不審な人形劇
夢を見る事もなくハッキリと目が覚めたのは初めての事ではないだろうか。そもそも睡眠という行為にさえならなかったのか、単純に気絶していたから夢を見なかったのか。
「―――ここは」
最初は遺体安置室にでも居るのかと思ったが、そもそも病院ではないようだ。窓から見える景色と殺風景な周辺の景色から察するにビルみたいな建物の中だろうか。
「あ、起きた」
「ッは」
意識を失う直前の記憶は明瞭だ。糸を見過ぎた代償で衰弱していたら突然妙な男が現れて後ろの壁に頭を叩きつけていた。三回目くらいから記憶がないもののこの身体がそれ以上の暴力に遭った事を覚えている。そのままなら即死は免れなかっただろう。
しかし今の俺は傷一つなければ嫌悪感もなく、心なしか気分が良い。普通の人間なら栄養剤でも打たれたかと錯覚するだろう。ちょっと危ない感覚で言うならドーピングをしたとか、そういう風に捉えてもらっても構わない。
問題があるとすれば俺に一本だけ糸が繋がっているのと、横でランドセルを背負った少年がつまらなそうに俺を見ている事だ。
錯乱しそうな程の嫌悪感を抱く度に気分が快復する。成程、どうやら俺も『傷病の規定』に引っかかっているようだ。精神的な問題は傷でも病でもないと思っていたが、体調不良に繋がるなら例外にならないという事か。強すぎるストレスも考え物だ。
不快になる度に気分が高揚するというのも妙だが、今はそれよりも状況を把握しよう。まず俺は、机の上で倒れていたようだ。
「…………仲間か?」
「仲間って何だよ。意味分かんね。俺はお前を見てるように言われただけだし」
「…………言い方が悪かったよ。俺を襲った人と仲間ですか?」
「ちげえよ全然。でもそうかも。ワカンネ。俺だってお前と一緒だもん。攫われたんだよ。家にずっと帰れてないんだ」
敬語を使ってくれないのは小学生だからか、それとも俺が同い年に見えるのか。多分どちらでもない。家に帰れていないと言った時の少年からは年不相応の諦観と、それに基づいた自棄を感じた。原因があるとすれば、単に余裕がないだけだろう。
俺も遂に同類となってしまったが、少年の身体からもちゃんと赤い糸が伸びている。因果を視て影響の有無を判別出来るのはいいが、思想までは判別出来ないのがデメリットか。俺を半殺しにしてくれた男性にもちゃんと糸があったのは見逃さなかった。
「……帰りゃいいのに」
「かえれねーんだよ! お前だっておんなじように連れてかれたんだろっ? 帰ろうとすると苦しくなるんだ。歩けなくなって、息が出来なくて……俺だってかえりてーよ」
「―――帰れなくても、命令に背くとかはどうだ?」
「背くって何?」
「言う事を聞かないって意味」
「出来なかった。んな事すると苦しくなる」
―――やはりそうなのか。
傷病の規定により重傷を負った事実を蒸し返し、駒として利用する。間接的に『規定』が発動出来るならいよいよネズミ講らしさが増してきた。ちょっとした例えのつもりだったのに、どんな条件にせよ規定に侵された人間も規定を使えるならそれはもう超常的なネズミ講だ。際限がない。もし俺に因果を視る力が無かったら『傷病の規定』本来の所有者を何度見間違えただろう。
「ちょっと聞かせてほしい事がある。ここでどれくらいこき使われてるんだ?」
「半年くらいだよ。お母さんとかが助けに来てくれたらまた違うのかなって思ってるけど……探しに来ねえ。あのババア、俺の事なんてどうでもいいんだろうな……」
「―――いや、そうとは限らない。えーっと、君はまだあれを試してないだろ。俺を助けると思って家に帰してくれって言わなかったのか?」
「言ったよそりゃ! でも聞いてくれないんだ! 何で? 人を助けるのが当たり前なんだろ? 全然分かんないんだよだから! なあ教えてよ。何で助けてくれないんだよ! 何で何で何で何で!」
助けるという選択肢以外を知らない善人と、規定によってその固定観念から抜け出した人間とでは大きな隔たりがある。イエスしか知らない人達は当然自分達の要求も呑まれるものと思って日々を生きている。道理を無視した閉店営業や待合システムの破綻などが良い例だ。
そこに突然降ってきたノーという選択肢に、彼等は対応出来ない。閉店したはずの店が何故営業しているのかという事さえ考え突かないくらいだ。目の前の人間がどういった理由でノーを突き付けているかなんて、分かる筈がない。思考停止の強要だ。
彼の親だってそう。イエスしか知らないものだから、よしんば子供の居場所が判明したとしても最強の免罪符を使われたが最後、それに従う以外の選択肢がない。相手を助けるという心が、或は助けて恩人になりたいという欲求が、この状況を詰ませている。
「…………帰りたいよ」
「…………」
「お腹減んない。眠くもならない。怪我しない。怖い。何が起きてんだよ俺の身体。なあおい、答えてよ。教えてくれよ。教科書見ても何も書かれてないんだ。何でこんな事になったんだろ。勉強サボったから? だってしょーがねーじゃん。サッカーしたかったんだもん。こんな事になんなら勉強しときゃ良かった。勉強したらなんかわかったんかな」
「……悪いけど、こういう状況の想定はされないんだ。普通じゃないからな。俺は高校生だけど、十七年間で一度もこんな事について勉強した事なかったよ」
「んな事ききてーんじゃねーよ! 糞が!」
小学生の腕力でランドセルを投げられても痛くも痒くもない。中に教科書が詰まっていようが投げる力がそもそも弱いならさほどではない。横に捌くと口の開いたランドセルからドカドカと何冊もの教科書が出てきた。
ノートには栢田八太郎と書かれている それがこの少年の名前か。
「……………………はあ」
大体事情は分かった。彼が一足早く手遅れになっているお陰というのもおかしいが、こうならない立ち回りを考える必要がある。
「八太郎君。君はどれくらい、誰に見てろって言われたの?」
「イーシンツの右腕? とか言ってる人だよ。最初は僕も怖かったけど今は感謝してるとか何とか色々言ってきたけど。なんか。ワカンネ。お前の事は起きるまで見てろって。あ、じゃあ俺ここに居なくていいんじゃん。特にする事とかないけどお前もその内変な命令されると思うよ。じゃあね」
「……待ってくれ」
俺だけ助かるのは簡単だ。マキナを呼べばいい。彼女と交わした合言葉が正常に機能するなら何処にだって現れてくれるだろう。しかし、それでは約束を違える。イーシンツなんて偽名か通称だ。まだ正体も分からない内に呼ぶのは違うだろう。何の為に首を突っ込んだ。この視界を治したいが為、それまでおんぶにだっこを貫くつもりか。
―――普通に恥ずかしいんだよな。それって。
たったそれだけの理由で身を危険に晒すかと呆れる人も居るだろう。たったそれだけのプライドでも、今まで俺を守ってくれた盾には違いない。規定に引っかかったくらいで生きるか死ぬかの瀬戸際というのも大袈裟だ。せめてイーシンツの正体を確かめるまでは俺だけで頑張る。
それでマキナに対する評価も変わってくるというものだ。
「イーシンツってのは何処に居るんだ?」
「知らねえよ。でもこのビルから出たら気付かれるよ。俺も誘拐された時そうだったけど、何か『教育』みたいなのを済ませなきゃ駄目なんだよ」
「内容を教えてくれ」
「攫った人から『俺を助けると思って内容を口外するな』って言われてるから無理」
「……自分を攫ったのに、そんな奴の言う事を聞くのか!?」
「だってそれが正しいって教わったんだよ! だから分かんないんだってさっきからさあ……お前馬鹿じゃん!」
馬鹿はどちらだ。ストックホルム症候群より性質が悪い。『傷病の規定』に侵された所で同じように価値観が逸脱するかと言われたら違うようだ。思わず怒鳴ってしまったものの、俺はその免罪符を使えないので聞き出す手段がなかった。
「………………………」
こんな奴等が俺の家族を襲ったと考えるだけで怒りが湧いてくる。体調不良に繋がらなくても、冷静な判断力を今の俺に求めるのは難しい話だ。あの時、病院で抱いた殺意が再び滾っている。かつては鈍だったが今はどうか。
この糸を見ているだけではらわたが煮えくり返った。『結び目』は見えない。あの時と何が違う? どうでもいい。この赤い糸は確実にイーシンツとやらに繋がっている。それだけ分かっていれば十分だ。こんなにも鬱陶しい存在が消せないなら、地の果てまでも追い詰めてやる。
対面すればきっと、この怒りの理由もハッキリするだろう。
「八太郎君はここに居ていいぞ。俺が代わりに出ていくから」
「え? さっき出れないって言ったじゃん。信じないなら、勝手にしてくれよ」
「逃げるつもりなんて毛頭ねえよ。ナイフは……取り上げられたか。しゃーない。まあどうせ俺一人じゃ無理か」
扉を開けようとすると、八太郎君が再びランドセルを投げつけてきた。今度は中身が無いのでスカスカだ。いよいよ金属部分くらいしか痛がる要素もない。
「―――呼びたいなら普通に呼んでくれよ。止まるからさ」
「な、何しに行くんだよ! お前も俺と同じ目に遭うだけなのに!」
やってみないと分からない。
少年は気丈に振舞っているが、瞳の底には抗いようのない絶望と恐怖が刻み込まれている。俺もマキナと出会わずしてターゲットにされていたらこのような純朴な被害者になっていたのだろうか。根性で勝てる相手でもない。科学如きに何が出来る。自然現象さえ克服出来ていない人類に、『規定』を超えるポテンシャルはないだろう。
そんなもしもは考えない。結局俺は普通の人間だ。捻くれているだけ。世間一般の善人じゃないだけ。それ以外は何もかも平凡で普通の高校生。
「――――――イーシンツとかいう奴を、ぶっ飛ばす」
だからこの感情も健全だ。
猛烈に、無性に。人生で初めての経験だ。ここまでムカついた事は俊彦を相手にしている時でさえなかった。善人よりも悪人が嫌い? それも違うか。やはり対面しない事には何も分からない。胸から繋がった糸を引っ張りながら、俺は部屋の一室を後にした。
今は果てしなく気分が良い。殺人の一線さえ容易に踏み越えてしまいそうだ。不愉快の愉快は気色悪い。何もかも勝手に肯定されて喜ぶような素直な人間じゃないのだ、俺は。
「―――っぱ俺も、未紗那先輩と一緒で強制が嫌いみたいですね」
頼れる先輩の幻影を想起しつつ、俺は糸を手繰り寄せるように歩き出した。




