また明日
未紗那先輩は華奢な見た目から想像もつかない膂力で俺を引っ張ってくれた。一歩一歩と踏む度に加速する暴走仕様には一分たりとも耐えられず、途中からは俺を抱き上げる形で彼女だけに負担を掛けていた。
「…………先輩。こ、これ」
「黙って下さい。そんなの分かりきってるんです」
道が狂っている。
突然病院が迷路になったとかではない。そこにエレベーターがあってそこに階段があって非常口があって病室がある。何一つとして先程までと変わらないのに、病院の外へ出られないのだ。そればかりか下の階にも下りられない。窓に向かおうにも、そこにある窓にどうしても足が届かない。
「…………困りましたね。こんな事になるとは想定していなかったのですが」
「せ、先輩。降ろしてください。お、俺はもうだいじょお……大丈夫です」
「そうですか。ではお言葉に甘えて」
放り出された。受け身なんて取れる訳がないが、そっちの文句は後回しだ。後ろから看護師の女性が追いかけてくる。その動きは院内のルールを守るかのように早歩きで留まっているが、何故か距離が縮まっている。こちらは全力疾走をしているというのに。
「私の言った通り、死んでないでしょう!?」
「いや……こうなるなら、死んでて欲しかった……かも…………!」
糸の一本か二本が真横から伸びているなら、ここまで恐れる事は無かった。俺は小指から小指に繋がる運命の赤い糸という奴を知っている。それと似たようなものだと思えば恐怖もない。ただ、全ての糸が絡み合って一本の太い線として背中から繋がっている光景は異様だ。糸の正体が正体だ、俺にはその太い導線が生命維持装置にも見える。
「…………クソッ!」
マキナが居れば。アイツならこの異常事態にも説明を付けられたかもしれない。いや、間違いなく付けられる。そうでなくては困る。だから俺がこの場ですべきなのは未紗那先輩に対して情報を隠す事じゃなくて。何としてでも生き延びる事だ。
「先輩。ここから逃げる算段とか……ないですか?」
「足で逃げられないなら、どうにかしてアレを無力化……いや、どうでしょうね。今の私には厳しいかもしれません。こうなると根比べくらいしかする事がないですね」
生き延びる。
たったそれだけなら。
殺すよりも簡単だ。
「――――――捕まえた」
性懲りもなく単独で飛んできた糸を掴む。未紗那先輩が拳の握られた先を見て首を傾げた。
「……何を?」
「付いてきてください。多分、脱出出来ます」
この白い糸の正体は分からない。だがこれが何らかの因果であるのなら、道に迷う事もないだろう。『部品』を所有していた結々芽でさえこの終末世界は見えていなかった。マキナも糸としての認識はしていなかった。つまりこの世界は俺だけの物。俺を苦しめる為だけに与えられた拷問の一環。
因果が糸として一本の路を成立させている以上、狂う事はあり得ない。そんな干渉は許されない。何故なら誰にも見えていないから。
「……腹立つんだよクソッ!」
糸を辿っていくと、目の前の階段は驚くほど簡単に抜けられた。あれだけ距離を詰めてきた看護師はむしろ追いつく気配がなくなり、糸を辿り続けていたら入る時と同じくらい簡単に外へ出られた。
「…………用済みだよ、うせろ!」
白い糸を引きちぎると、糸は逃げるように住宅街の方へと引っ込んでいった。犯人はそちらの方向に居るのだろうか。
「…………はぁ。じゃあ先輩。俺はここで帰ります。今日は何か怖くて―――凄く疲れました」
「………………貴方が何をしたのか、ひじょ~に気になる所なんですが」
未紗那先輩は回り込むように俺の前を通り過ぎると、首を傾げて嫋やかに微笑んだ。
「助けてもらったお礼として、今日は何も聞かないであげます。一日、お疲れさまでした式宮君。くれぐれも夜遊びなどは控えてくださいね。それは学生として良くない事ですよ」
「……学生としてって言うなら、先輩だってスカートを短くしない方がいいんじゃ?」
絶対領域が目に眩しい。クラスの連中の何割かはこれ目当てで彼女と話したがる疑惑がある。こんな至近距離で凝視して気付かれない道理はない。先輩は慌てて腰を落として太腿を手で隠した。
「これは動きやすさ重視ですッ。誤魔化そうとしないで下さい。詳しい説明はまたいつかしてあげますから、今日の事は取り敢えず気にしないでっていう話をですね……はあ。君と話してると調子が狂います。もう帰るので、くれぐれも一人でこの近くには寄らないように。今度は逃げられるとは限りませんからねッ?」
鼻先をぐいっと押してから、彼女は軽やかな走りでこの場を立ち去っていった。
「―――先輩! せんぱーい!」
まだ背中が見えている。言い忘れた事を伝えるなら今の内だ。俺だってまだ彼女から情報を引き出せていない。明らかに未紗那先輩は色々知っているから、これで関係が終わると俺だって非常に困る。
「俺! 先輩のせいで名前覚えられた可能性があるんですけどー!」
これでいい。
未紗那先輩は転んだが、言いたい事は全て伝えた。背中を追うと非常に不味い事になる気がしたので畑道の方を使って俺も帰路に着いた。
道中、幾らかの飛び降り死体を目撃しつつ河原まで戻って来た。疲労感からどうしても座りたかったので土手の方へ腰を下ろす。息を整えてから何となしに携帯を見ると妹から何百というメッセージが届いていた。話の流れを追うに早退した事が家に連絡され、それでも帰って来ないから心配しているようだ。妹だけならいざ知らず、学校側の余計な対応のせいで両親までもがこの事を認知しているのが問題だ。また叱られると面倒くさい。家に帰りたくなくなった。
「…………帰りたくねー」
彼等は一応善人なので、俺が何度門限を破ろうと何度外でほっつき歩こうと叱るだろう。そういう因果の下に生きているので仕方ない。マキナを探しに行っても良かったが、当てがない。自宅に行けば会えるだろうか。
「……ないな」
それだとまるで、俺が会いたくて仕方ないみたいだ。約束の時間になったら会える……待ち合わせはしていないが、それこそ自宅に行けばいい。そこまで待とう。待たなきゃ。一刻も早く答えを得たくても我慢は必要だ。
「この不良学生」
「あん?」
何だか態度が刺々しい声には聞き覚えがある。隣に座り込んだ少女に、俺は浅く溜息を吐いた。
「兎葵。何でまたここに居るんだ」
「何処に居ようが私の勝手じゃないですか。貴方こそまだ学校は終わってない時間ですよ。またサボったんですか?」
「サボったとか言うな。まあしかし……サボったか。その事で怒られそうだ。家に帰りたくないんだよ」
「家が嫌いなんですか?」
「嫌い……家自体は嫌いじゃない。妹は、俺なりに大切にしてる方だと思う。ただな、それ以上に面倒が多すぎるんだ。だから……それで悩んでる」
「………………そうですか。なら何も言いません」
「そういうお前は、ちゃんと制服を着てるんだな。中学校に行ってないのは嘘だったか」
「嘘じゃありませんよ。制服なのは……気にしないで下さい。使える服が無かったみたいな、そういう事情なので」
この少女はこの少女で、よく分からない。
何故ここまで話していて落ち着くのか。知りもしない人間にタメ口を使える程俺は荒んでいない。ナメた口を聞いてくれる善人は例外として、流石にここまで距離感の近い会話はしない筈なのに。不思議な女の子だ。
態度は悪いし愛想も悪いのに、何となく懐かしい気持ちになる。この子が隣に居るだけで、優しかった頃の気持ちが蘇ってくるようだ。
「……そう言えば、妹がいるって言ってましたね」
「言ったな。お兄さん呼びをやめろって流れで」
「―――手紙を書くくらいなら、余程貴方が好きなんですね」
手紙、と言われて思い出した。妹の手紙をさんっざん読み忘れていた事を。今までの出来事を振り返るとそんな場合ではなかった瞬間しかない。落ち着けるとすれば今くらいなので、読んでみるのも悪くないか。
「読んでみてください」
「は? プライバシーの侵害だが?」
「個人情報の部分は伏せても良いですよ。退屈なんです。それくらいはいいじゃないですか」
「…………分かった。プライバシってるところは避けるわ」
ハートだらけの手紙を開封し、折り畳まれた文面を広げてみる。視界の端に兎葵の頭部が写り込もうとしたので押し退けた。
「…………………………やっぱ読むのやめるわ」
「は? 約束が違うんですけど」
「文字数が多い。こんな手紙初めて受け取ったわ。音読じゃ疲れるよこれ」
一応振り返っておくと、俺が手紙を出したのはお風呂を譲ってくれた事に対して、だ。他の家族を抑えてわざわざ譲ってくれた事が素直に嬉しくて、それでもお礼を口で言えなかったから文章で伝えた。文字数にして三〇文字くらいか。
まさかその手紙に対する返事で八〇〇文字近く書かれているとは思わなかった。
これを音読するのは単純に負担だ。言いたい事は分かったので手紙をしまう。
「……そうだ。兎葵。この辺いつもほっつき歩いてるなら金髪の女性を知らないか。服装は変わる事もあるからあれなんだけど、銀色の眼でもあるんだ」
「―――ああ。その人なら商店街の方で見かけましたよ」
「……言ってみるもんだな。一応疑うけど嘘じゃないよな」
「さあ。どうでしょうね。私は質問に答えただけです」
この娘も俺に負けず劣らずのひねくれ根性だ。俺が立ちあがるのを見届けて彼女はその場に寝転がった。心なしかその表情は喋っている時よりも和らいでいる気がする。別れの挨拶は要らないだろう。何故か心の距離が近いだけで、俺達はそこまで親密な関係じゃない…………
「―――じゃあな」
聞こえないくらいの声で別れを告げる。そこから先は、俺も知る所ではない。
「…………またね。有珠さん」




