誰が為の規定
先輩の力には頼れない。『生命』の規定は元々クデキの力だから。
マキナの力にも頼れない。間接的な協力は得ているものの、本人が来なければ殆ど無意味だ。
人間の人生は一度きり。俺のチャンスはこれっきり。幾度となくカガラさんに殺害されたが、やり直しはない。俺は俺自身の引き出しを全て使って、このキカイに勝たなければいけない。勝算はある。無いなら作る。作らなければいけない。真実を明らかにする為に。部品を必要とするマキナの為に。
アイツが怖がって伝えなかった事とは何だろう。
気になっている。気にしている。今が夜なら眠れない。たとえ一秒後に世界が滅んだとしても死ぬにはあまりに未練が残っている。だから俺は帰らないといけない。アイツはきっと、ご飯を作って俺を待ってくれている。
扉を開けたら、両手を広げて、元気いっぱいに俺を出迎えてくれる。そうに違いない。そうであって欲しい。俺はそれを望んでいる。全身で喜んでくれるマキナが、たまらなく愛おしいから。
ああ。
なんて。
甘く痺れるような、頭痛だろう。
今の俺には全てが視える。カガラさんと戦った時以上に。そうでないと話にならない。次に死ねば終わりだ。こゆるさんの時と同様、一発も当たらない覚悟で臨まないといけない。不安はない。今なら出来る。神経の焦れた眼球も、空気の感触さえハッキリした触覚も、すべてはこの時の為だけに。
相手はカガラさんのように知り合いではない。殺すべき、相容れない、絶対的な敵。人間的な倫理がどうであっても殺すのに微塵の躊躇いもない。
『速度』の補助を受けた踏み込みと共にナイフを突き出すと、半身になって躱される。そこまで視えた上で実行した。クデキが絶対零度の拳で俺の顔を砕かんとしたが、返し手で腹部を狙う軌跡に気づいた途端、更にもう一歩引いて仕切り直す。
「…………なんだ。お前には何が視えている?」
「いたぶろうなんて考えるからだ」
再び俺の方から距離を詰める。素人の牽制は無意味だ。一突き一突きを当てるつもりで振るも当たらない。それでいい。六回目でクデキが腕をもぎ取ろうと反撃してくるので、掴まれたのを確認してからその右目を殴りつける。
「…………ッ!! な」
砕けた眼窩、むき出しの神経にナイフを滑り込ませて柄尻を手槌で押し込むと、クデキは短い悲鳴を上げて仰け反った。距離を取りたいようだがそれを許せば俺の敗北が確定する。刺さったナイフをすぐに抜いて、喉と心臓とを続けて貫く。
赤い糸は、『意思』の規定の管轄外。
何故そうなっているかは分からないが、俺の手の内を全て把握していると勘違いしてるポンコツにはこれ以上なく効果覿面。所詮は人間と見くびった結果がこの代償だ。『刻』との闘いで明らかになった様に、いくら先が視えていても相手の動きが速すぎれば幾らでも後出しじゃんけんをされて勝てない。
それはそうなのだが、クデキはそもそも人間を舐めていた。最初の遭遇にて手も足も出なかったから当然だ。傷など付けられる訳がないと思って余裕を残した。それが最初の一撃に繋がり、動揺に繋がり、ここまでの状況有利にまで繋がっている。
「よくも。カガラさんを殺してくれたな」
クデキの身体を抱きしめて、そのうなじを力任せに引き裂く。現実的でない温度が俺の身体を融かさんと掴んできたが、鼻先に向かって頭突きを叩き込もうとも、その手が俺の身体を離す事はない。百万、一億、三兆度。際限なく上がる非現実的な温度に触れて―――俺の体に変化はなかった。
「……な、ぜ」
『毒』と『温度』以外は判明していないが、そもそも使わせなければどうという事はない。密着から鳩尾を突き刺し、そのまま脇腹までを引き裂いた。
それで、クデキは大理石の床に崩れ落ちる。
相手はキカイなので出血はしないが、これだけ身体を壊せば何が致命傷かなんて関係ない。『傷病』はマキナの管理下であり、クデキの体内にはそれに類似した規定が存在しないようである。
「……よくよく気配を探ってみれば、そうか。お前の血は改定されているな」
「人間と違って瀕死の時も元気なんだな。そうだ。もしかしたらと思ってたんだけど、やっぱりそうだよな。お前達キカイは基本的に争う事がないんだろ。だから片方が支配下に収めた物体に対して上書きが出来ない」
俺の血液は、『強度』の影響を受けている。クデキが『温度』で操ろうとしたのは自分の身体ではなく俺の肉体。凍死させようとしたが改定出来ず、自動的に対象が己に変わったのだ。
「……いつ気づいた」
「マキナに食らわせた毒……あれはアイツが代替品に使ってる場所を蝕んでた。それでも死に至らなかったのは『傷病』の規定があったからだ。だけど単なる毒ならアイツはあんなに弱らないしそもそも完治する。お前の『毒』も『傷病』も同じ力の源流だったから拮抗したんだ」
そして俺のナイフも『強度』で補強されている。硬度が高すぎて刺さらないかもしれないという危惧はあったが、それでも武器が失われるという事態は避けられる。
話している間にクデキが立ち上がった。俺だって近づきたかったが、奴の周囲に覚えた違和感がそれを許してくれなかった。間もなくその不安は実に正しかった事を思い知る。
空気に重さを感じるようになったのは、クデキの瞳に六芒星を捩じったような網模様が現れた時からだ。
その重さは雰囲気的な物ではない。空気の流れが完全に静止している。風とまではいかずとも、物体が動けば大なり小なり空気は動くというのに、自我を持ったような空気は頑として動かない。結果として大気中に漂う粒子の重さを味わう事になっている。
床はその輝きを俺にのみ向け、窓から差し込む光はあらゆる要素を無視して俺にのみ向けられる。オゾン層で緩和されている筈の紫外線が、直接的に降り注ぐ。『強度』を血液に使ってもらったのは幸運だ。こんなに強い光は、まともな人体に浴びる物ではない。
時間は苦痛を長引かせるように遅くなり、地に根を下ろす建物は自らを破壊するように激しく震え、ひび割れた壁から季節外れの吹雪がまるでクデキを助けにきたかのように吹き込んでくる。
―――ああ、そうか。
これに似た現象を知っている。マキナが怒った時だ。周囲の空間全てが彼女の味方をするように、或いはキカイの怒りの矛先から逃れようと自ら人類を裏切って、意思を持った世界が敵視された人間に牙を剥く。
クデキの髪から赤銅の錆が落ち、焔のような唸りを上げる。瞳の網は導火線。一度点火された輝きは加速度的に刻まれた模様を焦がし、変形させ、九曜巴のように分裂した。
「ワレハ『秩序』ヲ統ベルモノ」
辛うじて首に存在していた糸が千切れ―――跡形もなく、消え失せる。
「ダウヨイナレライテッイモウソガダ。ナラカダスリアハチタカタガス。タッカナハクタシダヲキンホ、リマア」
「………………!」
身体中に負った傷が塞がれていく。吹雪が傷口を埋め、自然発生した焔がもろともに身体を灼き、それで何故か治療が成立している。あらゆる環境が奴の味方だ。俺に勝ち目はないだろう。赤い糸も白い糸も青い糸も、あらゆる要素が焼き払われて、俺の視界は一般人になった。もうこれ以上打つ手はない。人間がキカイに勝つのは不可能…………か?
「―――お前のせいで、俺の人生は滅茶苦茶になった。そんな風に威圧したって、俺は恐れない。報いを受けろ、クデキ!」
「イナャジノモスダクガエマオハレソ」
ナイフの腹を翳し、俺は自分の頭上を見つめた。俺こと式宮有珠希に糸はない。自分でもそう思っていた。マキナと出会う前、赤い糸が繋がった時に取り乱したのはそのせいだ。だが『セカイ視』を使っている内に分かった事がある。元々俺にも糸はあったのだ。ただそれは、無色透明だったばかりに視えなかっただけ。そうでなければマキナが触れない。あの時赤くなっていたのは彼女に干渉され、間接的に視覚化されたから。
クデキに糸がないなら自分のを見ればいい。ただそれだけの話だ―――!
「ねえ待ってよ! やめてよ二人共!」
待っていろと言われていたにも拘らず、兎葵が俺たちの間に割って入った。あんなに張りつめていた空気が和らいだのは、クデキが目を瞑ったからである。
「……………………ダズ。待っていろと、言った筈だぞ兎葵。大丈夫だ、もうすぐ終わる。直ぐに元通りになる。有珠は帰ってくる」
「そうじゃない! ねえ有珠希さん! 貴方もやめてください! マキナさんを見て知ってるでしょ!? 勝てる訳ない! 死んじゃいます……死ぬんですよ!?」
「俺は死なない。必ず勝つ。お前はクデキに言われた通りそっちで待ってろ」
「~~~! 二人共、何で私の言葉を聞かないのッ? ねえやめて! お願いだから! 私を助けると思って戦わないで!」
「却下だ」
「無理だ」
「―――私は! もう誰にも置いて行かれたくないの! 有珠希さんにも有珠兄にもクデキさんにも! 誰にも死んでほしくないの! お願いだから…………戦うの……やめてよ………………うええ。うえええええん…………!」
何故今更になって兎葵がそんな事を言い出したのか俺には分からないが、クデキは複雑な表情で兎葵を見つめて押し黙っている。兎葵の泣き声に戦意を削がれているらしい。今は話しかけても大丈夫そうだ。
膝から崩れて子供のように泣き喚く兎葵に視線を合わせる。無愛想で変化のなかった顔が、滂沱の涙でぐしゃぐしゃだ。
「と、兎葵。お前……何で今更。俺と違って殺人にも躊躇いがないくらい擦れてたじゃないか」
「だってぇ……だってぇ…………!」
「…………だって?」
「有珠の死体だな」
奴が俺にも聞こえるくらいの声量で言った。
「ニンゲンは存外、鈍い生き物だ。死体を直接見てやらなければその死を実感出来ない。今の兎葵は喪失感に心を呑まれて錯乱している。気にする事ではない」
彼女の意思とは無関係に身体が部屋へと引っ張られていく。泣きじゃくる兎葵に抵抗の余地はなく、今度は閉じ込められる形でまた元の部屋へと収納された。直ぐに扉をたたく音が聞こえるが、もう二度と開く事はないだろう。とりあえず、決着がつくまでは。
クデキが再び目を開くと、息の詰まるような空気が帰ってくる。
「イナケイトイナケツヲクャチッケハチタレオデロコトタレワコヲニナ、チミノド」
「…………そりゃそうだ。俺達が戦う理由なんて単純だからな」
俺達は、互いを殺したい程憎い。
ただそれだけの理由でも、本能を駆る衝動には抗えない。
先に動いたのはクデキ。その拳は一撃で俺の右肩を消し飛ばし、決着までのカウントダウンを早めた。




