生体の成体
個人経営の建物なら潰れていたとしてもおかしな話ではないと思っていたが、そこは無慈悲にも市立病院で、直近で行った記憶は無いにしろ、これまでの人生で何度かお世話になった事はある。この町に暮らしているなら誰だってその筈で、だから人が居なくなっている話は到底信じられなくて。
信じるしかない現実が、そこにあった。
「…………あー。本当ですね」
「式宮君は一体何の用で病院に?」
「よく覚えてないです。何ででしょう……? それにしても本当に人が居ないんですね。人が減ってるっていうか、居ないじゃないですか」
「どうやら私が見ていない内に悪化していたようです。もしかしたら君が最後の診察者かもしれません。何か思い出しませんか?」
気が付かない内に墓穴を掘っていたかと思えば、更に次の穴まで掘っていたとは感心だ。飽くまで一証言者を装うつもりが唯一無二になる可能性が生まれてしまった。先輩は建物の中に入ろうとしているが、その前にと足を止め、さながらそこを阻む門番のように腕を組んだ。
じっと俺を見つめて、挙動一つからも真意を問い質さんとしている。
「………………………………すみません。嘘です」
「―――よろしい!」
先輩の圧に耐えられず自白してしまったが、彼女は何故か喜んでいた。腹の探り合いをしていたつもりが土俵に立っていなかったと気付いたのはこの時だ。俺には真意が読み取れない。他と違うのは分かるが、一々想定した反応と実際が違ってきて、どんどん分からなくなっていく。
「……何で嬉しそうなんですか」
「他の人と違って私を警戒しているのは分かってましたから。段々素直になってくれて嬉しいんですよ先輩は! ふふ」
俺が素直になっている?
それは違う。嘘が苦し過ぎるから正直に話しているだけ。もっと言えば人が頑張って吐いてる嘘を冷酷に看破してくる先輩が悪い。抗議の視線を送り返してみたものの一人で勝手にはしゃいでいる先輩には一ミリも届いている気がしない。超えられない壁というものを明確に感じて、終いには心が折れた。
「後輩との距離が縮まったので中へ入りますか!」
「いつ距離が縮まったんですかッ?」
「あれ、違いましたか? おかしいですね。もう疑問はない筈なのに」
「ありまくりなんですけど! ていうかもう面倒なので全部突っ込みますね。まず先輩は俺と距離が……その。仲良く、なりたいんですか?」
未紗那先輩は掌を合わせて、弾けるように驚いた。
「それは勿論! 後輩と仲良くなりたいのは悪い事ではありませんよ? それに式宮君は他の人とは少々違うみたいですから」
「……それは先輩だってそうでしょ。俺の認識にどうこう言える時点で、貴方も『死体』が見えてるって事になります」
「…………あ。そう言えばそうですね! それは気付きませんでした」
気付いてなかったらしい。語るに落ちるとはこの事だが、大して取り乱していない辺り、問題はないと考えているようだ。実際その通りで、嘘を吐いている以上の事実は引き出せない。何だこの人、不具合が生じたキカイみたいなボケ方をしているぞ。
「後、俺と仲良くなりたいなんて……そんな接点はない筈です。貴方は普通と違う人間なら、ただ善人でありたいがために仲良くする他の奴等とは違う。一体何なんですか貴方は」
「ほほう。そこに気が付くとはやりますねッ。貴方の言う通り、生徒会役員は世を忍ぶ仮の姿。私の真の姿は――――――」
わざわざボタンを外したブレザーをマントのようにはためかせる。未紗那先輩は得意げな表情を維持したまま何かを言いかけたが、その内一人で首を捻るとそのまま何事もなく病院の中へと入ってしまった。多分面白い口上を思いつかなかったのだろう。
―――なんか、調子が狂うなあ。
病院の中は綺麗だ。とても潰れているとは思えない。何かの間違いで定休日になってしまったと考えた方がまだ納得が行く。しかし昼に待合室が空いているとは奇妙な光景だ。どんなに評判が悪い病院でもこんな光景は目に出来まい。もう一度言うがここは市立の病院だ。
「…………こんなに空いてる病院、初めてかもしれません」
「普段は従業員しか入れない場所も入り放題ですか。これなんか見てください。個人情報の塊です。従業員の情報とか診察者の情報とか……潰れている、と呼ぶには少々不自然ですね? 問題ありです」
一番問題なのは放置された書類やパソコンを平然と盗み見ている先輩の方だと思うのだが、俺は何か間違っているだろうか。レストランが潰れているのに平然と営業しているくらいだ、俺にとってはそこまで驚く事じゃない。あそこと違う点があるとすれば従業員すらいない事と、目に見えて状況がおかしい事くらいだ。
そして学校を離れたら白い糸がついてこなくなった。犯人は学校関係者らしい。
「―――式宮君は他に人がいないか探してくれませんか?」
「あ。はい。分かりました」
病院の一階は見通しが良く、入り口からでもある程度の視界は確保されている。当然人は居ない。人物を探すよりも糸を探した方が早いのは何の冗談だ。赤い糸は未紗那先輩にしか繋がっていない。誰も人が居ないならと禁忌の女子トイレへも中を覗いてみたが手応えはなかった。電気を点けてちゃんと確認しても変化はない。
―――電気が通ってる?
「未紗那先輩。潰れた建物にも電気って通るんでしたっけ」
「電気もタダではありませんからね。無限に沸いて出るようなものなら盗電という概念は生まれませんよ。そもそも料金をつけようがなくなるとも言えますが。電気が通っているなら楽が出来て結構です。エレベーターで上も調べましょう」
そう促されて、誘いのままにエレベーターへ。一通りの操作に支障はなく、自動ドアも変わった挙動は一切しなかった。エレベーターに乗ると普段は空気と変わりない重力の存在を強力に実感出来る。俺は気持ち悪くなるので子供の頃から嫌いだった。
「……なんか、成り行きで来ましたけど、ついてきていいんですか?」
「はい?」
「病院の件、嘘って言いましたよね」
「言ってましたねえ。しかし嘘つきなのはお互い様です。それに式宮君も病院の件を気にしてるみたいでしたから。そうでないと私に嘘を吐く意味がありませんよね」
何もかもお見通しか。壁に備え付けられた鏡を通して彼女の横顔を見ると視線が一致。暫く俺達は互いに釘付けになっていたが、エレベーターの開閉に伴い、拘束が解かれる。
「―――なので、気にしないで下さい。事情があるのはお互い様です。仲良くしましょうッ」
「…………」
仲良くがどの程度かは分からないが、思ったよりも危ない人物でないのは確かだ。少なくとも結々芽みたいに凶暴性を秘めているという事は無い。糸には繋がっているものの他の人とは違うみたいなので友人づきあいという事なら―――どうだろう。
二階も一階と同じで相変わらず人の気配がしない。エレベーターの為だけにここは通路が凹んでいるらしい。目の前の通路は二手に分かれており、どちらを覗いても人はいない。示し合わせるまでもなく俺達は二手に分かれた。入院患者もいないとの噂を確かめるべく一つ一つ病室に入っていく。カーテンが開いているお陰で確認はやりやすい。
―――何で誰も居ないんだ?
体調不良にならなければ病院は必要ないが、入院しているという事は現在進行形で体調不良という事ではないだろうか。『本人に障害を来している』物全てが体調不良なので、そう考えると入院者が消えていくのは中々不自然だ。
「あのー…………何か御用ですか?」
未紗那先輩の声ではない。慌てて振り返ると、そこには上下を白一色で揃えた看護師の女性が胸にクリップボードを抱えて立ち尽くしていた。病院ではよく見る―――というか規程の服装だ。閉店した店にも平然と従業員が出入りしていたので、これ自体はおかしい事じゃない。
「申し訳ございません。ここで入院されていた方々は手続きも経ずにいなくなってしまいまして。ご家族の方ですか?」
「…………えっと。探さ、ないんですか?」
「―――ここで入院されていた方々は自力で動くのも困難な人達ばかりでしたので、元気になったのならそれで良いと病院側で決定したんです」
その抽象的な判断は命を預かる者としてどうなのかと言ってやりたいが、死体を認識出来ないのでは仕方がない。女性は『山中』というらしい。ネームプレートにはそう書いてあった。
「そ、そうですか。えーっと、そうだ。他に入院されてる方とか居るんですか? 診察を受けてる人でも、何なら勤務中の医師の方とか!」
「は?」
「え?」
山中という女性は少し考えてから俺との距離を縮めた。
俺はその一歩に応じて退がった。
「…………? 何故逃げるんですか?」
「………………」
病院が潰れた場所にも看護師が通勤している。これ自体はおかしい事ではない。これ自体は。
おかしいのは彼女の紅い糸と白い糸だ。真上から吊るように伸びているいつものとは違い、この女性だけは背中から壁を貫通して真横に伸びている。普段見えている糸と同じようで、繋がり方が決定的に違う。
真上から伸びない糸は、初めて見た。
「…………もしかして空き巣?」
「違います。そんなクソと一緒にしないで下さい!」
山中という女性がまた近づいてくるので、下がった。
「なら」
近づいて。退がった。
「なんで」
近づくから、退がる。
「どうして」
近づく。壁も近づいてくる。
「何故、そこまで怯えているんですか?」
「下がって!」
院内に轟く甲高い怒声。看護師が振り返ると同時に飛び込んできた先輩が視界から消えるように屈むと彼女の足を払い、その顔を思い切り踏みつけた。グチュゴチュと濡れた骨肉の音が鳴り、殊更に深く足が沈み込む。
「式宮君、逃げますよ!」
「え――――――」
人間は動揺すると、頭が白紙に戻る。これよりも凄惨な死体は目撃したかもしれないが、キカイであるマキナが殺人をするのと、同じ人間である未紗那先輩が殺人をするのとでは印象が違う。結々芽と違うのなら、気軽に殺人などしてほしくなかった。
今まで隣に居たのがそんな異常者だと分かると腰が抜けて動けない。
「あ……………ぅ」
「―――ああもう、いいから早くしてください! どうせこの人はこんな事じゃ死にませんから!
言葉が右から左に流れていく。手を差し伸べられても、それがどういう意味なのかを理解できない。顔をぐちゃぐちゃにされた看護師が何事もなく起き上がろうとしているのも、先輩が俺に向かって何かを叫んでいるのも。腰が壁にくっついて離れないのも。何もかも理解したくない。
―――パンッ!
手首のスナップを利かせた本気の平手打ち。皮膚に当てられた強い痛みが一時的に正気を蘇らせた。
「貴方もあんな風になりたいんですかッ?」
「――――っ!」
未紗那先輩には糸が見えていない。だからその言葉の真意も実際は違うのだろう。だが、その言葉は他のどんな叱咤よりも響いた。赤い糸に囚われるのは嫌だ。今は何よりもその脊髄反射が優先され、壁に張り付いた腰が跳ねるように飛び出した。
「今は何も考えないで。今日は解散です。嫌と言っても帰しますから」
「………………は、はいッ」




