想いは命の光となる
最終章です。
クデキを倒せば全てが終わると思っていた。
俺が頑張れば、誰も失わずに済むと考えていた。人を殺す覚悟があれば、たとえどんな結果が待っていても耐えられると信じていた。
そんな物は幻想にすぎない。俺は結局、どうしようもなく泣き崩れてしまった。
「せんぱ……ああ…………せん゙ッ!」
「式君……」
諒子に肩を貸してもらいながら、俺達はアイツの元に戻る。兎葵だが、彼女は暫く一人にしてほしいと言って、あの部屋から動こうとしなかった。外へ出ると何故か土砂降りの雨で、傘なんて物は持ってきていない。二人でずぶ濡れになりながら帰路についている。
「もっと近くに……寄せてもいい、ぞ。私は、マキナさん程身体柔らかくないけど―――暖かくもないけど。式君への気持ちは、負けてないんだッ」
「………………しな、しなないで。くれ。りょう、こ」
「ああ、死なない」
肩から遠い方の手を優しく繋いで、諒子が力強く頷いて見せる。
「大丈夫、死なない」
何故牧寧の元へ帰らないのか。その理由をわざわざ語る事に意味があるのだろうか。こんな精神ではとても話し合えない。対峙したくもない。今の俺のまま突っ込めば、懐柔されてしまうような気がする。
俺にとって未紗那先輩がどんなに大切な存在だったかを実感する。カガラさんもハイドさんも居なくなってしまって、俺の味方は殆ど居なくなってしまった。とても戦えたり歯向かったり出来る状態じゃない。今は何も考えたくない。ただ快楽に身を任せ、或いは微睡みに導かれ、そのまま永遠に流れていたい。
その後も諒子は何度か話しかけてくれたが、何と返したか覚えていない。厳密には自分の声が聞こえなくなった。だから無視してしまったかもしれない。どうでもいい。もうすぐアイツの家だ。クデキとの対決を経て十時間以上。怒っているだろうか。それとも喜んでくれるだろうか。いや、後者はない。何の収穫もなく帰ってきたのだから、間違いなくそれはない。
扉を諒子に開けてもらうと、マキナが胸の下で腕を組んで立ち尽くしていた。
「……………………」
白を基調とし、青みがかったセーターを着ている。マキナは俺の顔を暫く見つめた後、パチパチと月の瞳を瞬かせ、俺と諒子を家の中に招き入れた。
「……おかえりなさい! 有珠希!」
悲哀に潰されていた聴覚にも、彼女の声は良く通る。ああそれだけで、俺はまた泣き崩れてしまった。しかし今度はそれよりも早くマキナが俺を抱きしめて、その泣き声を胸の中だけで済ませようとする。身体は俺よりずっと小さいのに神話の女神を思わせるような母性を感じている。今はただ、邪な感情もなく、無上の柔らかさに甘えていた。
濡れた身体を気にも留めず、マキナは優しく俺の背中を撫でる。
「何があったかは分からないけど、大丈夫よ。私はここに居るんだから。有珠希が怖いモノは全部追っ払ってあげる! だから泣かないで? 私、貴方の笑ってる顔が好きなのよ? 嘘、本当は全部好き。でも有珠希が悲しいのは嫌よ。楽しくないもの」
身体が暖かい。キカイの体内で生成される熱は皮膚を溶かし、骨を癒着させるようだ。こんな優しく受け止められてしまったら、耐えられない。涙が零れ、悲しみが溢れ、彼女の服に染み込んでいく。
「ご飯、ちゃんと作ったんだから、食べましょう? 辛いなら、私が食べさせてあげるッ」
「あ、ちょっと……私、風呂入りたいんだ」
「あら、そう。だったら待ってるわね。せっかくなら私も入ろうかしら。有珠希と一緒に!」
「え…………あ、いやいや! 式君の服はもう乾いちゃったし……や、やめた方がいい、ぞ?」
「そう? じゃあリョーコが出てくるまで二人で待ってるわね」
空気を読んだつもりはないだろうが、諒子が脱衣所に行って二人きりになってしまった。会話をする人が居なくなったので沈黙が訪れる。特別気まずい事はない。身体の接触を通して俺の悲しみを彼女が引き取ってくれているようだ。
顔を上げると、月の瞳と目が合った。俺が顔を上げてくれた事が嬉しくなって、マキナはニコニコ微笑んでいる。
「…………マキナ」
「なあに? ウフフ♪」
「―――ただいま」
朝のお返しと言わんばかりにキスをする。廊下でマキナを押し倒し、全体重で彼女を組み伏せながら唇を貪る。
「ん…………ん…………! う、ず……ッ」
マキナは足をバタつかせながら抵抗をしようとしている。力が全く入っておらずされるがままだ。顔を真っ赤にして身体を押しのけようとしてくるが、それはまるで子供のようにか弱く、何の拮抗状態にもない。
五分程して唇を離す。彼女は顔から蒸気を噴き出しながら嬉しそうに自分の口元を撫でていた。
「…………おかえりなさい、有珠希。何があったのか、後で聞かせてね? それと、今日くらいは三人で寝ましょうか」
「………………気にならないのか?」
「気になるけど、貴方を元気にするのが先よ。話はそれからでも遅くないわ。大丈夫……」
キカイの瞳が、十二刻と言わず六十刻を刻む時計に切り替わる。時針と分針はでたらめに回転し、秒針だけが正確に刻を刻んでいる。
「『夜』は長いわ」
多少元気を取り戻せたのは二人の献身があったからだ。きっかけさえあれば立ち直るのは早い。心の中にはまだまだ深い傷が残っているものの、会話するのも困難なくらい泣くのはやめた。まだ全部が終わった訳ではないのだ。思考放棄にはまだ時機が早い。
食事と入浴及び就寝準備をしっかり済ませたのにまだ五分しか経過していない。この部屋全体の『刻』が改定されている様だ。食器は『清浄と汚染』の力で一括洗浄を済ませて、俺達はベッドの上で三人、ぼんやりとテレビを眺めていた。
糸の事なんてどうでも良くなるくらい、この時間が愛おしい。諒子はベッドの端に座っているだけだが、俺とマキナは二人で抱き合いながら視聴を続けていた。今更気づいたが、現在彼女が来ているセーターは背中がバッサリと開かれており、生地などというものは存在しない。背中を擦れば滑らかで柔らかで艶やかな肌を撫でられる。下着の金具に手が触れる事もないので、気まずくもならない。
全身で幸せを感じて気分が高揚しているからだろう。背中の穴から衣服に手を滑り込ませて、マキナの脇腹を擽るまでになっていた。
「…………くすぐったぁい!」
「し、式君…………言わなくて、いいのか? クデキの事」
「ちょっとー。邪魔しないでよー。やだもう有珠希、やめてもうねえ。ウフフ、ウフフフフ! 頭がフワフワしてきちゃった……」
「………………そうだな。そろそろ、言うか。ごめん。でもまた泣くかもしれないから、諒子。補足があったら頼む」
「え……ああ。任せておけ」
マキナから手を離して、大の字に寝転がる。改めて向き合おうとするだけで体の力が抜けそうだ。だから二人から離れたのに、マキナの方は遠慮知らずで距離という物を知らないようだ。すかさず俺の上に跨って、身体を前傾気味に顔を近づけてくる。
「それで? 何があったの?」
「…………クデキは、お前の部品を持ってなかった。アイツの部品が少なかったのは人間を死なせない様に分割してたからだ。そもそも俺の中にアイツの部品があったのは―――なんて言えばいいかな。本物の俺っていうか、俺はアイツにコピーされた偽物らしい」
「式君の妹も勘違いしてた。私達と意見が合わなかったのは、そういう理由なんだ」
「ふーん。そっか。でも有珠希は有珠希よ。貴方じゃないと、好きじゃないわ」
「それで…………えっと。お前の部品の所在は分からないけど『認識』の規定の場所は明らかになった。本当はそいつから返してもらうまで帰るつもりはなかったんだけど……さっきの俺じゃ無理があるだろ。だから、帰ってきた」
「…………マキナさん的には敵の未礼紗那って人が死んだんだ。式君を助ける為に自分の命を差し出した。私も一緒に助けてもらったから詳しくは分からないんだが……式君の妹が、そう言ってた」
「でも、何の成果もないって訳じゃない。『認識』の規定だけは……ちゃんと分かって。明日、それを取りに行こうと思―――」
「はい。もう十分よ有珠希」
マキナは俺の唇にそっと指を置いて、艶やかに口元を緩めた。
「要するに、明日まで待てば全部の部品が戻ってくるんでしょ? 『認識』があるって事はそういう事よね? だったらいいわ、もう一日だけ待ってあげる。それよりも夜は長いんだから、別の事をしましょう? せっかくだからリョーコも一緒に」
「わ、私もか? それよりもまだ話を聞いた方が」
「話してるだけで辛そうなのに、そんな事させられないわ。私ね、貴方が出かけてる間色々調べてたの。ニンゲンの愛し方とか、そういうのね。それで楽しそうだと思ったのがあるのよ。好きな所を言い合いながら身体を触るんだって。ね、どう? 有珠希。きっと元気が出るわよ? 明日に備えると思ってやらないッ?」
「…………………………は、はは」
心の傷は塞がらない。こゆるさんを殺した時の様に、生涯俺を傷つけるだろう。だが今は、それすらも知った上で『有珠希が好き』と愛を示してくれるマキナに溺れたい。こんなに元気一杯に振舞われて、こんなに俺の身を案じてくれて。
いつまでも元気を出さないのは、おかしいだろう。
「いいよ。やろう。せっかくだから電気も消して、寝るまでな」
「―――式君。ノリノリだ」
「諒子は乗り気じゃないか?」
「…………いや、付き合うぞ。式君がやるなら」
キカイの手で電気が自動的に消灯される。部屋の物が何一つ見えなくなる中で、マキナの瞳だけが、煌々と輝いて俺を見つめていた。キスをするくらいの距離まで顔を近づけると、その輪郭をぼんやり捉えられる。
背後に感じる気配は諒子だろう。耳元に彼女の吐息が聞こえてくる。振り向こうとしたが、マキナがそれを許さない。俺の腕を優しく掴んで、首を軽く振った。
だめ。わたしをみて。
「…………それじゃあゲームスタートね! 私から始めるわ。うーんと…………」
「私を見る眼が好き」
暗闇で顔が隠されるのを良い事に、マキナは俺にキスを求める。最早恥ずかしがる道理もない。隣に諒子が居ても、今の俺には断る胆力なんてないのだ。
「世界で一番綺麗なその髪が好きだ」
俺達だけはルールが違う。互いの身体を触って、好きな所を言う度にキスをする。誓いを交わす。明日で全てを終わらせる為の決意をする。
「…………………え、えーと。式君の全部が、好き?」
「そんなの駄目! 終わっちゃうじゃない!」
ゲームの継続は建前で、彼女はキスの口実を欲している。兎葵が居たらそう言うだろう。だから俺は叶えてやる。このセカイで一番可愛い女の子の願いを、俺だけが叶えられる。
自分の番が来るまで、俺達は互いの心臓に手を当てながら、愛を噛みしめるように長い口づけを交わすのだった。




