宵闇に託した願い
三階は不気味な程静かだったが、それは人が居ないという意味ではない。赤い糸は人間を起点にしている。イコール、糸の先に人間が居る。先輩と離れたのはある意味幸運だ。『生命』を共有する俺達が唯一死ぬとすれば二人同時に『生命』で負担出来ない程の致命傷を負う事。銃弾で蜂の巣になってもまだ限界が訪れないなら大分際限はないとは思うが、それでも片方が全く別の方向に行ってくれるなら俺にも先輩にも死ぬリスクはない。
「…………どけよ、お前らを殺してる暇なんかないんだ」
階段から一歩身体を出せば、硝子で仕切られたオフィスから無数の銃弾が弾き出される。死ぬリスクはさておき、蜂の巣になるのは痛いで済む損傷ではないので、『速度』を使って素早く切り抜ける。俺の動体視力はまるでそれに追いついていないが、赤い糸から俯瞰して『先』を視続ければ壁にぶつかったり勢いが余るという事は起きない。
―――足が痛え。
俺の足が規定に耐えられているのは先輩のお陰だ。だが痛みはどうしようもない。こればかりは耐えるしかない。硝子に遮られるとどうしても突き破るか扉を開けるしかない為にやり辛かったが、無数の銃弾が勝手に破壊してくれて実際助かっている。すっかり愛用品となってしまったナイフで白い糸を切り、アキレス腱を切ってから顔をストンプして無力化。手加減している余裕はない。たとえ僅か一秒でも糸を読むのをやめればそこで俺は死ぬ。死ねば意識にタイムラグが発生してまた死ぬ。先輩が来るまで悪循環を続けるのは避けたい。
だから相手がどんな状態になっていても、俺は目もくれない。ヒュウっと呼吸が抜けていくような音も、鼻の骨を押し潰した音も―――比喩ではなく、本当に音を立てて壊れていく己の体の音も。
「何だコイ―――ッ!」
ナイフを持って飛び込んできた男の手首を返し、己の腹部に刃を突き立たせる。同士討ちも止む無しと発砲する奴らの懐に飛び込み、速度を乗せたラリアットをぶちかます。
バキッと折れたのは、俺の骨。
「―――アアアアアアアアアアアアアアッ痛!」
車両事故がなぜ恐ろしいかと言われたら、車の衝撃に人体が耐えられないからだ。俺は車みたいな強度もないのにそれ以上の速度を出しているので、当然腕が壊れる。間もなく『生命』が肉体の損壊を許さず回復。痛みで思わず零したナイフを拾い上げて、身体に手りゅう弾を括りつけていた男に向かって投げつける。糸に従って投げたので、刃の方が当たらないなどというまぐれは起こり得ない。ついでに手持ちの手榴弾を奪い、警察から借りたであろう重装備を着用した奴らに向けて投げつける。
盾で跳ねて俺の所に戻ってきてしまったので慌てて部屋から退避すると、今度は通路を封鎖していた盾に激突してしまった。
―――何処から来たんだこいつら!
ここに来た時にはいなかった。上の階から降りてきたと考えるのが無難だろう。
「抑え込めー!」
「………………くああああああああああああああ!」
『速度』も流石にゼロからは生じない。このまま圧し潰されたら制圧されてしまうだろう。アイツから貰ったプレゼントを使うべきだろうか。クデキ前には消費しないといけないだろうが、それはこの瞬間か?
「うおおおああああああああああああああああ!」
ナイフを持った手以外を緩衝材代わりに隙間を作り、己の身体もろとも闇雲に刃物を突き立てる。何度も何度も何度も何度も。盾を突き破るまで何度も何度も何度も何度も。手首の筋肉が断裂し、指が折れても、盾に向かって刺突を繰り返す。
奴らが使用しているのは対刃物、対鈍器の盾なもんで非常に刃が通りにくい。相手も俺の抵抗を封じようと、上半身を念頭に盾で抑えにかかってくる。
これだから装備を借りただけの素人は困る―――いや、助かった。
俺は完璧に詰んでいたが、固め方が甘かったお陰で活路が開かれた。拘束の甘い下半身に力を込め、『速度』を上限まで加速させた足を思い切り振り上げる。双方共に体が耐えられず、俺の右足と引き換えに数人の身体が爆散した。
「―――痛ぐぅぅぅうううううう!」
思考回路が焼き切れそうだ。麻酔で身体の部位が失われた感覚を背負うのは珍しい事ではないが、本当に部位が消えるとその実感として痛みが伴ってしまい、正気じゃいられない。目の前の相手を殺した事に何の罪悪感も抱く暇がない。
隣の人間が粉々に砕け散った事実に残っていた人間は戦意喪失。圧力で骨折した肋骨と右足の回復を味わいながら、俺は残る全員を気絶させた。
『速度』を使用出来るのは靴だけという事に相手が気づかなかったのが何よりも僥倖だ。規定は必要に応じて隣接する物理法則を無視出来るが、今回は無視せず、俺の足にも影響を受けさせた。結果として足が爆散してしまったが、『生命』様様だ。人海戦術を相手にはこれくらいの無法でないと対抗出来ない。それを実感した一瞬である。
「…………ハア、ハア、ハア、ハア」
ただし、疲労はどうにもならない。バッグさえあれば多少フォローは聞くが、兎葵が持ち逃げしてしまった。いや、戦力を考慮すれば怒る気にもならない。先輩は肉壁にしかなれないし、あの二人は銃弾を身体に浴びたらその時点で死亡するのだから。
「………………四、階」
この階に居た人間は全滅させたようなので、次の階へ続く階段を探さないと。少しでも疲労を軽減させようと壁に肩を引きずりながら闇雲に階層を回る。迷路ではないのですぐに見つかった。色々な意味で重い身体を引きずって近づいていくと、階段を下りる足音がどうもこちらに近づいてくる。
関係ない。相手が誰でも『速度』で突っ込めば即死だ。近くの角に身を隠して糸で様子を窺うと―――中身を読むまでもなく足音は途端に崩れ落ちて、この階まで転がってきた。
「あ……………あ…………」
顔を出してその存在を直に確認する。男の名前はラウンス・シグニールと言って、メサイア・システムの幹部の一人。つまりハイドさんと同じだ。彼は半ば以上切り裂かれた喉元を掌で掴みながら、水を求めるように、或いはゴボゴボと溢れる血液に溺れているみたいに手を伸ばして、喘いでいた。目は血走りながら明後日の方向を向きつつあり、そう長くない事が分かる。
―――『振動』の規定?
彼の死因は、『振動』による斬殺と示されている。それは良いが、クデキが殺したとするなら妙だ。そんな事しなくても殺せるのに、何故わざわざ自分の手の内を明かすような真似を。『振動』は先程も判明していたが、これが余裕の表れという奴だろうか。俺にはますます都合が良い。
ラウンスの絶命を見届けてから、俺は四階へ続く階段を上る。確か金融部門だったと思うが、銃火器と少々の爆発物を構える人間に違いはない。俺も同じように無力化して回るだけだ。
次の床を踏みしめた時、屍が絨毯のように広がっている事に気が付いた。
「―――は?」
俺が立ち向かうまでもなく、全員が等しく斬殺されている。首を、両腕を、或いは両足、或いはその全て。ついでのように心臓を一突きされた人間も居れば、天井にめり込む死体もある。間違っても未紗那先輩が露払いをしてくれた訳ではない。だってあの人は戦えないのだから。
不審に思って周辺を調べてみたが、生き残りは一人として居ない。中には他の幹部もいたが、例にもれず即死している。手に握っているショットガンは縦に切断され、防刃チョッキは何の意味もなく貫かれ、ヘルメットは文字通り兜割りにされている。
ふと、電話が掛かってきた。相手は。
『…………もしもし』
『………………よお。まだ、生、き。てるか』
ハイドさん、だった。
その声は弱弱しく、掠れている。既に二人の幹部が死に、他にも多数の人間が殺害されている。それでいて彼の声にいつもの覇気がない。どういう状況かはたとえ糸が視えなくても明らかだ。
『……ハイドさん。何処に居ますか』
『――――――エレベ』
十分すぎる。エレベーターを四階に呼んで扉の前で暫く待っていると、重々しい音を響かせながらエレベーターのドアがぎこちなく開いた。
密室に充満していた臭いが解き放たれる。いつにも増してむせ返るような血の臭い。箱の中は血まみれで、中にはハイドさんが壁に凭れたまま俯いて倒れていた。肩から腰にかけてを袈裟斬りにされ、夥しい量の出血が彼の身体を染め上げている。幸いにも傷口は他に比べたら浅いが、それでも失血死は時間の問題だった。
「は、ハイドさん!」
電話を切って駆け付ける。俺の呼びかけに答える余裕もないのか、ハイドさんは携帯を落として、それでようやく顔を上げた。
「………………はは…………らしくねえ……事。を。しちまったぁ」
「何で。いやそれは……大体何でこんな所に居るんですか! いつもの貴方なら、理由つけて隠れておくでしょ!?」
「…………I₋nを……取り戻さなきゃな………………生きてん、だから。俺が。責任。持って」
「カガラさんを……? 裏切りがバレつつあるみたいな事言っておいて、そんな理由でここに来たんですかッ?」
「そんな理由…………か。なあ、シキミヤよお。てめえは……知ってる。か。アイツの。秘密」
「……未紗那先輩が教えてくれましたよ。あの人、人格が破損してるんでしょ。あの服を着ていないと人格が保てなくて。幻影事件の際にそうなっちゃったんですよね。それとは全く関係なく元々監禁されてて……元々の親が誰だったのかは分からないって」
「…………携帯」
彼の落とした携帯を手に取って渡すと、血濡れた指が画像ファイルをさしていたので開いてみる。
そこには、I.nというイニシャルのつづられた小さな鞄が映っていた。
「逢南、アイツの。本名……示すイニシャルから…………いい名前、だ……ろ」
画像の次はメモアプリを示している。言われた通りに開くと、そこには今日に至るまで彼があの人の過去をどんなに調べ上げていたかが事細かに記載されていた。未紗那先輩が覗き見た情報とはこれなのだろうか。
それによると、カガラさんは生れながらに殺人鬼としての趣味嗜好を持っていた異常者だったようだ。その証拠となる書類の作成者は、他の文章から察するに彼女を幻影事件まで監禁していた一家の主。
彼はあまりにもお節介な―――まるで善意を体現したメサイアのような人間で、殺人鬼たる彼女を更生させる為に誘拐して、監禁したのだそう。その彼が作成した書類にも両親の記述はない。つまりこのとんでもないお人好しは外を出歩いていた殺人鬼を拉致監禁、幻影事件の時まで再教育していたのだ。
つまり監禁は監禁でも、殺人鬼としての性質が取り除かれる時まで。また、幻影事件の影響から彼女を守る為に、この男は閉じ込めていたのだ。結果的にハイドさんが彼女を助けたのでその判断は間違っていなかった。
「この人は?」
「…………幻影事件で。死ん。だ」
「……」
メモの最後には、自分に対する意思表示と前置きした上でこんな一文が綴られている。
殺人鬼が相手でも誘拐は犯罪だ。だけどそれで殺人鬼が更生して真っ当な道を歩めるなら、俺はその行いに報いてやらないといけない。
「………………貴方が危険を承知でカガラさんを助けようとした理由って。これですか?」
「…………更生。したんだ。アイツは……もう。殺人鬼、じゃねえ。もっと真っ当に……そんな身勝手な善意で…………I₋nは生き残ってくれ。た。だったら……助けた俺が、責任持つしかねえ。だろ」
アイツには、幸せになって欲しい。
自分の事なんて、気にしないで。
殺人鬼としての記憶なんて、思い出さないで。
それがせめてもの、『育ての親』に対する報いだろうが。
口には出さなくても、ハイドさんの糸がそう言っている。握りしめた手は徐々に冷たく、固くなっていくようだ。あまり時間は残されていない。この光景を一緒に見ている筈の兎葵も来ないならば、俺にはどうしようもない。
「…………頼む。シキミヤ。アイツを…………楽に。してく……れ」
「楽に……?」
「あの服は………………もうねえ。殺人鬼は…………まと。に。生きられ。ぇ。だ………………ら。だから、せめ。て」
それは死に際の人間とは思えない程力強く、俺の肩を掴んで。睨みつける。
「……篝空逢南として、てめえが楽にしてやれ。俺を助けると思って、託すからな」
五階。
本来は女性だけで固められたエリアだったのだろう。そこかしこに首が転がっている。
「気分がー悪いなあ。へっへっへ。なあ、よお。お前もそう思うだろお―――しきみやうずき」
ワンショルダーの黒いロングドレスは、スカートの部分がレースになって透けている。それでいてスリットは太ももの付け根まで入っており、そこからしなやかな左足が見せつけるように露出している。
髪を団子のように束ねた女性は、背中で俺の存在を察知すると踊るように振り向いた。
「…………カガラさん」
「おお。そういう名前らしいなあ。悪いがよお、ここの守りを任せられちまった。大人しく帰ってくれるんだったら、見逃してやるよお」
「―――そんな事言って、背中向けたら刺すつもりじゃないですか。ねえカガラさん。貴方は今、俺を殺したくてたまらない。違いますか?」
「…………へっへ。そうだなあーずぅっとずぅっとてめえにはイラつかせてもらったんだったあ。長い長い眠りがよお、不愉快で堪らなくて壊したかったんだ」
カガラさんが床に向かって手を伸ばす。握られていたのは―――実物を見るのは初めてだが、薙刀だ。そんな心得はない筈なのに、彼女はまるで使い込んでいるかのように斜めに構えを取って、悪辣な笑みを浮かべた。
「クデキん所に行きたいなら、まず私を殺すこったな」
「…………」
俺もナイフを握って、順手で構える。リーチの差は明白。それでも俺はやらないといけない。この先にクデキが居ると言うなら、なんとしてもここは押し通らなければ。
「ああいいぜ。いいぜえ。ずっとそうしたかった! こうしたかった! 私だけを見てくれるこの状況を、ずっと待ち望んでた! ハッハハハハハハ!」
薙刀の刃を地面に叩きつけると、床に転がっていた死体が木端微塵に粉砕される。改定された振動が地面を通して分解したのだ。
「さあ邪魔はねえ! 全力で殺し合おうぜ!」




