理外を識る声
この世界は、なんて不安定な物に支えられているのだろう。赤い糸が一本あっても二本あっても変わらない。俺達が存在している、存在していたという証拠は、全てこのか細いモノに掛かっている。
「ぁ、ぅ゙ぅ……………! うで……たしの、で!」
それは妄想。彼女に腕なんてない。今まであった試しもない。無い物をあると言い張るのは妄想以外の何物でもない。本当にあったとして、ならばその存在証明は何処にある?
「…………何、何が視えてるの。兄さんは一体何を視てるの!? 分からない分からない分からない……何なんですか!? 私にも教えてください!」
「無理だよ。この世界は、俺にしか分からない」
本人の認識出来ない領域を支配する事は出来ない。俺にも、彼女にもそれは不可能だ……いや、待てよ。そういえば俺は、誰と戦っていたのだろうか。前を見ても糸の塊しか見えない。左を見ても右を見ても赤い糸。この眼には糸以外の全てが赦されない。
聞こえる声も、触れた感触も、張りつめた糸が補完してくれる情報に過ぎない。この世界に広がる一次元の景色は、原初にして最大の俯瞰。
「…………ええ、もう。いい。もういいですッ! 貴方がその気なら私も本気で行かせていただきますから!」
波のような糸が覆い被さろうとしてくる。だが線だけの物体がどれだけ大きくても中身はこんなにもスカスカだ。切ってやれば済む話。存在証明を失くしたモノは、たとえ生物でなくとも許されない。存在の成立は森羅万象、ありとあらゆる概念に許される。許されるからこそ、認められなくなる。
「……! なんで! なんでなんで! こんな筈じゃ……!」
糸の上を跳ねながら、戦わなければならない相手に向かって刃物を振るう。糸の塊から幾らかの本数が抜け、悲痛な喘ぎ声が伝播する。
「あ゙ぐ…………! ぢがゔ……あな゙た、にい、んじゃ………………!」
「うん。俺もお前が誰か分からないよ」
「え―――」
「でもこれだけは分かる。お前は殺さなきゃいけない。この手で殺してやらないと、救われない。そうだ、俺が救ってやらなきゃいけないんだ。ああ、そうだ。だって―――たった二人だけの兄妹だったもんな」
そうだ。この世界の前提を忘れるな。他の人間とは違い、『俺』はこの前提がある世界に生まれたんじゃないか。
俺達は生まれた時から善を教えられる。
俺達は生まれた時から平和を尊ぶべきと学ぶ。
様々な道徳がある中で、それは基本的な善行だ。情けは人の為ならず、袖振り合うも他生の縁。他人に頼らねば生きていけない人間にとって他者との関係は大切にされなければいけないものであり、そこで親切をしてやればいつか良い報いとして自分に返ってくる。
ならば救うべきだ。
だから救うべきだ。
俺を助けると思って。殺すべきだ。救われるべきだ。
「…………ええ。そうですね。私達、愛し合うべき兄妹です。そうですよね。そうなんですよね? だったちゃんと、私を見てください! 可愛い可愛い妹を……ほら!」
糸がゆっくりと近づいてくる。敵意もなければ殺意もない。赤い糸が身体に絡まって、顔に覆い被さろうとしてくる。
そこで初めて、俺の視界に色が生まれた。
黒真珠のように綺麗な瞳。
艶やかで淀みない、手入れの行き届いた黒髪。
小さな体に、大きな権能。
抱いた欲望は禁断の。招いた結果は災厄に。
それでも彼女は妹だ。作為的な魔性を孕んだ、可愛い可愛い俺の妹。
「妹って、こんな美人だったんだな」
「…………有珠にーさまっ?」
「大人になったね。とても、綺麗だと思うよ」
たとえ認識が食い違っても、存在証明はここに在る。ましてこの至近距離で見誤る事はない。彼女の首筋に刃を立てて、力いっぱい引き裂いた。
「――――――かぅッ」
手折るのも容易な細い首を切り裂くと、見慣れた赤色が零れ落ちる。生命の源でありながら、それはこの世で最も簡単に人を死に至らしめる。
力の抜けた身体を支えようとすると、全身を赤色が包み込んだ。切り裂かれた喉を口のようにパクパクと動かして、妹は息も絶え絶えに語り掛けてくる。大半は血液混じりで伝わらない。溺れた人間の声を正確に聞き取れるなら、どうかその耳を貸してはくれまいか。
⁅ああ、嬉しい⁆
⁅にーさまが、私を見てくれた⁆
両腕がなくとも。愛した人を抱きしめる事は出来る。それを証明する様に、喉から吹きこぼれた色は両腕の代わりに俺の身体を一周した。
⁅遅いです。うさぎちゃんより、私を見るのが⁆
⁅にーさま。好きです。誰が何といおうとも、私が世界一愛してるんです⁆
例えばその相手が、自分を拒絶していても。
例えばその相手が、自分を殺そうとしていても。
⁅うさぎちゃんなんかにはもったいない。私だけのにーさま⁆
⁅本当の兄妹だったら、どんなにか素敵な人生だったでしょう⁆
⁅にーさま。私を助けると思って付き合ってくださいませ⁆
「―――それは、駄目かな」
せっかく取り戻した色が、再び糸に染まっていく。妹は俺に彼の幻影を見て、恍惚としている様だ。その気持ちを肯定する訳にはいかない。こんな風に変わってしまっても、俺には好きな存在が居るから。
「でも、どんなに変わっても、君はずっと妹だ」
⁅――――――酷い人⁆
⁅でも、そこがまた⁆⁅素敵です⁆
妹の身体から生命が抜けていく。身体から完全に動きが無くなったのを確認してから、俺は死体に繋がる糸を全て切り払った。これで誰も彼女の存在は証明出来ない。それらは全て妄想。それに連なる証拠を並べた所でない物はない。真っ赤な嘘も甚だしい。
「…………じゃあな、家族として、大好きだったよ」
その想いも、存在も許されない。ならば彼女が犯した罪さえもなくならなければおかしいだろう。架空の存在に一体どんな罪がある。誰かの妄想にどんな責任がある。
「―――お疲れ様。目を閉じてくれるかしら。これ以上視てると、戻れなくなるから」
言われるがままに目を閉じると、首筋に掌が当てられる。これは俺達だけの問題だと、外からずっと様子を見守っていたのだろう。その場に蹲って瞳を閉じる。視界がセイジョウになっていく感覚は、最初で最後だと信じたい。
―――――。
―――?
触れ合っていたから分かる。
「誰だ、お前」
これは彼女の手の感触ではない。慌てて目を開けて振り返った時には―――視界から赤い糸が消失していた。
「え」
「ブラボーブラボー。流石は僕の見込んだ男だ。あの子もこれで救われただろう」
マキナの声、マキナの姿。
けれど本人ではない。俺はその偽物を、知っている。
「…………祭羽むくろ」
その本当の姿は、黒衣を着たひょろひょろの男。だが今は俺の愛した女の姿。糸が視えていた時は―――いや、マキナが俺の視界についてとやかく言えるのがおかしい。確かに俺は彼女の瞳を通して力を借り受けたが、それがどういう風に視えているかなんて分からない筈だ。
もし分かる人間が居るとすれば、それはこの赤い糸の正体を教えてくれた奴だけである。
むくろは虚空を掴み、自らの口にそれを押し込んだ。今の俺には何も視えないが、彼女が持っていた『認識』の規定を食べたのだろう。
「お前、何でここに居るんだ?」
「何故、と言われてもだな。僕は君達人間がどう動くかに興味があるだけです。そして必要とあれば手助けもする。君にやった様に」
「………………お前、まさか」
むくろは手首を口の前に当てる独特な仕草で微笑んで、誰にでも分かるような自己紹介を上げた。
「そう。僕が三体目……いいや、正しくは一体目の機怪だ」




