蜘蛛の霄
兎葵のお陰で学校に間に合ったのは良かったが、やはりというべきか、結々芽の姿は何処にもない。前方の席が空席なのがその証拠だ。
「あれ~結々芽は?」
「分かんない。サボリ?」
「まあそういう事もあるだろーな」
現実だ。
だから、現実なんだ。俺を飲み込もうとした結々芽も現実で、死んだのも現実で。現実。現実って何だ? この視界の何処に現実っぽさがあるんだ?
HRが始まるまで、机に突っ伏して目を覆った。赤い糸は見慣れているがそこに白い糸も混じると想像以上に負担が掛かる。理解したくないという意味での精神的負担。早く夜になって欲しいものだ。マキナでないとこの糸を解明する事は出来ない。理解可能にしてほしい。お願いだから、これ以上訳の分からない物を視界に増やさないでくれ。
「おうおうおう。どしたよ有珠希。マスクとか珍しいな。具合でも悪いのか? 助けてやろうか?」
「……いい。要らん。別に具合は悪くないし。眠いだけだ」
「んだよマジでクソが。病院運ばれるくらい悪くなれや」
「……そんな事より、結々芽は今日、休みなんだな」
「あん? おう、そうみたいだな。まあ気にすんなよ。マジでヤバかったら助け求めてくんだろ。お前と違ってな。んな事よりお前今日は弁当を―――」
頭に入ってこない。何もかも憂鬱だ。こんなに怠いならマキナの家でだらだら過ごしてた方が絶対に良かった。間違いなく楽しかった。
―――何を考えてんだよ、俺は。
アイツとは取引相手に過ぎない。必要以上に関わる意味なんてない筈だ。アイツに会わなきゃ生きていけないのか? それは違うだろう。今まで頑張って生きてきた。これからは無理なんて道理はない。
教室の扉が開くと、喧騒がやや静まった。チャイムが鳴っていないのでHRにはまだ早い筈だが。
「もしもーし。大丈夫ですか~?」
…………面を上げる。
「…………あ、おはようございます式宮君ッ。昨日は夜更かしでもしたんですか? 眼がトロトロですよ?」
結んだ髪を肩に流した、嫋やかな女性が上から俺を覗き込んでいた。相変わらず赤い糸と白い糸に繋がっているのだが、こんな女性は見覚えがない。兎葵と違って聞き覚えもなく、大体この世界に穏やかな性格の人間は居ない。大抵、助けを断ると罵詈雑言を浴びせてくる。
「…………あ、はい。え……っと?」
「すみません先輩! こいつ寝起きなんで放っといていいっすよ! それよりも俺達と話しません!?」
―――先輩?
何だ、そうか。先輩か。なら俺が知らなくても無理はない。部活に所属すれば嫌でも上下関係が構築される訳で、クラスメイトの誰かの先輩なのだ。馬鹿騒ぎする教室で一人眠りこけるような奴はハッキリ言って浮いているから声を掛けられただけ。面倒くさい奴だ。
「未紗那先輩! 私~先輩の言った通り告白断ったら、それ正解でしたよッ。他に女が居たんです!」
「シャナセン! こないだは勉強教えてもらってあざす! またおなっしゃす!」
「部活廃部防いでくれたの先輩だって聞きました! いや、本当、有難うございます!」
随分人望があるらしい。まるで救世主の独り占めだ。誰しもが誰しもを助けたくて必死なのに、未紗那という女性を前にすると立場が逆になっている気がする。これじゃ本当に救世主というか、実際その反応は要約すると救世主様様だ。
何となく気になって見つめていると、見知らぬ先輩は俺に手を振ってくれた。
「――――――」
不愉快を、感じている。
何故なのかはよく分からない。ただ漠然と―――そう。結々芽が居なくなった代わりが簡単に現れたみたいで駄目なのだ。いや、それは言葉通りの意味ではない。稔彦もその他の人間も未紗那という女性と結々芽が違う人物で違う学年である事くらい分かっている。
ただ俺の中で空席になった場所へ座るかの如く現れたみたいで、嫌なのだ。
「……そろそろHRが始まっちゃいますね。それではこれで」
見知らぬ先輩は風の様に廊下へ出ると、丁度担任の先生と入れ違いで帰ってしまった。
「先輩が挨拶に来るなんて運がいいな! お前もそう思うだろ有珠希?」
「……俺に言われても困る。そういや、俺は自己紹介した覚えがないんだけどお前か、個人情報を売った悪徳業者は」
「は? ああ……いやあ、なんつーか。お前ってちょっと同級生の間じゃ有名なんだよな」
「何故に」
「だってお前、ぜんっぜん助けを求めてくれねーじゃん。俺ぁまあいらついてっけど、先輩みたいな聖人はお前みたいなひねくれ者もどうにか助けたいって思ってて、だから名前知ってんじゃねえの。良かったなあ!? 先輩が名前覚えてくれるなんて滅多にねえんだぞ。うらやま……いや、死ね!」
「安道君。静かにしてください」
「あ。はい」
……何故羨ましがられる必要があるのか。
好きなら告白すればいい。少なくとも稔彦は躊躇なくあの言葉を使ってしまう。
マキナみたいにすればいいのに。
「何で告白しないんだ?」
「いや、名前も覚えてもらってないのに告白とか不誠実だろ。男として」
気になったので昼休みに尋ねてみたら、こんな答えが返ってきた。なんて不誠実な男だろう。マキナにはそもそも名乗っていないから彼女が名前を憶えている筈はない。認識出来なくなって記憶から消えているのだろうが、それとこれとは別問題だ。
「お前こそこんな機会滅多にないぞ? 俺的にゃ不本意だが、告白しなきゃ男じゃねえんじゃないか?」
「……いやあ、あんまり。お前に譲るよ」
「はあ!? マジで言ってんのか?」
「まず俺の方が名前を知らないのに告白とか不誠実だろ、人間として」
「はああああああああ!?」
男女問わずクラスの全員が振り向いた。視線が集中すると全身が硬直してしまう。
「お、お前……お前!」
「ごほッ!?」
机に突っ伏すのがデフォルトの姿勢になっていたせいで稔彦渾身の膝蹴りを諸に食らってしまった。肋骨が凹み、肺が圧迫されるような衝撃。反射的に目が開き、気道が詰まった。
「あ、あ、あ、あ、ふざけてんのかッ? 未礼紗那って名前を忘れるとかあり得ねえだろ。山田とか松本とかならまだしもよ」
「未礼紗那…………ああ、未紗那ってそういう。ごほ、ごほッ! はいはい、思い出しました。思い出したよ。確かそんな名前だったな」
嫌でも警戒心が高まっていたので今度は当たらない。教室の端から投げつけられたハサミを避けると、何だか腹が立ったので校庭へ投げ捨てた。
「まあ、その未紗那先輩が何であっても、俺は告白とかしないよ。全然親しくないし、第一それ、巧妙だよな。それでカップルが出来たらお前に助けられたみたいだ」
「―――っち。いや、ぶっちゃけ半々だ。競争相手が一人減るならそれで良し。厚意に甘えてくれるならそれも良しってな」
稔彦に繋がる糸が、俺を嘲笑うかのようにケタケタと揺れた。全く腹立たしい。俺は誰一人として親切は受けてやらない。特にこんな押しつけがましい奴からは絶対に受け取りたくない。膝蹴りのせいでややズレたマスクをズラし直し(頬を隠すのはちゃんとしたつけ方だと無理がある)、今度はどんな攻撃も躱せるように向き直った。
昼飯は抜くしかあるまい。
「つっても何が不満な訳? 滅茶苦茶美人じゃん」
「…………面食いらしい回答だな。だから親しくもないのにって言ってるだろ。親しかったらまあその時次第―――」
「こんにちは、お二人共元気そうですね」
「うわあッ!?」
「あ、ちーっす未紗那先輩」
前方を警戒し過ぎて今度は後方に気を払っていなかった。ここは一階だ。話しかけようと思えば何の技術も必要ない。未紗那先輩は安穏に浸りきった笑みを浮かべると、両手の指先を突き合わせ、特に俺の方を向いて言った。
「式宮君。マスク、ズレてますよ。直してあげましょうか?
「結構です。先輩が下の学級に何の用ですか? 少なくとも俺に用はない筈です」
「用があるから来たんですよ? しかしタダでとは言いませんッ。昼食を奢りましょう。二人きりで、というのは抵抗もあると思いますから、他の人を誘っても構いませんよ?」
「誰か……」
稔彦が自分を呼べと言わんばかりの表情をしているが、こいつは腹が立つが、他に誘えそうな人間も居ない。
「誰かね…………分かりました。強制じゃないなら二人きりで大丈夫です」
「てめええええ!」
糸は繋がっているが、兎葵の例もある。未紗那先輩を取り巻く状況は異様なので、まともに付き合えるかどうかくらいは見極めたいものだ。




