるさん………………!」




