遠い世界の夢の中
自分で理屈をこねて近づくのはやめた。未紗那先輩に全てを任せ、俺は真正面から接近する。
「二人同時に殺してやるよ!」
カガラさんが薙刀を低く構えて突っ込んできた。それは流れる水のように澱みなく、或いは這い寄る暗がりのようにぬるりと。糸を通して俺にはこの人の動きが視えているが、視えているだけではかわせないのも確かだ。
「奪うなんて……心外ですね。私が貴方から一体何を奪ったと言うんですかッ?」
先輩が槌の先端で穂先を捌いてナイフによる接近戦を望まんと肉薄する。カガラさんは使用武器の手前それに乗るような事はせず、側面に退きつつ剣戟の壁を作って距離を維持する。俺の事は認識しているようだが先輩の方を余程気にしているようで、まるで攻撃が飛んでこない。たまたま武器の通り道に居る事はあるが、それも結局先輩が叩き落すのであまり関係ない。
―――まだ遠いな。
「私はあの事件で全てを奪われた! そりゃあそんな奴ばかりさ、てめえだってそうだろうよ。だが何だ? ちょっと気に入られたからって簡単に補充されてよお。何不自由なく育ったてめえに、理解してもらおうなんざ思っちゃいねえよ!」
「式宮君!」
背中を貫くような膂力に身体を潰されると、俺達の頭上を薙刀が掠める。何をされたかを考える暇もなく先輩と正反対の方向に回避。間もなく俺達の伏せた場所に柄尻が突き立てられ、床全体が地震も斯くやと思われる振動を起こした。
「ごあああああああああああ!」
「ぐあああああっぅぅぅぅうううう!」
振動が骨を通して伝わり、接触した部分が崩れ落ちる。それほどの振動は現実的な数値ではないだろうが、規定を前に物理法則は言いなりだ。先輩と同時に攻撃を浴びたからだろう、いつもより回復が遅い。
「てめえばっかり! てめえばっかり恵まれて! 不幸面してんじゃねえよお!」
「…………」
俺と戦っていた時にあった余裕がない。それは未紗那先輩との実力差が由来しているのではなく、単に今のカガラさんがあの人を嫌悪しているから。先輩の方は既に回復が済んでおり、口金部分を胴で受け止めて、彼女の脇腹に向かってナイフを突き立てていた。
「ぐぅ…………!」
「やめた方が身の為ですよ。貴方なら分かるでしょう。私は普通の人間には殺せない。対する貴方は幾ら強くても普通の人間……勝敗は既に決しています」
「ごちゃごちゃうるせえなあ! そうやって油断してると……」
「油断していると」
一旦距離を取ろうとしたカガラさんに合わせて未紗那先輩がステップで距離を維持して彼女の懐に向かってタックルをぶちかます。強い力に押されて彼女は態勢を崩し、先輩にマウントを取られる形で床に背中をつけた。
「何ですか?」
「…………痛い目を見るんだよ!」
そう言ってカガラさんが袖から出したのは手槍だ。薙刀と比較すると随分小さいが、針をそのまま大きくしたような武器は人を殺すのには十分だ。力任せに叩き付けられた手槍は先輩の側頭部を貫通し、その思考を一時的に殺害。無防備な身体への追撃として、かがらさんは頭蓋骨を梃子で壊すように引き抜いた。
「せ、せんぱ…………」
生命を共有する俺にもその一撃は浸透している。幾ら共有していると言っても回復の主導権を持つのは先輩だ。回復が遅い。遅すぎる。思考が死ぬまでは行かずとも、意識が希薄になっていくのが分かる。
「ふざけんな! ふざけんな! ふざっけんな! 何でてめえだけ! てめえばっかり! 私には夢を見る権利すらねえってのか!? 私には……普通のままである資格すらなかったってのか? 私が、私が殺人鬼だから!」
カガラさんが、泣いている。
俺には何も分からない。
何故彼女が泣いているのかも。何故彼女がそこまで恨んでいるかも。詳しい事情は知らない。知ろうとしなかった。それはマキナに何の関係もないから。俺がもっとあの人を知ろうとすればかけてやれる言葉もあったかもしれない。最早俺のことなど眼中にない。目の前に最大の仇敵が居るかの如く、その憎悪は未紗那先輩にのみ向けられていた。
「………………一番否定したいのは、貴方なんじゃないですか?」
何度も何度も拳を叩きつけられ顔がぐちゃぐちゃになりながらも、未紗那先輩は憐憫を滲ませた視線をカガラさんへと向けている。手槍による連撃は回復を済ませた先輩には通用しない。遂には槍を握る手首を抑え込まれ、そのまま骨を握り潰されてしまった。
「………………ぁぁああああああああああああ! クソ!」
無事な方の手で薙刀を地面に突きさし、泥臭く距離を離す。両手を使えなくなった長物に最早得物としての理はないように思うが、それでもカガラさんの殺意はゆるぎなかった。未紗那先輩も立ち上がり、己の武器を握り直す。
「私は、貴方が分かりません。私は、貴方を知りません。私は、貴方を理解出来ません。理解出来ないから憐れみを、せめて貴方にまともな感性が残っている事を信じていました。それは正しかったようです。今の貴方がどちらでも……望んで異常になった訳ではない」
どうしようもない衝動が、この世にはある。
どうしようもない生まれが、この世にはある。
どうしようもない拒絶が、この世界には満ちている。
何より普通を求められ、何より平穏を続けられ、何より善人でなければならない。世界がおかしくならずとも、この世は一日一善、より善くあろうと進み続けていた。世界平和なんてその最たる例だ。決して実現していないからこそ、世界はそれぞれの思惑を隠しながらも、表面上は歩みを揃えて発展してきたのではないか。
カガラさんは脇腹からの出血を抑えていない。その手段すら無いようだ。このまま放っておいても人体の都合で彼女は死ぬだろう。しかしその身体には微塵の脱力もない。最後の力を振り絞るように、果たしてその赤い糸は生命力に満ちていた。
「てめえさえ居なきゃ……全部、全部手に入ってたんだ。私の不幸は全部てめえのせいだ!」
「不幸を他人に押し付けないでください。幻影事件が起きて幸福だった人間はいませんよ。今までもこれからも。それでも私の責任があるとするなら―――貴方の孤独に気づいてあげられなかった。I₋n、貴方を怪物にしてしまったのは私の責任です。ここで―――全部終わりにしましょう。私には彼を先に行かせる責務があるのです。こんな所で止まってはいられない。こんな所で―――」
先輩が気を引いている内に、俺はカガラさんに繋がる糸を確かめる。あの糸を切って無力化する。先輩がくれた最初で最後のチャンスだ。結果がどう転がるかなんて分からない。だが俺はヒトデナシだ。約束は破るもの。この瞬間は、そうでありたい。
「しゃあああああああああなああああああああああ!」
未紗那先輩が一歩踏みしめた瞬間、既にその心臓はカガラさんによって貫かれていた。貫通力は『振動』で保障されているが、片腕しか使えない人間の動きではない!
「……ぐ」
意識が失われかけた次の瞬間、俺と先輩の『生命』の繋がりが閉ざされた。
自分が嬲られる限り俺が動けなくなる事を配慮したのだろう。だが、しかし。それは駄目だ。俺とのリンクをやめれば、先輩の身体は……。
いや、考えるのはよそう。カガラさんは俺に背中を向けて全くの無警戒でいる。わざわざ先輩がノーガードで殴り合いを続けているのは注意を引き続ける為。俺はポケットにナイフを忍ばせて、二人の元へ歩き出した。
特にカガラさんは瀕死だ。槌で肩を砕かれ、首を穿たれ、それでも動いている。動きがどんなに弱弱しくなっても、『振動』が殺傷能力を保障する。
「……カガラさん」
背後に立って声を掛ける。先輩の首を刎ねた手がぴたりと止まった。
「少なくとも俺は、貴方と出会えて。幸せでしたよ」
白い糸と、青い糸を切断する。動けなくなった彼女を押し倒し、左手首に嵌めたブレスレットのピンを捻って押し込んだ。その直後の事だ。俺の手が白く発光して、カガラさんの何かをジリジリと溶かし始めたのは。
「…………お、お前! なにしや…………! 何…………私が…………消える……やめろ……その光を私に…………!」
「俺はハイドさんに託されたんです。貴方を楽にしろって。だから……きっとこうするしかない。先輩の手を汚すよりは、ずっと良い筈です」
「やめろ…………やめろぉ……クソ……シャナ…………てめえさえ、居なきゃ…………!」
あくまで手を下しているのは俺なのに、カガラさんは最後までブレない。横で俺達の様子を見る先輩に向けて…………欲しい物を親に拒まれた子供のような眼で、
「――――――生活を返せ。幸せを。返せ。いい。どうでもいい。でも。わたしの。私の『初恋』だけは…………かぇしてくれよぉ………………どろ、ぼう」
何かを全て溶かされて、カガラさんは動かなくなった。彼女に繋がる赤い糸から識るに、マキナが俺に託したのは『心』の規定。諒子が東京で拾った部品の正体だろう。
俺はこの手で、篝空逢南の人格を消去したのだ。
出血多量なんて関係ない。それより前にあの人は死んだ。この身体が生物学的に死んだ所で、それは人間だった残骸が肉塊になっただけ。
「……見当違いも甚だしいですね。貴方が欲しい物を全て持ってるのは私ではなくて。もっと理不尽な存在ですよ。ねえ、式宮君」
「―――何の事か、分からないんですけど」
「ええ、それでいいと思います。分からないままでいた方が、お互い幸せだった。お互い幸せだったなら、こんな事には―――ッ」
先輩の体を樹が侵食し始める。慌ててリンクを試みたが、先輩の方から手を払うと共に断られてしまった。
「どうせ、私はクデキさんには勝てません。この力は元々あの人の物です。君の足を引っ張るくらいなら、ここに残って篝空さんを治療したいと思います。と言ってもクデキさんのいる階に進むには首藤さんから貰ったパスコードが必要なので、そこまでは同行します」
「クデキの居る階…………地下には居なかったんですね?」
「その気配は感じませんでした。ならば最上階で、彼は君との一騎打ちを望んでいる筈です。さあ、早い所向かいましょう。私の足が樹で固定されてしまう前に」
お前の話をしよう。
〘大好きな〙〘アナタの話〙
生まれた時から、お前は全てを失っていた。視える世界も歩く景色も絵空事。満たされた人生の過程が、お前を成熟させた。
〘アナタを想うと〙〘むずむずする〙〘アナタが笑うと〙〘熱くなる〙
節度のない情欲は淫蕩に堕ちる。
限度のない権能は強権に成りあがる。
幸福の反面、お前はいつまでも欠けている。
〘アナタが触れてくれると〙〘ドキドキする〙〘アナタに求められると〙〘全てを与えたくなる〙
偽物でも構わない。とお前は言う。
そのままでいてくれるなら。とお前は望む。
口先だけの愛も、十年もすれば真実だ。
見せかけの顔だったとしても、十年超えれば本性だ。
〘私はアナタを支配したい〙〘アナタに私を支配させたい〙〘<●>してるって何かしら〙〘<●>されてるって何かしら〙
お前の欠落は満たされない。
あらゆる願いが叶おうとも、その心が求める結果は生まれない。
たとえこの世界が終わろうとも。たとえこの世界が沈もうとも。
俺はお前を認めない。
〘知りたい〙〘教えて欲しい〙〘もっとアナタを観ていたい〙
アイしている。
愛している。
あいしている。
自分を実行する。
決して心は満たされない。無量の愛も無償の恋も、自分を否定するようなお前には過ぎた代物だ。
碧花さんからのパスコードとは、彼女が所有していたネックレスだった。階段ではなくエレベーターのタッチパッドにそれを翳すと、クデキの居る場所へ続く直通エレベーターになるという。箱の中に広がる赤い糸は『高度』の規定が干渉している事を教えてくれた。
「…………」
階層表示は加速度的に伸びていく。十階、二十階、四十階。建物の外観を無視した論外の全長。
次に扉が開いた時、硝子張りになった部屋の奥で、見覚えのある男が俺に背中を向けていた。
「…………まだまだ俺の運も捨てたものではないな」
男が腕を組んだまま振り返る。鍵穴の形に広がっていた瞳孔が施錠され、目の中に無数の鎖模様が張り巡らされる。首に巻きついていた糸は薄くなり、キカイたらしめるその姿を見慣れた形で見せつけてくる。
「もう一度お前を殺す好機に恵まれた。それだけで俺は…………幸せだ。初めまして。こんにちは。さようなら。有珠ではない者よ」




