赤く咲かない月の花
情報を信じて商店街の方へ向かっていると、何となく足を止めたくなった。
なんで俺が会いにいかなきゃいけないんだ?
約束の時間までまだ五時間以上も残っている。それにも拘らず無理に探し出すのはお前に会いたいと言っているようなもので、どんなに鈍くてもその意味は分かってしまうだろう。いや、本当にそういう感情は全くないのだが、そういう勘違いをされては困るという話で。
普段なら糸が多すぎるという理由で商店街に足を運ぶ事はない。だから同じ理由を使って今から引き返す事も十分に可能だ。そうだ、あんな場所は悍ましい。何百何千の糸が真上から伸びているだけで目が痛くなりそうだ。やはり糸に繋がれた人間は恐ろしい。平然とこの景色を知らずに生きている事が羨ましく思えるくらい。
そんな赤く細切れにされた世界の中で、ぽつんと座る彼女はとても目立っていた。
「……」
確かに美人は居るだけでも目立つ。ましてマキナの見た目はどう考えても外国人だ。しかし何事にも限度がある。地球を捕捉出来るような尺度で見れば人類など豆粒以下だ。そこに美醜はつけられない。同様に、あんまりにも人が多いこの状況ではどんな美人でも何か気を引くような行動でもしていない限り、目立つ事はない。兎葵の観察力が高くて助かった。
尤も、俺の場合糸が存在しない部分を見ればいいので―――語弊が生まれるかもしれないが、俺の視界が彼女を見逃す事はない。出会った時から、楠絵マキナという女性を知った日から、彼女は俺の中で無二の光彩を放っている。
「…………」
とても、つまらなそうだ。商店街の端っこで行き交う人々を見送るように立ち尽くしている。華々しい明るさを持った女性とは似ても似つかない。
「……何で、お前は。そんな顔してんだよ」
そんな顔は似合わない。無機質な表情ではなく、キカイ的な機微ではなく、もっとある筈だ。
マキナの事を眺めていたら、次第に感覚が研ぎ澄まされていく錯覚に陥った。景色は遅れ、風は停滞し、時の刻みは遅くなる。キカイの心臓が鼓動を止めて、赤い糸が消えてなくなる。世界には、俺とマキナの二人しか居なかった。
あの日の夜を思い出す。あの日と言っても一週間も経ってないくらい最近の話だが、俺にとって決定的な日でもある。あの日を境に俺は退屈な日常を抜け出し、刺激的な異常へと身を寄せる事になったのだ。その刺激は火遊びと呼ぶのも温いくらい、実際に殺されかけた経験もあるけれど、糸のない存在と初めて出会えた事が本当に嬉しかった。俺の視界に理解を示してくれた事が本当に本当に嬉しかった。
言葉に代えられない。表現のしようがない。
『私の瞳の色は、月の色。この瞳を綺麗だって言ってくれるなら、月を見た時貴方はどんな顔をするのかしら?』
それは実際に見てみるまで俺も分からない。ただ一つ言えるとすれば、月の瞳が輝いていないと、俺は非常に不愉快という事くらいだ。
「あーもう! 見てらんねえよ!」
赤い糸に繋がれた傀儡を潜り抜けて、暇を持て余し退屈に殺されそうな女神の元へ走り出す。周りの全ては雑音だ。俺の通行を邪魔するだけの小道具に過ぎない。気にしない。視界に入らない。
「マキナァッ!」
俺の呼びかけに呼応して、キカイの瞳に輝きが戻った。
「え…………有珠希? どうしてこんな所に居るの? 約束の時間はまだまだ全然よ?」
「うるせえ! そんな事はどうでもいいんだ。お前こそそんな所で馬鹿みたいに突っ立って何してるんだ。せめてなんかしてろよッ」
無茶苦茶な言い分なのは自分でも分かっているが、要するにそんなつまらなそうな顔をしないで欲しいと言いたかった。しかし言葉にしないものは伝わらず、マキナは口を尖らせて倣うように不満を口にした。
「何よそれッ! 私だってたまには何もしたくなくなるの! いいでしょ別に、プライベートよプライベート!」
「じゃあ部品探しでもしてろよ! 俺がいなくてもたまたま見つかる可能性はあるだろ」
「そんな可能性、どれくらいあるって言うの。有珠希に頼った方がよっぽど効率的だわ。私、人間と違って職に就いている訳でも学校に行っている訳でもないしッ。有珠希は何に怒ってるの?」
「別に……怒ってる訳じゃない。ただなんか、見てらんねえ」
「見てられないような醜態を晒した覚えはないわよ?」
「だからぁ…………お前には何となく、楽しそうにしてほしかったっていうか。笑顔が好きだから…………元気なお前を見たかったんだよ…………」
後頭部を掻いて誤魔化しながら言うのが限界だった。なんて事を言わせやがるんだこのキカイは。胃液がひっくり返そうな抵抗を押しのけて何とか呼吸を整える。自分の事で精一杯だったので目の前の光景も見えていない。正常にそれを機能させるまではもう数秒掛かる。
「あっ…………そう。なんだ」
視界のマキナは、桜色に頬を染めて俯いていた。それこそいつもの彼女ではない。艶めかしくもしおらしい姿にドキっとしたのは内緒だ。暫く気まずい空気が漂っていたが、先にそれを打ち破ったのは彼女の方だった。
「―――仕方ないわね! 部品探しは時間通りにやるとしても、それまで何かして遊びましょうかッ!」
「遊ぶ? ……そうだな。俺も家に帰りたくないし。せっかくこんな場所に居るんだ。なんか買ってどっかで食うかッ。十月だし温かい物でも食べたら美味しいんじゃないか」
「うんッ! チョイスは有珠希に任せるわね。……うふふ♪ そっかそっか。有珠希ってば、そういうの好きなんだ~」
羞恥心を掘り起こされるのは好きじゃない。全てを聞き流して、俺は糸の網から頑張って店を吟味し、そこそこに熱くてそこそこにお手軽で、それでいてマキナが満足してくれるような食べ物は―――
「おい。手を繋ぐ必要はないんだぞ」
「こんなに人が居たら離れちゃうかもしれないでしょ? 有珠希の因果は覚えてるけど、だからって直ぐ見つかる訳じゃないわ」
「…………勝手にしてくれ」
「その言い方はムカつくわね。有珠希だって私を見失ったら一人でほっつき歩くだけの怪しい学生になるんだから」
「もう学校は終わったから不良じゃないし、お前を見失う事もない。目立つからな」
「そんなに目立つの? これは喜んでいいのかしら……?」
そりゃあもう。
探そうと思えばお前以外が目に入らないくらい。
俺が購入したのは肉まんだ。たまたま肉まん専門店があって、その看板が細切れの視界を以てしてもハッキリしていたから決め手になった。特に拘りは無かったので豚まんを二つ。ドクロまんという商品も気になったが、流石にリスクが高すぎる。何が入ってるんだそれは。
「当たり前なんだけど、有珠希ってお金持ってたのね」
「小遣いな…………不本意っちゃ不本意だけど、どれだけ糸が嫌いでも、糸から離れて暮らすのは無理だから。精々利用していかないとな。本当、嫌いな存在に頼るなんてごめんなんだけど」
「…………私は頼れるの?」
「ん? ……んーお前が居なかったらこの糸取っ払えないし。大体死んでたし。頼れるよ、お前は」
「……有珠希が素直なんて珍しいわねッ。もっと素直になってくれたら私も嬉しかったりするかも?」
「は? 絶対にお断りだ。素直になんかならないぞ俺は」
「ワガママなニンゲンってほーんと困りもの」
ニコニコと機嫌良さそうに肉まんを眺めるマキナ。食べ方が分からないとは言うまい。キカイと言えども世間知らずではない。しかし万が一もあるので、俺は饅頭を半分に割って片割れを彼女に渡した。
声もなく、マキナは目を丸くしている。
「食えよ」
「…………わ、私の事食いしん坊だと思ってるのッ? 要らないわよ!」
「饅頭は割って食うものだぞ」
「え、そうだったの? それは初耳だわ……」
いや、知らないけど。
何らかの逡巡の末、彼女もまた自身の肉まんを指で分割し(強度の規定を使ったのだと思われる)、半分を俺に渡してきた。
「……これじゃ一個食うのと変わらんだろ」
「割って食うものなんでしょ? これならお互いに損はないわ。ね?」
自分から言い出した出任せにしても、そんな慈しい笑顔を向けられたら断れない。受け取った半身を口に入れ、一生懸命頬張った。真似をしてマキナも頬張っている。
「ん。美味し!」
「………………ああ、そうだな」
心が過熱している。キカイの心臓がオーバークロックをはじめ、無味の熱量が視界を滲ませる。ただ公園で肉まんを食べているだけなのに。
どうしてこんなに、楽しいんだ。




