心ノ⺼⻌
二章終わり。
距離の概念を無視して辿り着いた場所は、また別の建物だ。今度はビルではなく、大型ディスカウントストアの中だ。車を降りたかと思うと慌てた様子で中へ入ってくのを確実に捉えた。白衣を着ており、その髪の毛は黒色。中肉中背の男性だ。取り留めもなく特徴を挙げただけだが、要は着替えられたら見分けがつかなくなりそう。
「未紗那先輩ッ。今の……」
「入りましたね。恐らく一度ここを経由して抜けるつもりはないでしょう。車の死角を突いて追跡してきたつもりですが、規定者には死を感じ取る感覚でもあるのでしょうか。こちらが諦めていない事は取り敢えず向こうにもバレていると思った方がいい。篝空さんには道中メールで状況を伝えておきました。もう間もなくここに滞在するメンバーがこの店を囲んで監視をしてくれます。ここで私達を撒こうとするならその時は外で捕らえる予定です。事態がどう転んでもここで決着する事になる。式宮君、覚悟はいいですか?」
女子高生からお姫様抱っこをされていた現状は世界で一番恥ずかしかった。善とか悪とかそういう二元論では語れない感情である。それを見る事自体はどちらにも属さぬ行為が故に、周囲からジロジロと奇異の眼で見られた。この日を俺は一生忘れない。泣き出すかと思った。ようやく下ろしてくれたので清々している。
「大丈夫です。確かこのお店って三階までありましたよね」
「地下一階まで含めたら四階層。普通のお客もいる事を考えれば探し出すのは至難の業ですね。そういう意味でもイーシンツは何とか隠れようとするかもしれません―――本当に大丈夫ですか?」
「そこまで念入りに確認されなくても大丈夫ですって。未紗那先輩は何をそんなに心配してるんですか?」
「君の視界について心配しているんですけど……」
糸を見続けたせいで―――それがどういう影響を及ぼしたかはともかく―――俺は体調不良に陥った。重度の風邪を引いたとかそういう説明をしても許されるくらい、一時的にだが衰弱した。『傷病の規定』のお陰で今は何のストレスもないが、未紗那先輩はそれを知らないし、考えてもみれば俺としても今は規定の影響外。どうなるかは未知数だ。
ギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギ。
「…………大丈夫です」
「――――――信じますよ。それと、もしイーシンツを見つけた時ですが、出来れば私を呼んでください。相手は規定者です。間違っても正面から戦わないように」
「…………はい」
「では、行きましょうか」
人知れず、最終決戦が始まった。
ここに用のある人間の大半、というか全てが水面下で始まった命懸けのかくれんぼについて知る由もないだろう。ここで二手に別れるのは捜索の効率化から言って仕方ない。未紗那先輩もそこまで分かっているから敢えて俺の単独行動を認めた。
尤も、全面的に認められたとは思っていない。彼女の所属する組織のメンバーが紛れ込んで俺を監視している可能性はある。だからここでマキナを呼ぶ訳にはいかない。呼べば確実に問題になる。
―――ちゃんと視ろ。
糸から目を背けない。
赤い糸の束が白い糸を隠していたように。必ず見つけられる筈だ。眼球が破裂してでも探し出せ、視界の全てが糸に代わっても成果を挙げろ。俺の役目だ。俺にしか出来ない役目だ。一階は食料品やら日用品やら雑多な種類の商品が並んでいる。昼間という時間帯も合わさってかなりの人が混みあっている。平日だからとかは関係ない。平日は人が居て休日はもっと人が居るだけの話だ。
「誰か……犠牲者が居れば、楽なんだけどな」
糸を辿れ。
糸を探れ。
「……子供じゃないんだ」
隠れられる場所は有限である。段ボールの中とかそういう小物は使えない。俺くらいの体格が隠れられる場所を探せばきっと見つかる。
ギギギギギギギギギギギギギギギイイイイイイイイイイ。
煩い。
うるさいうるさいウルサイ五月蠅い。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
さっきから何なんだこの心臓は。故障したのか。何故普通の心臓と同じように動かない。マキナが傍に居た時はまだちゃんと脈動していただろう。ムカついて、腹が立って、それも全部イーシンツのせいだ。
「隠れてないで出てこいよ! 俺が…………ぶっ殺してやるから」
俺は至って冷静に糸を見ていた。今の奇行でこの場に居る大勢が少なからず反応を見せる筈だ。ここの秩序を取り仕切る店員は最低でも反応しないといけない。逃げるにせよ接近してくるにせよ、普通の人間なら確実にどちらかの対応をしてくる。
「責任もって! ぶっ殺してやるから! 諦めて出て来いやあああああああああああ!」
つけ狙った獲物が天敵だと分からせなければならない。
気の触れた行動に対して、唯一微動だにしなかった糸目掛けて俺は走り出した。そこは店の隅の棚。内の三つが背中を預けるように、或は円柱を作るように立ち並んでおり位置を調整すればその内側に隠れる事も不可能ではない。
「…………一神通。お前。俺の家族に何してくれたんだ?」
「…………治療だよ、善意の治療をしてやったのさ」
未紗那先輩がいないからか、それともマキナが居ないからか。取り敢えず俺を脅威とは思っていないようだ。見立て通り、棚の内側から一神通が姿を現した。こちら側に棚を倒してきたので一先ず後ろに回避する。
素人目にも分かる高級そうなスーツの上から、これまた新品の白衣を身にまとった男―――通称『一神通』。清潔感や高級感に気を払われているのは首から下だけで、そこから上はボサボサの髪の毛と荒れた肌。濁った瞳。何とも歪なバランスで成り立った男こそ、俺の家を襲撃しやがった犯人だ。
天敵を知るや即座に逃げの一手を打つ癖に、隠したと思えばとことん舐め腐るようだ。おそるるに足らずと言わんばかりに奴は近づいてきた。その手にメスとハサミを携えて。
「式宮有珠希。私の見立てでは、君は精神の病に侵されている」
「は?」
「突然病院を襲撃するなんて正気の沙汰とは思えない。一体どんな理由があって病院を襲撃したんだ?」
「…………自分の物みたいな言い方だな」
「自分の物だよ。もうあの病院は私の物だ。誰も私に逆らわない。あらゆる傷病に立ち向かう神の手の持ち主……なのだから。尤も、精神の方は専門外だ。世の為人の為と働き、これからも人の世を救い続ける私に敵意を剥きだす君は、確実に精神を病んでいる。その原因を、私は家族にあるのではないかと推測した」
一神通は一定の所で歩みを止めて、曲道になる部分で大きく足を開いた。それはさながら盗塁を狙う野球選手のよう。都合が悪くなれば直ぐに逃げるという鋼の意思を感じる。
「診断の結果、私は正しかったと証明された。だから君本人を治療する前に、家族を治療してやったんだ。尤も、何故か君は家に帰ろうとしなかったがね。まあ結果論も大切だ。どうだろう、式宮有珠希君。君の命も家族の命も私が握っている。私を見逃せ。君が精神的に病んでいる事を否定したいなら、断る要素もないと思うが」
ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイ。
「―――その前に。一つ聞かせてくれよ。お前さ、何で免罪符を使わずにわざわざその力で服従させてるんだ? 俺を助けると思って従ってくださいって言えば、あんなに反発されねえだろ」
「反発? 何の事だかさっぱり分からない。彼等は自らの意思で進んで協力してくれているだけだ。それを敢えて悪く言うなら―――反抗心を持たれていた方が、支配してるって感じが出るだろ?」
「救いようがないとはこの事ですね。一神通……いいえ、山坂翔矢!」
吐き気を催す程の趣味の悪い言い分の直後だ。
未紗那先輩が弾丸のように突っ込んできて飛び蹴りをぶちかましたのは。
「ッ!?」
壁を破壊する程の威力は無い。その方が最悪だ。バウンドした身体を寸分の狂いもなく追撃。胸を刺し腕を切り、首を貫く。彼女の扱う刃物は通常とは違い、その切れ味は不自然なまでに高められていたが、それでも一神通には傷一つ付かなかった。
ニヤリと笑う、一神通。ナイフが刺さる距離は、同時に攻撃出来る距離でもあるという事。
「未紗那先輩ッ!」
抜き身のナイフを順手に持ち、今出せる最高速で突っ込み、奴の真上を切り裂いた。そこには白い糸が伸びており、行動の因果を咎められた一神通は自発的に動きを静止させる。
「…………! そんな事も出来るんですね。充分ッ、です!」
抵抗力を失った身体を足で抑えつけ、数秒間は滅多切りにしていたと思う。規定は無力化されていないのでその全てがかすり傷にもならなかったが、一神通が動き始めたのを見て俺を引っ張りながら大きく退いた。
「無駄な事だ。私の神の手を持ってすれば己の治療など造作も…………ッ?」
デジャヴュ、という奴か。
一神通が悶え始めた。
「…………うぉ。うぉおおおおおお! な、何……だ? 何だ! いた……くる………えぅふうううううう」
「貴方にはお似合いの末路ですね、山坂翔矢。『傷病の規定』を使って事故後の重体を回復。そこで終わらせておけばこうなる事もなかったでしょうに、救いようがありませんね」
耐えきれなくなった男は胃液を吐きながらその場に突っ伏す。程なく横たわり、のたうち回るように。
―――何が起きてるんだ?
傷病は恐らく毒物や薬物などにも反応する。身体に害のある影響を全てシャットアウトする訳だから、『強度の規定』よりも防御面では遥かに殺しにくい筈なのだが。傷一つないのに、言葉一つ一つが必死で、弱弱しくて、時には断末魔の叫び声の様にも聞こえてくる。
「何を! 何をぉおおおおおおおおおおした! わた、わたしの! わたしの! 通じない!?」
「別に何も。ですが一つだけアドバイスをしましょう。ええ、そのままだと死んでしまうので選択肢をあげようかなと。己の身体に適用させた規定を今すぐ戻せばその苦しみからは解き放たれます。今すぐに解除しなさい」
「い、嫌…………だあああああッ! そんな、そんな事を……………をおおおおおおお! があああああああああああ!?」
「そんな事をすればまた重体に戻る、と? 所詮、貴方もキカイの力に酔っていただけで、それは夢のようなものです。健全な身体で楽しむ時間は終わったと割り切ればいいではないですか」
「嫌だ! 嫌だあああ…………ああああ…………お、俺……あ。た、たすけ。たすけええ。助けて!」
周囲、或は俺達に助けを求める。こんな状況であってもその声を聞きつけた人は駆け寄ろうとしたが、その度に未紗那先輩が免罪符を使って追い返した。彼女は強制的にこの男の死を迎えさせようとしている。あらゆる助けを己の手で潰しながら、憐憫の眼を向けてやりながら。
「嫌………………衣…………………ああ………………さい………………さむ…………」
「―――メメント・モリ」
シューヘイよりは大分抵抗したものの、未紗那先輩が刻み付けた死から抜ける事はかなわず、一神通は死んだ。あれだけ助けよう助けようと群がっていた人達は対象を見失い、何事もなかったように散っていく。
「………………何、したんですか?」
「企業秘密です。規定者が死ねば影響はなくなるでしょう。それよりも式宮君は棚を直しておいてください。私はこの男の死体に用があるので」
赤い糸から目を背け、無関係を装うかのように背中を向けた。
―――ごめん。先輩。
先にした約束は、多少違う形でも守らないと。
「ご苦労様~! お蔭で手間が省けちゃった♪」
大体半日ぶりのその声が、とても懐かしく聞こえる。錆び付いていた筈の心臓が、突然生気を伴ってドクドクと脈動を始めた。
「…………! 貴女は……!」
「ちょっと違う形になっちゃったけど、まあ部品は戻ったし結果オーライって感じッ? うふふ、約束を守ってくれてありがとね有珠希! 私、信じて待ってたんだから!」
「…………式宮君」
「―――事情があるんです。色々言われても、覆せないもんだってあるでしょう。はいとかいいえとか、善とか悪とか、俺の知る社会だってそんな二元論で語れる程単純じゃなかった筈です」
後ろめたさを表すように、背中を向け続ける。マキナには分からないだろうし先輩にとっても意図は汲めまい。独りよがりだと分かっていても、両者にそれぞれどんな顔をすればいいか分からなかったのだ。
「……キカイ。マキナでしたか? 何故彼を服従させるんです? 何の力もない一般人に用はないでしょう」
「その言い方…………そっか。貴方、メサイアの奴ね。ふーん。そっかあ…………そっかそっかあ。有珠希ってば、悪い虫に捕まってたのねー」
「こちらの台詞ですね。この場を見逃すのは癪ですが、彼に金輪際近寄らないと約束するなら……見逃しましょう」
「それは無理。有珠希だって望んでないわよそういう極端なの。何にも知らないならそっちこそ引っ込んでなさい。本当は人のパートナーを勝手に取られて凄くムカついてるんだから。見逃すのは今だけよ、有珠希の働きも込みで」
「パートナー? 笑わせないで下さい。いえ、冗談としても最底辺ですね。大体その喋り方は気持ち悪いですよ。キカイがそんな人間っぽく振舞うなんて初めて見ました。一体全体どういう風の吹き回しですか?」
「―――ふふッ。そういう事ね」
半ば現実逃避気味に、女同士の喧嘩は怖いなあなどと考えていたら、一触即発の空気を切り替えるようにマキナが朗らかに声を発した。
「凄く、嬉しい事が分かっちゃった! 私、今日はもう帰るわ。ヒトの事はどうでもいいけど、有珠希に免じて何もしないであげる。バイバイ有珠希! また明日会いましょうね!」
「あ。ま…………絶対に逃がさない。式宮君。後日お話がありますが今日は解散という事で! 私はあのキカイを追います―――!」
「しつこいなあ。何もしないであげるってさっきから言ってるのに、どうしてついてくるのかしら」
キカイを追っていたら、寂れた公園まで来てしまった。いや、疲れなどありません。私の仮説が正しければ、全ての始まりとも言えるきっかけさえ、キカイが起こしたもの。それを式宮君と『傷病』の規定が教えてくれた。
「―――彼に、どうしてそこまで執着するんですか? ええ、心当たりはありますが、一応聞いておこうかなと」
「………………うふふ!」
いつになく人間のような振る舞いをするキカイは、頬を染めて喜色の濃い表情を浮かべた。
「ねえメサイアの下っ端。貴方もヒトなら、血が流れてるんでしょ?」
「…………質問の意図が分かりません」
キカイは、胸元に手を当てて、目を閉じた。目覚めのキスを待つお姫様のように。
「―――ヒトの心臓って、温かいのね」
「……はい?」
「身体に巡る血が、肉の鼓動が、こんなにも温かいなんて知らなかったわ。凄く早くなるの。凄く高くなるの。これは有珠希のだから? それともニンゲンとしては共通なのかしら?」
事情がある。
式宮君の言い分は、今の一言に詰まっていると私は悟った。そして自分の説得が如何に愚かで、理解力に欠けていたのかを実感した。叱るつもりだったのは内緒だ。どうしても納得してくれなければ監禁する手筈も整えていた。それもボツ。
だって彼は―――後輩は、キカイに心臓を人質として取られているから。
そう考えれば全て説明がつく。キカイに積極的に手伝う人間なんて居ない。あの特異な力を明かしたのは、それをキカイにも明かしてあるのは。というか彼の判断が一々煮え切らないのはそれが全ての理由。
「………………所詮、キカイですね。人の事は考えてもない」
ナイフを構える。キカイは終始乗り気でなかったが、仕方ないと言わんばかりにジャングルジムから飛び降りた。
「ヒトはどうでもいいわ。でも有珠希の事は何でかしら。考えても考えても、足りないくらい! 考えてるだけで身体がどんどん温かくなるの! ねえ、メサイアの下っ端にはそういう経験ある? それともこれは特別なコト?」
「それ以上喋らないで下さい。人類は人類だけで運営されるべきです。まして個人のストーキングなど許される所業でもない――――――ここで貴方を破壊します」
「―――そこまで言うなら、遊んであげる。有珠希に余計な事を吹き込んでないか、この際白状してもらおうかしらッ」




