ミライの中心で愛を捧ぐ
もう現実なんてうんざりだ。夢でも記憶でも何でもいい。俺は俺の好きなようにしたい。だがこれが何の能力か、俺は夢かそうでないかをハッキリ見分ける事が出来る。起床してよくよく考えれば夢で当然と思い直す人間は要るだろうが、夢の中で夢と気づける人間は珍しい。どんなに夢が荒唐無稽であったとしても、中々脳は現実以外の視方をしてくれない。
「…………」
俺は、学校に居た。
とても平和な授業風景だ。結々芽も稔彦も居る。彼らに限った話ではなく、人間の誰にも糸は視えないし、俺は普通の同級生として場に溶け込める。求めていた日常はここに。最初に臨んだ結果は、これだった。
「式宮君? 授業中に寝ちゃ駄目ですよ?」
「…………え」
窓の外から声を掛けられて視線を向けると、未紗那先輩が体操服姿でお腹にボールを抱えていた。ここを通り過ぎようとしていたのだろう。何故胸ではなくお腹かと言われたら、多くは言うまい。ボールの行く手を阻む大層な壁が邪魔で、そうせざるを得ないのだ。
「……先輩は何してるんですか?」
「ドッジボールです」
「…………高校でドッジボールなんてやった覚えがないんですけど」
「たまには企画するのもありでしょう。社会で生きていくには自発的な行動力が求められるのですよ? それを邪魔する先生は、果たして教師としてどうなのでしょう」
「はあ……まあコマ割りが大丈夫なら何も言いませんけどね」
飽くまで俺の近所の話だが、中学に比べて体育の授業が窮屈と言われるのはこれが原因だ。昔は時間さえ余ればドッジボールをやる事もあったが、高校にそんな余裕はない。体育祭ならばいざ知らず、今はそんな季節ではないし。
だが精神年齢とも外見年齢とも言い難いがとにかく小学生な先輩なので、発言を一々問いただしても不毛な気はしている。遊び盛りの子供は五分からでも無限に時間を捻りだして遊ぶ。そういう生き物なのだから。
「式宮君も如何ですか?」
「は? 授業中なんですけど」
「大丈夫です。だってここは夢なんですから」
――――――。
「あ、本人ですか?」
てっきり俺の中のイメージがこんなポンコツな事になっているのかと思ってしまったが、本人ならば納得だ。何事もなく平和で、俺と健全な出会い方をしたならこういう会話をしていても不思議はない。ただしそれはあり得ない仮定。マキナが絡まなければ俺達は一生赤の他人だった。
「…………何処に行くんです? グラウンド?」
「屋上って、フェンスもあってフィールドには丁度いいですよねッ。それではお先に」
「あ、ちょっと待って下さい! 本物の先輩なら聞きたい事があるんですけど……俺は一体何を見せられて、貴方は何をしてるんですか?」
「それはあちらで話しましょうか。勿論信じられないなら来なくても構いませんよ。大丈夫、君が来なくても、私にとっては都合が良いので」
む、そんな言い方をされると気になってしまう。夢の中だからと学生としての行動に反するのはどうかと思ったが、本物の先輩がこんな所で何をしているのかはどうしても気になる。先輩は既に教室を通り過ぎてしまった。後を追うように俺も教室を飛び出して屋上まで駆け足で上る。名目上は体調が悪いという事になった。
―――こんな呑気な事してる場合じゃないと思うんだけどな。
現実がどういう状況かを分かっていない先輩ではない筈だ。それともやっぱり夢の中の先輩なのだろうか。いや、それはないか。夢の中の人物がここは夢だと言い出すなんて妙だ。どうせならもっと役割に浸ってくれと。
屋上の扉を開けると、不意にボールが飛んできた。
「うおッ」
半ば反射で受け止めると、前方で先輩がパスを所望している。小学生の頃から男女対抗戦をやると決まって男子が勝つと言いたかったが、先輩と俺の差はその逆で絶望的だ。全力で投げ返したが、片手で包むように受け止められてしまった。
「このタイマン、勝ち目なくないですか?」
「まあまあ。楽しみましょう」
「いや、だから―――」
「今は君を治療中です。お願いですから少しでも時間を稼がせてください。『生命』の規定にも限度はあるんです」
それでようやく意図を知った。確かにそういう目的なら俺が来ても来なくてもいい。強いてそこに二択を作るなら、束の間の平和を味わうか、それとも先輩と向き合うか。俺は後者を選んだ。
「あっちはどういう状況なんですか?」
「どうもこうも、私が何とか追いついたら君と祇末さん、それとクデキさんが倒れていて―――羽儀さんが泣いて助けてくれと頼んできたので。こうするしかないかな、と」
「クデキが倒れていたんですか?」
するとアイツも全然無事なようで、ちゃんと致命傷は負っていたのか。これだからキカイは分かりにくい。致命傷なら致命傷だとハッキリしてくれないと、危うくそのしぶとさに絶望する所だった。フェンスを使った変則パスも先輩は軽く受け止める。やり返されると、俺は無理。
「仕方なくとは言いませんよ。こういう機会が、あともう一度だけ来てくれたらと思っていたんです。ずっと聞きそびれていた事がありましたから」
未紗那先輩がボールを明後日の方向に投げてしまった。山なりに高く上がったボールはフェンスを越えて一階へ。奇跡的にプールの中へと落ちてしまった。
「…………取りに行きましょうか」
「マジですか」
考える暇もなく先輩が俺の手を引っ張って軽やかに階段を下りていく。体操服姿で校舎を無邪気に走り回るその背中には、年齢通りの面影が残っていた。ああ、この人は本当に心の底から、こういう生活を望んでいるらしい。
なんのしがらみもなければ。
なんの事件も起きなければ。
俺と何の関係もない所で、こんな風に生きていたのだろう。
「ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。納得出来ませんでした。式宮君。君はどうしてあそこまでキカイに入れ込んでいるのか。クデキさんではありませんよ。何を言われても納得出来ない。私には到底好きになれません」
「…………うーん。まあ、そういう事もありますよ。二人が分かり合えないのは俺も良く分かってますから」
「私もそれを承知の上で、改めて尋ねたいです。何が君をそこまで夢中にさせるんですか? 他に代わりはいないんですか?」
「いませんよ、そんなの」
プールに到着した。ボールは緩やかな風に流されてプールの中央で浮いており、身体を濡らさずに取るのは不可能になっている。長い棒でもあれば突っついて端まで寄せるのだが。先輩は何か使える物がないかと探しに行ってしまった。
―――俺がアイツを好きな理由か。
人を好きになる理由は、一つとは限らない。無限に好きがある。無限に愛がある。俺がどんなにマキナの味方である理由を説いても彼女は納得しない。ならば一体どんな理由を語ろうか。どんな理由なら、この人を納得させられるだろう。
答えなくてもいい。これは治療の合間に起きた夢だ。時間さえ経てば勝手に目覚めるが、そんな理由で未紗那先輩の疑問を無視してしまって良いのだろうか。気まずい質問をされた訳ではない。俺はただ疑問に答えるだけ。この胸の中で今も輝く気持ちを、どうにか言語化しようとしているだけ。
「答えは決まりましたか?」
「……まあはい。その―――え」
先輩が取りに行っていたのは長物ではなく、スクール水着だった。確かに『使える物』だが、これ以上なく実用的だが。突然視界に入った水着のせいで思考が漂白された。アイドルに負けず劣らずのスタイルに思わず目を引かれ、見惚れてしまう。学年も違えば季節も悪い。先輩の水着姿をこんな形で拝む事になろうとは。
「……………………ぼ、ボール取りに行くだけなのに着替えたんですか?」
「何事も形からですよ。式宮君も如何ですか?」
「着衣泳ですか? あーまあ…………夢だしいっかあ」
「ふふ、決まりですね。それでは一緒に入りましょうか。手を繋いで」
俺は普通に繋ごうとしたが、先輩の指がめり込んで恋人繋ぎになってしまった。ああでも、こういう授業があるなら喜んで受けるだろう。先輩と一緒の授業はやりすぎでも、男女でペアを作って泳いだり遊んだりする授業は―――高校じゃあり得ないか。あり得ないからこそ、欲したい。
「俺はクデキと戦って、自分の正体を知りました。俺は勝手に交渉の道具にされて、都合の良い性格を演じる人形で、きっと最初は誰でも無かったんです。兎葵の為、牧寧の為、有珠の為。最初から俺はその場の誤魔化しだったり、理想の兄だったり、心臓の避難所だったり。人間としては不自然なくらい生きる意味があり過ぎた。おかしな話ですよ。糸が視えて周りの人間が人形劇の人形に見える奴が、一番傀儡だったなんて。でも、そんな俺を人間として扱ってくれたのが、マキナなんです」
「…………それが、全ての始まりだったと」
「アイツの方は、人間をよく知らないから人間扱いしたくらいの気持ちかもしれません。でもそんなアイツが居てくれたから、俺は傀儡を抜け出して、本当に人間になれた。アイツが俺に向けてくれる感情が、最初どういう物であったとしても嬉しかった。感情豊かなマキナが、俺にその土壌をお裾分けしてくれたんです。アイツが居たから大好きな先輩ともカガラさんとも知り合えた。世界で一番大切なトモダチの諒子とも出会えた。兎葵とは喧嘩もしましたけど……『式宮有珠希』として触れ合えた」
「―――否定はしません。アレが居なければ、君の奇行に目をつける事もなかったので」
「生きる意味があるだけの生物に過ぎなかった俺が人間になれたのはアイツのお陰です。そのせいなのかもしれませんけど、俺はアイツが欲しい。太陽のような明るさに目を焼かれ、水のように透き通ったまっすぐな声に耳を包まれ、比類なく燦然と輝く星々のような美しさに恋焦がれてしまいました。人間として間違っている。そんなの知っています。生物としても間違っている。そんなの分かっています。キカイに恋した自分がおかしいのは、当たり前です」
先輩がボールを手に取ると、そのまま真上に投げ飛ばしてしまった。高く何処までも上った球体は決して落ちてはこない。
「それでも、好きになったんです。それでも、欲しくなったんです。それでも、離れてほしくなかったんです。どうしようもなく、アイツの全てが欲しい。いつまでも自分の手元で愛でていたい。そんな強欲な自分が恐ろしくて、ずっと言わなかったんですけど―――先輩がどうしてもって言うなら、この際ぶちまけます」
理不尽な所も。
すぐ不機嫌になる所も。
すぐ機嫌を直す所も。
人間に無知な所も。
繊細な気遣いをしてくれる所も。
甘えたがりな所も。
愛情表現に疎い所も。
衝動的な感情に全く抗えない所も。
本当にちょっと強気に出たら、ふにゃふにゃになる所も。
力の差は明白なのに、敢えて俺に負けようとする所も。
何処までも自分に正直な所も。
「式宮有珠希として。この男の何もかもを懸けて―――俺は、楠絵マキナの全てを愛しています」
「――――――」
未紗那先輩は聞き入った様に瞬き一つしなかったが、やがて自分の顔に水を被せて、パタパタと手団扇で風を送った。その顔は水の中に居るとは思えない程、赤く染まっている。
「も、もういいです。十分です! そんなに恥ずかしい事、良く言えましたね……私まであてられて、なんか恥ずかしくなってきました」
「納得してくれましたか?」
「………………非常に悔しいですが、私の負けです。そこまで言われたら、勝ち目なんてある訳ないじゃないですか」
「―――いつから勝負してたんですか?」
「勝負はずっとしてましたよ…………はぁ。ではそんな君に敬意を表して、私も正直に伝えようと思います」
その時、丁度ボールが落ちてきた。偶然か否か、落下地点は俺と先輩の間。繋いだ手の真上であり、この近距離では彼女の顔を見る事が出来なくなっている。
「君が、男の子として好きでした」
未紗那先輩は気にも留めず、俺に習って己の気持ちを吐露する。
「初恋かもしれません。初めてまともに作った関係だからでしょうか。理由なんて何でもいいんです。ただ、君を独占する女の子がいると聞いてから、全然、冷静ではいられなくなりました。それがキカイなら猶更―――私は幻影事件で両親を失っています。その恨みをキカイにぶつけていたのは決して嘘ではありませんが、君といる間だけは……この気持ちを否定されているみたいで、許せなかったのです」
「…………そう、ですか」
「私の物にならないならいっそ殺してしまおうかと思った日もありました。でも殺せませんでした。だって好きだから。好きな人に手を出してしまって、私は戦うのが怖くなりました。だからせめてそれ以外の所で役に立てればと思い―――こういう機会に恵まれた事を喜ばしく思っています。君に対する恩返し……いいえ。私の気持ちの代わりとして。助けられるなんて。それはなんて素晴らしい事でしょう」
夢の景色が砂の様にざらついていく。一昔前のテレビの様だ。先輩の声にも砂利が入ったのか声が滲み、上擦り、聞き取りにくくなっていく。
「本当に本当に悔しいです。催眠術でも何でも、君の気持ちを今すぐにでも向けられるなら何でもしたい。でも今のを聞いたら、無理ですよ。勝てる訳ないんです。勝てたら苦労なんてしないんです」
「先輩……俺、貴方の事は異性としても好きですよ」
「でも一番ではないのでしょう? 私は君の心が、全部欲しかった。だってまだ子供ですから。独り占めしたかったんです。今はとても、キカイが羨ましい。君に愛されて、君に求められて、彼女はどんな気持ちで過ごしているのでしょう。それを想うだけで私は、頭がおかしくなりそうです」
「……あの、先輩」
「正直に言うのは良いんですけど、流石にそこまで言われたら現実の方で話すの気まずいんですよね」
「………………」
しばらくの沈黙。再び景色がザラついて、先輩が呟いた。
「―――では、今のは聞かなかった事に」
「えええ!?」
「もう、雰囲気を読んでください! せっかくお互い様って事にしようと思ったのに君ときたら……!」
「す、すみません……だってそんなに言われた後で気軽に話しかけられる訳ないですし」
「それはそうですけど! ―――ああ、なんて馬鹿な人を好きになったんでしょう。もう時間が来てしまいました。束の間の夢もお終いですか」
景色のザラつきが深刻になっていく。映像としての景色は薄くなり、全面に砂嵐が押し出されていく。先輩の顔も見え辛くなればプールの水もハッキリしない。
「『生命』の規定に感謝して下さい。君を助けられるのはこの力しかなかった。目覚めた後は精々―――恩人として扱う事ですね」
「世間じゃそういうの恩着せがましいって言うんですよね」
「お嫌いですか?」
「いやまあ、嫌いじゃないですけど。でも先輩は元々恩人だから、あんまり何か変わるとは思えないですね」
「へ?」
「今は手遅れですけど、俺は先輩と学生として過ごすのが好きだったんです。貴方が通ってくれるなら、居心地の悪い学校も通い続けたかったくらいにはハマってました。なので少し前までは先輩も日常の象徴でした。貴方と学校で出会える限りは平和なんだって。実際、喧嘩するまではそうでしたし」
「――――――そんな嬉しい事、言わないで下さい」
砂嵐に邪魔されて、声はもう聞こえない。
「せっかく諦めたのに………………また好きになっちゃうじゃないですか。有珠希君」
夢の空間を脱して現実に戻る。感覚として目を開けると、先輩の顔が映り込んだ。彼女は俺にマウントを取るように四つん這いになって、俺の胸を枕にするみたいに眠っている。胸から生えた木の枝が俺の胸に寄生して、その根を身体全体へ広がらせていた。痛みはない。身体が欠損している感覚も。何事もなかったかのように、この身体は健全だ。
「…………先輩?」
間もなく、身体を縫う木が枯れた。隣で同じ『毒』を食らっていた諒子の方も同じだ。あちらはまだ目覚めていないが、穏やかな寝息が聞こえてくる。
「……………………俺の負けだ、有珠希」
部屋の壁に凭れるようにクデキが座り込んでいる。隣には兎葵が居て、つい先ほどまで何かを話し込んでいたのだろう。泣き虫な妹が、また泣いていた。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「お前は生命を助けられた。所詮は有珠の代わりとしか見ていなかった俺には計算外だ。つまり、お前は代わりにはなれない。何故ならお前は羽儀有珠ではなく、式宮有珠希だからだ」
「言ってる意味が分からないぞ。それでも決着はついていないのに」
「残念だが、首を刎ねられた時から限界だ。有珠の肉体に沿わなかったニンゲンのパーツは俺が代わりに使っている。今の俺は半分以上ニンゲンだ。この身体ではどうにもならない。今の『毒』が最後だ。最早俺には、己の力を使う体力さえない」
上体を起こすも、先輩の身体が重くのしかかる。この人はいつまで眠っているのだろう。諒子の隣にそっと置いて、クデキの目の前まで近づいた。
「安心しろ―――死にはしない。ただ、少し眠るだけだ。ほんの少しだけ……疲れた。兎葵。悪いなあ、迷惑。かけて」
「………………クデキ、さん」
「有珠が。幸せなら。それで。良かった、んだ。何があっても。俺が。守れば」
クデキの瞳は光と色を失って、濁った黒に染まっている。そんな瞳を、最後は残り火のように照らして、奴は俺の顔を見上げた。
「………………少し。眠る……だけだ。それくらい…………いい、だろ ? がんば……た、ん。だ。なあ………………………あり、す」
ヒューンと電源の落ちるような音と共に、クデキは動かなくなった。泣き声が収まったと思ったのも束の間、兎葵が再び泣き出した。今は放っておいた方がいいだろう。仲良く眠る先輩と諒子の元へ駆け寄り、身体を揺り起こそうとする。
「………………え」
先輩から、寝息が聞こえない。身体にはまだ熱が残っているかと思いきや、俺が触った個所から急速に熱が失われていく。
「せ……………………………せん」
現実で話すのが気まずい。
そんな事はなかった。
だって未紗那先輩は、もう二度と目覚めないから。
気まずいも何も、話せないのだから。
「あ………………あ゙あ゙…………せん、パイ…………!」
『死』の規定がなければ蘇生出来ないとクデキは言った。助けられるのは『生命』の規定しかないと先輩は言った。つまりこの人は、自分を…………
「なん、で゙、なん゙で……! あ、あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙………………!」
先輩は俺に未来を譲り。
クデキは動かなくなった。残すは、黒幕にケリをつける事だけだ。マキナの為に。俺の為に。
式宮有珠希として、生きる為に。




